喉に刺さる炭酸が痛い。梅雨の合間に顔を出した太陽がここぞとばかりに容赦なく照りつけるものだから、わたしは研究会に持参していたサイダーの残りを一気に飲み干した。
落とした視線の先には、和谷から借りた秀策の棋譜。『完本 本因坊秀策全集』とだけ大きく書かれていて他は無地であるシンプルな表紙のその本は、全五巻で構成されており、今わたしが手にしているのはそのうちの第四巻。ややくたびれているその本が傷つかないように、丁寧に鞄に仕舞って深く息をついた。
「…わたしってほんとばか。」
まだ梅雨は明けていないはずなのに、気まぐれに現れた太陽は、朝から夕方が迫るこの時間までずっと頑張ってくれている。
研究会が開かれていた和谷の家から出てくれば、忽ち湿った空気が肌にまとわりつく。不快極まりないが、出掛ける日に雨に降られるよりはましだと心を落ち着かせる。
最寄りの駅まではだいたい十分くらいだったか。一人で歩く駅までの道のりは、ただひたすらに長い。行きは伊角くんと本田くんと一緒だったからあっという間に感じたのに。
今までも、何度か和谷の家には来たことがあった。でもそれは、今日のような若手で集まる研究会への参加のためであって、それ以外の理由でここへ足を運ぶなんてことは、余程仲の良い友人かそれこそ彼女でない限りまず無いだろう。
「…色恋沙汰に、うつつなんて抜かしてられないのよね」
自分に強く言い聞かせるように呟く。そう、全く以てそれどころではないのだ。それなのに。
僅かな隙間から生まれた気持ちがゆっくりと揺れ始めて、それからはもうずっと、さざめく何かがわたしの心を支配しているのだ。
*****
梅雨が明ける頃に迫るプロ試験。昨年は伊角くん、本田くん、門脇さんの三人が合格した。
わたしにとって、院生でいられる最後のチャンスである今年こそは。ここ半年くらいは常に上位をキープできていたし、今年は予選もない。絶対にプロ試験、受かってやるんだから。
気合と緊張で顔が強張っているところを、棋院でたまたま遇った和谷に見られてしまった。
また少し、背が伸びたのだろうか。顎のラインもシャープになって、肩に馴染んだダークグレイのスーツを着こなした和谷が少しだけ大人びて見えた。「よう、久しぶり」なんて目を細めて声をかけてくれるものだから、思わず胸がきゅっとなる。
「もうすぐプロ試験だよな」
足元を見ながら小さくうん、と頷く。隣から「頑張れよ!待ってっから!」と明るい声が聞こえてきた。口先を尖らせて「余裕ねぇ」なんて言えばそれが“わたしらしい”のだろうけど。駄目だ、やっぱり和谷の顔を見れないや。お気に入りのコンバースから目が離せなかった。
自身がプロになってからも、同じ道を追いかける院生のことをいつも気にかけてくれている。それはもう、どこまでも昔の和谷のままで、わたしは余計に胸が苦しくなるのだ。
いつから和谷に対してこんな気持ちを抱(いだ)き始めたのだろうか。少なくとも、和谷が院生だった頃は違うから、ほんのここ数年の間のことなのだが。
いや、もしかしたらそう思い込んでいるだけかもしれない。院生時代から、心のどこかでは意識していたのではないか。それでも自分で気付かないふりをしていたのかもしれない。
やがて和谷はプロになり、わたしは置いてけぼりとなった。その頃から、自分の胸の真ん中辺りにぽっかりと空いた小さな穴に気付き、そこから寂寥感と曖昧模糊な感情がぽろぽろと零れていったのだ。
別れ際に、次の土曜日に自身の家で開かれる研究会に誘ってくれた。若手のプロや院生と、垣根を越えて囲碁を学べる貴重な機会でもあるし、顔馴染みのメンバーばかりで肩を張らずに参加できるから、と和谷は言う。プロ試験前で緊張しているわたしをリラックスさせようと彼なりに気を遣ってくれたのであろう。
和谷の気持ちは素直に嬉しかった。けれども、わたしにとって今一番大事な時期だし、やっぱり断ろう。今回はちょっと…まで言いかけたそのときだった。
「あ、ホラ、あの棋譜の続き、また貸してやるぜ?な、気軽に来てくれよな!」
そうだった。第三巻、返さなきゃ。随分と前に借りたままだ。
昨年辺りから和谷に借り始めた本因坊秀策の棋譜。さすがに完本なだけあって全五巻もあり、一度に全てを借りることはできない。棋譜並べは勉強になるしと借り始めた頃には、自分の気持ちの変化に気付いていた。
勿論、毎日少しずつ棋譜並べをして勉強はしているつもりだ。けれども勉強以外の理由として、次にまた逢えるようにと小狡い思いを忍ばせ、不定期に誘われる研究会の度に借りてしまうのだ。
今回もこうして第三巻を返し、第四巻を借りることを口実に和谷に逢おうとしている自分がいる。そんな自分が情けなくて、ほとほと嫌気がさす。
「…わたしが行って、研究会のレベル、下げない…?」
恐るおそる聞いてみると、和谷は思いきり眉間に皺を寄せた。
「だからぁ!前にも言ったけど、そんなこと絶対にねェっての!強い相手と打つのも勉強になるってのは、奈瀬も分かってるんだろ?」
「…うん」
「………今年こそ、受かって欲しいんだよ。お前には。」
瞬きほどの間(ま)を挟み、トーンを落とした声が肩越しに聞こえてきた。何やら特別な意味を含んでいそうなその言葉を、わたしは聞き逃さなかった。僅かに跳ねる心臓を気にしないようにして、和谷の顔色を伺いながら聞いてみる。
「それってどういう意味?」
「あ、いや…、プロの場でもお前と勝負したいってことだよ!」
慌てているような素振りを隠しきれない和谷に、「フーン?」と目を細める。自然と笑みが零れたわたしに、和谷もつられて笑った。いつの間にか、さっきまでの陰鬱な気分は何処かへ飛んで行ってしまったようだ。
「…ありがとね、和谷。じゃあ来週の研究会、お邪魔するわ。プロ試験前でピリピリしてて、見てるだけかもしれないけど」
「おう。差し入れ、宜しくな!」
白い歯を見せて笑う和谷の顔がとても眩しかった。ああ、今やっと、ちゃんと和谷の顔を見れたんだ。
*****
駆け足で過ぎ去る日々は、季節の移ろいすら感じる隙を与えない。約束の土曜日は瞬く間にやってきた。
和谷の家の最寄り駅に着いたときに、肌にじりつく陽射しに気が付いた。もう梅雨が明けているのかと思わせるほどの快晴。昨日も雨で、明日も雨予報だなんてとても思えないくらいだ。晴雨兼用でもないただの折りたたみ傘よりも、日焼け止めを持って来ればよかったなどと、小さな後悔を零す。
和谷の家に向かうまでの道の途中、伊角くんと本田くんに会った。久しぶりに会えた二人と他愛のない会話をしていると、時間が過ぎるのはあっと言う間で、心の準備をする隙(ひま)もなく到着してしまった。
古めかしいチャイムは、いつもちゃんと鳴っているのか心配になるくらいだ。ガチャリと鍵を開ける音とほぼ同時に扉が開く。
「今日はサンキューな!ちょっと暑いけど、どーぞ。」
笑顔で出迎えてくれた和谷にお邪魔しますと言い、順番に入って行く。梅雨時だからか、湿っぽい木の匂いを感じた。
お世辞にも広いとは言えない玄関には既に誰かの靴がいくつかあって、最後に入ったわたしの靴は、随分と框から離れてしまった。他の人の靴を踏まないように、大股で框へ上がろうとする。そのとき僅かに体勢を崩してしまい、よろけてしまった。
すると、誰かに腕を掴まれ身体を支えられた。驚いて顔を上げると、和谷が「大丈夫か?」なんて男の人みたいな顔をするから、慌てて「ごめん」とそっぽを向く。心拍数はみるみるうちに上がり、顔面に血が集まる感覚が自分でも分かった。
「これ、差し入れ!」
和谷の胸に些か乱暴に袋を押し付け、逃げるように部屋へと進んだ。
「サンキュー!おっ、美味そう」
美味しいに決まってる。少し前から世間では話題だったアメリカのドーナツチェーン。電車の乗り換えで新宿を通ったついでとはいえ、わざわざ並んで買ったのだ。並んだとはいっても、日本初上陸で当初話題だった頃に比べたら大したことのない列だったのだが。以前に友達と食べて美味しかったから、また食べたくなったというのもある。
鼻歌交じりにさっそく袋から箱を取り出し部屋へと運ぶ和谷。意外と甘党なのも、もう随分と前から知っている。碁盤と布団しかないような殺風景な和室の片隅で、やたらとポップな箱が異様な存在感を放っていた。
詰碁集や棋譜が乱雑に積み重なっている部屋の隅。そこに腰をおろした和谷は「忘れないうちに…」と独り言のように呟いて、ごそごそと本を一冊出してきた。
「奈瀬。これ、秀策の棋譜の続きな。」
「あ、ありがと。」
「秀策?」
先に来ていた進藤が、碁盤を囲む輪の中からひょっこり顔を出した。
「ああ。秀策の棋譜の完本だよ。お前、秀策マニアだからこれくらい持ってるだろ」
第一回北斗杯での一件依頼、進藤が本因坊秀策に何やらただならぬ拘りがあるということは、塔矢アキラを筆頭に関係者ならもう誰もが知っていた。わたしもそのときの様子を和谷から聞いていたから何となく知っている。その真相は結局謎のままだが、こんなふうに“秀策マニア”だなんてからかわれることは、しばしばあるようだ。
その度に進藤は口先を尖らせムッとした顔をする。院生時代よりはだいぶ落ち着いたように見えたが、こんな顔をするとやっぱりまだまだクソガキね、と笑ってまたからかいたくなる。
「マニアって言うなよ和谷ぁ!…あ、これか。オレ、この前塔矢と神保町行ったとき、古本屋でやっと見つけたんだよなーこれ」
棋譜を見てふっと微笑んだ顔が、“あの”進藤とは思えないくらい大人びて見えた。ほんとうに、なぜ進藤は秀策のことになると、こんなにも優しくそして愁いを帯びた瞳を揺らすのだろうか。
塔矢アキラとはライバルであり友人でもあり、プライベートでもよく逢っているということは、もはや囲碁界だけでなく世間も知っている。神保町に軒を連ねる古本屋で、古い棋譜集め巡りに勤しんでいる二人の姿は容易に想像できた。
「ほらやっぱ持ってた。」
ケラケラと乾いた笑い声をあげる和谷。進藤はフンと鼻を鳴らし、自分が持っている秀策の棋譜だと分かるや否やさっさと元いた碁盤の輪の中に戻ってしまった。
進藤がプロ一年目の五月あたりからぱったりと手合いに来なくなった時期がある。それは、ただの怠慢なんかではなく、何か深い事情があったらしい。伊角くんが進藤の立ち直りのきっかけとなったのは以前ここで聞いた。それ以降、進藤の碁に対する姿勢が変わった、ともどこかで耳にした。今も、熱心に碁盤に目を向けている進藤を見て、わたしも頑張らないと、と思えるのだ。
いや、進藤だけではない。和谷も、伊角くんも、皆みんな。プロになったら誰一人として決して後ろを見ずに、たまに立ち止まったとしても、前へ前へと進み続ける。囲碁の道は果てしなく続く。わたしも、その道を歩いていきたい。
渡されたばかりの第四巻を持つ手に力が入る。自分の鞄の横に置いて、代わりに鞄の中から第三巻を取り出し和谷に返す。
「和谷。はいこれ。ありがと。」
おう、と伸びてきた手に本を渡す。僅かに触れた指先が熱くなる。こめかみに揺れる栗色の髪の毛を耳にかけるふりをして、熱くなった指先を冷ました。しっかりしないと。今日は勉強しに来たのだから。
先に来ていた冴木さんと小宮の対局が終わり、一手目から打ちながらの検討が行われる。次に対局するのは進藤と和谷のようだ。
わたしは今日は対局しないつもりで来た。もともと、皆の対局をしっかり目に焼き付けて勉強するつもりでいた。些細な一局だったとしても、プロ試験前に負けたりして気持ちが揺らぐのが怖かった。
「進藤。ワリィけど、俺、先に奈瀬と打っていいか?」
「へっ?!」
和谷の唐突な提案に、わたしは思わず変な声をあげてしまった。
「おう、いいぜ!んー、じゃあ伊角さん打とうぜ!」
冴木さんと小宮がまだ検討しているから、伊角くんを誘う進藤。
「うん。そうだな」
返事をした伊角くんは、進藤と本田くんも一緒にもうひとつの碁盤がある方へと行ってしまった。取り残されたわたしと和谷。おずおずと躊躇いがちに和谷に声をかける。
「…ねえ。わたし、前言ってたように、今日は皆の対局を見て勉強したかったんだけど…」
今の話を聞いているのか聞いていないのか、わたしには分からなかった。和谷は無言で誰かが持参した折り畳み式の碁盤セットを持ってきて腰を下ろし、真っ直ぐとわたしを見据える。
「言ったろ?お前には、今年こそ受かって欲しい、って」
トーンダウンしたその声が、棋院でこの研究会に誘われたときの───あのときの和谷と重なる。
「ここで勝とうが負けようが、それが未来の奈瀬の碁に繋がっていくんじゃねぇのか?」
どこまでも真っ直ぐなその言葉は、一瞬にして鮮明にわたしの中を巡る。瞬(まじろ)ぎひとつせずに見つめる和谷の瞳から、目を逸らせなかった。
「……言ってくれるじゃない。…フン、負けないんだから。和谷にも、プロ試験にも…!」
「それでこそ、奈瀬だよな!さ、始めようぜ!」
───そうだ。わたしの碁を打たなきゃ、未来のわたしの碁には繋がらない。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。心を落ち着かせ、碁笥を受け取る。指先が触れても、今度は心が乱されない。うん、良い感じだ。
*****
「…俺の三目半の負け、か…」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
落ち着いて打てたと、自分でも思う。相手が昔からよく知る和谷とはいえ、今はプロ棋士。プロ相手にここまで打てたのは、わたしにしては上出来だ。この冷静さをプロ試験本戦でも忘れずにいたい。
挨拶の後にテキパキと分けられていく白と黒。どんなにベテランのプロであろうが初心者であろうが、この作業は大抵自分達でする。最低限のマナーでもあるから、自然と身体に染み付いてきたものなのかもしれない。その作業中は無言のときもあれば雑談を交えるときもある。
ふと周りを見渡してみると、進藤と伊角くんの対局はまだ終わっていないようで、その様子を見ている冴木さんと、そのまた奥ではいつの間にか対局を始めていた小宮と本田くんがいた。
「せっかくだし、俺らも一手目から検討するか」
「うん」
ジャラジャラと碁石が碁笥にしまわれていく音が響く。対局中はピンと張り詰めていた緊張の糸が、対局が終わりこの音を聞くと少しだけ緩む。この空気感は、不思議なことにいつまで経っても慣れないのだ。勝った後では高揚感があるし、負けていれば大抵は落ち込んでいる。気持ちは違えど、緊張感だけは微かに残ったままのこの曰く言い難い感じを、皆は一体どう思っているのだろう。
丁寧に一手目から検討を始める和谷。「ここのシノギ、強気で来たよな。良かったぜ」と自分でもうまく打てたところを和谷に褒められて、なんだか喉の奥がくすぐったくなった。
「…奈瀬らしくて、良い碁だった。」
「あ…ありがと…」
「俺は、相手が院生だからって油断した訳でも、ましてや手加減した訳でもない。お前、強くなったよ。今年こそ、受かるよ」
「そう…かなぁ…」
「頑張れよ。…応援してる」
確かに手加減された感じはなかった。そもそも和谷はそんなことをするような人ではない。いつだって全力で向かってくる人だ。今だって真っ直ぐにわたしを見つめている。わたしは和谷にもう一度礼を言うが、伏し目がちの飴色の瞳の上では長い睫毛が揺れていた。
自分達の検討を終えてからは、少し前に終局を迎えていた進藤と伊角くんの対局の検討を見ることにした。やはりこの二人の対局は勉強になる。院生になったばかりの頃の足踏みしていた進藤とは別人のような、腰を据えた慎重な碁を打つ。伊角くんも院生時代のような迷いは一切なく、そこに居る二人はもうわたしの知る二人ではないようだった。
丁度小宮と本田くんの対局も終わったようだ。小宮はプロ試験前に早碁でもしていろんな人に鍛えてもらっているのだろうか。来てからもう既に三局もやっている。今の一局は検討せずに、一度皆で集まってお菓子やジュースを飲みながら雑談することになった。
「奈瀬ちゃん、和谷宅研究会久しぶりだよね。やっぱり女の子が来ると差し入れとか一気にオシャレ度上がるよねー」
冴木さんは、わたしが持ってきたドーナツの箱から一番甘さが控えめそうなものを真っ先に選んで言った。どうやらいつもはピザをとったりポテチにコーラに、間食を挟むときはカップ麺だったり随分とジャンキーなようで、話題の店のお菓子の差し入れなんてあまりないそうだ。
「これ、あかりも美味いって言ってた!すっげー甘いけど、まあまあ美味いな」
進藤が頬張っているドーナツは、もとより甘いと有名なこの店の中でもかなり甘いと言われている部類のものだ。そりゃあそんな感想にもなるだろう、とわたしは小さく噴き出した。
「並ぶの大変じゃなかったか?」
一番オーソドックスなドーナツを選んだ伊角くんがそう聞くから、わたしはううん、と首を横に振った。
「日本に初出店したばかりの時はそりゃあもう二時間待ちとか普通だったけど、今は全然。乗り換えついでにサクッと買えちゃうくらいだもの」
へぇ、と息を洩らしながら物珍しそうにまじまじとドーナツを見る伊角くんに、年寄りクセェぜ伊角さん!と和谷は隣で笑っていた。
「甘いもの食うと疲れが吹っ飛ぶよな!ありがとな、奈瀬」
そうやってまた、眩しい笑顔をするのだ。和谷義高という男は。
そんな笑顔を見ようものなら、例えばそれが少しでも囲碁から離れていれば尚更に、わたしの心臓をすぐおかしくしてしまうのだから困るのだ。
わたしは慌てて和谷から視線を逸らし、個人用に持参していたサイダーを飲んだ。すっかりぬるくなってしまっていたそれは、ドーナツの甘さの方が勝っていたからか、無糖のサイダーのような味がした。
「何?サイダー持ってきたの?こっちに冷えたのあるのに」
和谷が1.5リットルペットボトルの同じ銘柄のサイダーを冷蔵庫から出してきた。
「あっ、いいの!今日暑くて電車乗る前に思わず買ったやつだから」
「そっか。」
「確かに今日暑いよなー。和谷、このサイダーもらうぞ」
自分の紙コップを持って来る本田くんの後に、進藤が「オレもオレもー」と続いた。
「ていうか和谷んち暑いよ。いい加減クーラー買ったら?暑いと集中して碁打てないんじゃないの?」
「いいんだよ、伊角さん。俺、冷房苦手だし、扇風機の風の方が好きなんだよ。意外とこの部屋風通しも良いだろ?」
そうかなぁ、と力無く笑う伊角くんの向かいで「少しはここに呼ばれる人間の立場にもなってくれよなー」と小宮が汗を拭って笑いながら文句を言う。
確かに昔から和谷はクーラーが苦手だった。院生に入ったばかりの頃、お腹を冷やすんだとかって和谷が苦笑交じりに言っていた記憶がある。
この部屋は東南角部屋で窓も一応南北と東側にあるからか、風は確かによく通る。わたしもクーラーが好きではないから、これくらいが丁度いい。小宮や進藤は暑がりのようでやや不満げのようだが。
それからひとしきり雑談をして、誰からともなく次の対局相手を決め、研究会の続きを始めた。わたしは、和谷との一局の後は結局誰とも対局せず、見学だけしていた。
でもそれは、研究会に来たときに感じていた“恐れ”からではなかった。わたしは、わたしと和谷のさっきの対局を大切にしたかったんだ。この研究会に誘った和谷からしたら、プロと打つ良い機会なのにと言いたいのだろうけど。
「和谷。わたし、そろそろ帰るね。今日は誘ってくれてありがと。」
冴木さんとの対局が終わって少しばかりの検討も終えた和谷に声をかけた。
「えっ、もう帰るのか?もっと打ってけばいいのに…」
「いいの。今日、和谷と良い碁が打てたこと、感謝してる。」
「でもホラ、プロと打つ良い機会なんだし…」
ほら。やっぱり。想像していた通りの言葉が和谷の口から出てきて、わたしは思わず笑みが零れた。
「和谷だって、立派なプロ棋士でしょ?」
口角を上げてそう言うと、和谷は目を丸くして頬を僅かに紅潮させた。その先の言葉が出なかったようで、まるで降参するような口振りで「分かったよ…」と言った。
*****
「…わたしってほんとばか。」
梅雨の合間の太陽は、どこまでも気まぐれだ。汗が首元を隠れて流れる。東南角部屋を吹き抜ける風が心地の良かった和谷の家を一歩出れば、首に張り付く髪の毛が鬱陶しい季節が元通りやってくる。晴れているのにこの湿度ときたものだから、やっぱり梅雨はまだ明けていないことを思い知らされる。
灼けたアスファルトの切れ間から顔を出した名も知らない花を見つめながら、今しがた鞄にしまった秀策の棋譜を思い出す。
和谷との曖昧な関係を繋ぎ留めるためにこの棋譜を借りている、だけじゃない。毎日勉強だってしている。今日も良い碁だって打てた。プロ試験本戦は、もうすぐそこまで来ている。
「…色恋沙汰に、うつつなんて抜かしてられないのよね」
自分に強く言い聞かせるように呟く。そう、全く以てそれどころではないのだ。それなのに。
さざめく何かがわたしの心を支配している。その“何か”が何だったのかも、今日和谷の顔を見てその声を聞いて、もう嫌というほど充分に分かった。
「……抜かしてられない……ううん。でも、やっぱり。」
勢いよく顔を上げて、口を一文字に結ぶ。逡巡するのは、もうやめよう。今のわたしの瞳は、和谷のように真っ直ぐだろうか。
駅までの道のりにコンビニがあったはずだ。そこで、行きに買ったサイダーと同じものを買おう。どこにでも売っているものだから、きっとあるだろう。
晴れている今の空とは違う、梅雨空のような鈍(にび)色の気分を、少しでも晴らすために。
*****
コンビニでサイダーを買って出てくると同時に、自分の名前を呼ばれてわたしはさすがに驚倒した。勢いよく振り向くと、きまりが悪い顔をした和谷が息を切らせて立っていた。
「驚かせてごめん…」
「和谷!どうしたの?!」
「いや、駅まで送ろうと思って…」
どことなく宙を泳ぐ視線。額には汗を滲ませている。呼吸は少しずつ落ち着いてきたようだ。まだ陽は長く辺りが薄暗いわけでもないのに、そんな理由でわざわざ自身が主催の研究会を抜けてまで走って来てくれるなんて。
「え、いいのに…研究会中でしょ」
素直にありがとうと言えない自分がつくづく可愛くない。
「あ、いや…言いたいこともあったしさ」
何?と即座に聞いてしまい、和谷は尚更しどろもどろになった。心臓が煩くなってきたのが自分でも分かった。
「プロ試験、頑張れよ」
「うん。さっきも聞いたけど…」
「えっ…と、研究会!また来いよ」
「次だって負けないわよ?」
「秀策の棋譜も……あ、次で終わりだったな」
自分で言い出して自分に突っ込みを入れる。困ったように笑う和谷の、歯切れの悪い言葉が続く。わたしは矢も盾も堪らなくなり、意を決して口を開いた。
「…あのね、和谷。」
二の足を踏んでいるのはわたしだけじゃないのかもしれない。和谷の様子を見ていれば何となくそれは感じる。
───それならば。
ふたり並べている肩。和谷が僅かに先をゆく。わたしは足を止めて、遂にその言葉を放った。
「…わたしね、和谷が好きみたいなの。」
「へっ?!」
振り向いた和谷の目は真ん丸で、声も裏返っていた。
「…だから、この棋譜の五巻を借りた後もずっと…、研究会以外で和谷に会う口実が欲しい」
「でもおま…今、大事な時期…」
「分かってる。だからこそ、今答えを聞かせて欲しいの」
恥ずかしくても照れくさくても、絶対に目を逸らさない。自分の気持ちに嘘をつきたくないし、隠したり気付かないふりをするのも、もうやめたのだから。
「…俺も……奈瀬が好きだった。…ずっと前から。で、でもっ…!お前の邪魔だけは……したくないんだ。」
「…邪魔じゃない。って言ったら?」
「え、」
「わたしもね、色恋沙汰にうつつなんか抜かしてられないって、ずっと思ってた。…でも違かったの。」
「違う…?」
「今日の和谷との対局で分かったの。和谷の言葉にすごく励まされた。…ほんとうに、頑張れる気がするの。和谷が応援してくれていたら。」
足元を見つめて口を噤む和谷。何を考えているのだろうか。和谷からの言葉を待っている時間が、途方もなく長い時間に思えた。
「……本当に、邪魔じゃないのか…?」
恐るおそる出てきた掠れた声に、わたしは「邪魔じゃない。」と間髪入れずはっきり返した。
「…分かった。その……つ、付き合うとか、そういうのはプロ試験の後で考えようぜ」
「…うん」
頬を紅潮させた和谷の額には、数分前よりもびっしょりと汗をかいている。わたしの握られた拳の中も、汗びっしょりだ。
「でも俺、試験中もずっとお前を支えたい。邪魔になったらすぐに言っていいから、その……メールとか…していいか?」
「もっちろん!試験期間中、いーっぱい応援してよね!」
二、三歩前へと軽やかに飛び出すお気に入りのコンバース。肩を並べにっこりと和谷の顔を覗き込めば、やっといつもの和谷の眩しい笑顔に戻った。
*****
和谷が駅まで送ってくれた後に乗った電車の窓から見える空は、嘘みたいな青だった。東京の梅雨空では絶対に見られないようなその青に、一瞬で心を奪われる。
乗り換えついでに降りた土曜夕方の新宿駅東口は、行楽客や外国人観光客で改札口の周りは人で溢れ返っていた。地下通路を辿れば乗り換えがスムーズだけれど、軽い足取りは自然と外へ向かう階段を昇る。昇りきって建物から出れば、忽ち白い光に包まれる。わたしは思わず目を細め、明順応を待つ。駅前のロータリーに申し訳程度に植えられた街路樹に、必死にしがみついて鳴く蝉の声が聞こえてきた。それは蝉時雨と呼ぶにはまだ早いが、梅雨の合間の太陽に喜んでいるように高らかに鳴いていた。
ふと見上げたアルタビジョンには天気予報が映っている。明日の雨予報の次の日からは、曇り、そしてその後は晴れのマークで埋め尽くされていた。“来週には梅雨明けか”の文字を見つけて、そのまま新宿の狭い空を仰いだ。
深呼吸をひとつして、サイダーをまたひと口飲む。“強炭酸”とラベルに記されているそれは、やっぱり喉に刺さって痛かった。
乗り換えた電車の窓から、徐々に霞んでゆくオレンジに沈む西新宿の高層ビル群が見えた。秀策の棋譜が入った鞄を大切に抱え、和谷との対局と帰り道での出来事に思いを馳せる。甘い夕暮れの向こうで、走る鼓動と電車の走行音が重なった。
───梅雨が明ける。余計なことで悩んだり迷ったりするわたしは、この梅雨空に置いていくんだ。これからのわたしには、和谷の言葉がある。太陽に向かって真っ直ぐに咲く向日葵のように元気づけてくれる、和谷の言葉が。
夏の到来と同時にプロ試験本戦がやってくる。これがわたしにとっての、最後のプロ試験になるようにと、梅雨色のサイダーを飲み干してから強くつよく願った。
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2021.07.07
Gleis36