渋谷のスクランブル交差点で偶然に彼女の姿を見つけたとき、これはきっと運命なんだと、オレは本気で勘違いしていた。
そんなふうに思うなんて、年甲斐もないしそもそもオレの柄でもない。だけど、そう思わずにはいられなかった。
来月にもなれば、この辺りは一面クリスマス一色になる。イルミネーションやら広告塔やら店頭のポスターなどが一斉に変わり、浮足立った雰囲気に包まれるこの季節が、オレはあまり好きではなかった。自分にその相手が居ないからとかではなく、単純に日本人の信仰の有無に関係がない宗教行事の切り替えの早さにただうんざりしているだけなのだが。
そんな肌寒い風の中で肩を窄(すぼ)めて歩くことが増え、そろそろ冬に備えてマフラーを新調したくなった。仕事帰りの乗り換えついでに渋谷の百貨店へ向かおうとしていたところで、彼女を見つけてしまったのだ。
肩より少し下のラインで切り揃えられた栗色の毛。しっかりと手入れの行き届いたそれを風に靡かせて颯爽と歩く彼女は、どこまでも昔のままだった。決して見間違いなんかではない。その姿を見て、一瞬にして鮮やかに蘇るかつての想いは、辺りの空気すらをも変える。まるで映画のワンシーンを切り取ったかのようなその光景と彼女の姿に、少しだけ見とれてしまっていたのかもしれない。我に返って、人混みの中少し先をゆく彼女を追いかける。
「奈瀬っ!」
信号待ちをしている彼女に思わず声をかけてしまった自分に驚いた。こんなの、オレの柄ではない。呼び止めてどうする。急ぎの用でもあったのなら、足止めしては悪いではないか。などと、冷静になればそれくらいのこと見当がつくのに。胸の高まりが、オレ自身の冷静さを失わせていた。この機会を逃したら、もう一生逢えない気さえしたのだ。
振り返る彼女は、十数年見ないだけで別人のように見えた。風に揺れる栗色と、気が強そうな飴色の瞳はあの頃と何一つ変わらない。それでも、もともと整っている顔であったため、薄化粧を施しただけでこんなにも女性らしくなるものなのだと、思わずぎょっとする。所謂“JK”と言われていたあの頃の彼女は、もうそこには居なかった。
「飯島くん?!」
いきなり呼び止められ驚く彼女の目は真ん丸であった。無理もない。こんな場所で、しかもまさか十数年もの前に院生を辞めた人間に声をかけられたのだから。自分の名前を覚えていてくれただけでも光栄に思うことにしよう。
「久しぶりだな」
「ほんと久しぶり!」
元気にしてた?と目を細める彼女は、やはり昔より更に美しくなっていた。脈拍数が上がるのが自分でも分かった。ビジネスバッグを持つ手に自然と力が入る。
「スーツってことは、仕事帰り?」
「まあそんなところだな」
他愛もない話をしながら自然と肩を並べて歩くまでのその流れが、完璧なまでに昔のままだった。時間が全てを忘れさせてくれるものだとばかり思っていたのに、そんなことはなかったと尚更胸が苦しくなる。
この再会が、本当に運命だと神様が言うのならば、今すぐにでも全ての想いを吐き出してしまいたい。続けたい言葉をぐっと喉の奥に押しやって、代わりに溜息を浅く吐く。直後、木枯らしが頬を叩(はた)いた。緑が少ないこんなところを吹く風を木枯らしといっていいのだろうか。ビル風の方があっているのかもしれない。などと、交差点を埋め尽くすヘッドライトの流れが徐々に緩やかになる様子を眺めながら薄ぼんやりと考えていた。歩行者用の信号は青へと切り替わろうとしている。
「うわぁ、すっかり大人の社会人なんだねぇ、飯島くん。」
弾んだ声を肩越しに感じる。彼女よりひとつ歳上なだけだが、スーツの効果もあってか、こんなオレでも少しは“大人”に見えたのだろうか。
青に切り替わったばかりの交差点に、人々は散り散りになる。その波に乗るようにしてオレ達は同じ方向へと歩き出した。
かつての熱い夢を捨て、無難な大学に進学・卒業し、無難な職業に就いたオレは、サラリーマンとしてただ同じような日々を送るだけだった。そしていつしか、くたびれた背中でオフィス街を歩くようになってしまったのだ。そんなオレの姿を見た彼女に笑われないようにと、せめて今だけでも背筋を伸ばしてしゃんとしよう。
「そういう奈瀬はどうなの?社会人やってんの?」
「まァね」
「へぇ、OLかなんか?」
その瞬間、えーっ!と大きな声を上げる彼女に思わずオレの肩はびくついた。何だよ…と力なく言えば、彼女は驚いた顔で続けた。
「飯島くん、ほんとにすっかり碁から離れちゃったのね…」
「え、まさかお前、まだ碁続けてるのか?!」
「続けてるも何も、こう見えてもわたし、プロ棋士なのよ?」
四段に昇段したばかりなんだから、と嬉しそうに話す彼女が、急にとてつもなく遠い人に見えた。
院生を辞めてからは、オレは囲碁のことを考えないようにしていた。少しでも考えてしまうと、夢を叶えられなかった自分に嫌気が差し、悔しくて惨めな気持ちにどこまでも沈んでいってしまいそうだったから。だから、大学受験に向けてがむしゃらに勉強に打ち込んだ。
大学に進学してからも部屋にあった碁盤をしまい、碁に関する本も殆ど処分してしまった。そうしているうちに、新聞の片隅にある碁に関する記事や、週刊碁、囲碁雑誌も、自然と視界に入れない癖も身についていったのだ。
だから彼女がプロ試験に合格していたなんて、微塵も知らなかった。目眩のような感覚に足が縺(もつ)れ、交差点を渡る人波に一瞬流されそうになる。
「そうか、受かってたんだな…。今更だけど、おめでとう」
ありがと、と嬉しそうにはにかむ彼女の顔にまた見とれてしまった。せめて連絡先の交換くらい、できたらいいのに。などと浮かれていたオレは、彼女の右手に下げられた明らかに贈り物であろうポールスミスのショップバッグに、このとき気付かなかったのだ。
彼女とオレの再会は、ほんの僅かな時間だった。スクランブル交差点を渡りきった頃には、もう別れの時が来ていた。
「あ、わたしここだから。」
「スタバ?待ち合わせ?」
「うん」
「そりゃ足止めして悪かったな」
「ううん。いいのいいの!飯島くん、元気そうなのが分かってよかった」
「これで元気そうに見えんのか」
「あは、違かった?」
おどけて笑う彼女の横顔を肩で感じながら、ふと二階にあるスタバを見上げた。横断歩道が放射状に入り組むこの大きな交差点を一望できる窓側の席は全面ガラス張りで、夜の始まりであるこの時間ともなればその店内はよく見える。
そこには、彼女と同じくらいによく知る人物がいて、しかもそいつは座ってこちらを険しい目つきで見下ろしているではないか。まさかここにいるはずもないと思っていたその人物と、ばちっと合う視線にオレの心臓は止まりそうになった。
「和谷…?」
「あ、もう来てたんだ」
「え、何。待ち合わせって、和谷と?」
「え、あ、うん…」
少しだけ戸惑いながら曖昧に返事をする彼女。その頬はほんのり紅潮していて、それだけでもう充分に分かってしまった。その瞬間、オレの頭の中でガラガラガラと何かが崩れ落ちる音が聞こえたような気がした。
今までは彼女の声しか捉えていなかったオレの耳は、途端に喧騒ばかりを拾い出す。四方から聞こえる人の声、唸るような自動車のエンジン音、規則的な電車の走行音、大型ビジョンから大音量で流れる話題の曲、道行く人々の電話の着信音までもが耳に鳴り響き煩かった。
確かに、院生時代から彼───和谷義高と、彼女───奈瀬明日美は、どこかお互いに惹かれ合っているような素振りはみてとれた。彼女のことを一番よく見ていたオレだからこそ分かったのかもしれないが。
でも心のどこかでは、院生に入ったばかりの頃から彼女とは妙に馬が合っていたし、行動を共にすることが多かった自分にもチャンスはあったのではないかと、勝手に思い込んでいた。今思い返してみれば、なんの確証もない自信だったのだが。
「そ…っか。まあ、和谷は“フツーの子”じゃないもんな。」
オレと違って。と続けて小さく呟いた言葉は、果たして彼女に届いたのだろうか。
過去に彼女は、年相応の女の子らしいことだってしてみたいと息を巻き、たった一度だけ、院生研修をサボってデートしたことがある。そのときに友達の紹介で知り合ったばかりの子にばっさりとフラれてからは、彼女自身も所謂“フツーの子”とは付き合えないと改めて思い知り、これからも院生でい続けることをオレに言い放ったのだ。そしてその後、オレが知る限り彼女が院生研修をサボることは一度もなかった。
それから暫くが経ち、オレが院生を辞めるときですら、その言葉はいつまでもオレの心の何処かに引っ掛かって離れなかった。ここでオレが院生を辞めてしまえばオレは“フツーの子”になってしまうんだと、そうなれば彼女との縁も切れてしまうのではと、ひどく落胆もした。
時は流れ、結局彼女は和谷を選んだのだ。フツーのオレなんかでもない、他の誰でもない、和谷を。
何だか、この世の全てがどうでもいいことに思えてきた。
「…よかったな。“そっち”も、おめでとう」
掠れた声は雑踏に紛れて消えてゆく。視界がぼやける前に、早く彼女の前を離れなくては。
「悪かったな。デートの邪魔して」
「あっ、連絡先…」
この期に及んでそんなことを言い出そうとするのだから、やっぱり彼女には微塵もオレの気持ちは届いていないようだ。今までも、これからも。
「彼氏が嫉妬するんじゃないか?すごい目でこっち見てたぞ。」
「えぇっ?!」
慌ててスタバを見上げる赤い顔。さっきからオレの知らない表情ばかりする彼女。それを見つめるオレの目は、スタバから見下ろす彼にはどう写っているだろうか。昔から和谷は人のことをよく見ていたし、状況を察することもできる器用な人間だった。そんな彼のことだから、こんな一瞬のことでもオレの想いはバレてしまうのだろうな。当の本人には、いつまで経ってもこれっぽっちも伝わらないというのに。
飴色の瞳の中で色とりどりのネオンが反射して、それがまるで無数の光を灯したような煌めきになる。乾いたビル風に舞う栗色の髪の毛を整え、ボルドーの柔らかそうな肌触りのストールを巻き直す彼女には、美しい色彩で溢れていた。
それなのに、オレの瞳は光を失くして死んでゆく。ああ、色彩が無くなっていくって、こういう感じなんだな。早いところ、ここを退散した方がよさそうだ。
あんなにも鮮やかだった美しい色たちは、オレのモノクロとじわじわと混ざり合って、このまま消えていくんだ。オレの想いと共に───。
「じゃーな、奈瀬。元気で頑張れよ」
「あっ、うん!応援しててね!飯島くんもお仕事、頑張ってね!」
一体オレは誰のために何を頑張っているのだろう。彼女のその言葉を受け止めてからふと疑問に思った。
左手をひらひらとさせて笑顔で見送る彼女の右手にはあのショップバッグ。ああ、そういうことかと今更になって気が付くオレはなんて愚か者だったのだろうか。神様だ、運命だなんて、少しでも信じたオレはつくづく大馬鹿者だ。
彼女と別れてからのオレの足取りは重たく、何をしにわざわざここまで来たのかすら一瞬忘れてしまい、自分で自分に苦笑した。
「ああ……オレ、マフラー買いに来たんだったっけ」
首元に滑り込んでくる風がやけに冷たく感じて、そのことをふと思い出した。すっかり冷えてしまった手は暖を求めてコートのポケットを探る。些か乱暴に突っ込まれた指先は、いつまでも冷え切ったままだった。まだそんなに気温は低くないはずなのに。ずっと噛んでいた唇が、痛くなってきたことに今やっと気が付いた。
今日、マフラーを買うのはやめよう。こんな日に物を買うと、今日のことや彼女を想っていた日々のことを思い出してしまうから、きっとよくない。
踵を返し、スクランブル交差点を駅の方向へと向かってまた渡り直す。先刻よりやけに長く感じる。それを渡り切る頃には、きっと───。
ハチ公前にはいつだって人は溢れ返り、スイーツだのジャンクフードだの、お酒だの煙草だの、何処からともなく漂う訳の分からない匂いが混じり合う。それと同じくらい様々な色彩がスクランブルするこの街の片隅で、オレは思わず眉間に皺を寄せて浅くあさく鼻先で息をしながら足早にそこをやり過ごし、ハチ公改札と書かれた緑色の看板を目指した。
改札口をくぐり抜け階段を登りきると、山手線外回りの接近を知らせるアナウンスがホームにこだました。目の奥が少しだけ熱く滲む。鼻先がツンとするのはきっと冬が近付いている証拠。
ホームの更に端の方まで歩いていると、千切れる黄緑色を視界の隅で捉えた。色彩が少しずつ、本当に少しずつだけど戻ってきたようだ。乾いた空気を肺に送り込んで、熱くなった胸を冷やす。振り仰いでみれば、ホームを覆う屋根の僅かな隙間からくすんだ夜空が覗く。蒼白いベガが、都会のネオンに負けないくらい真っ直ぐに瞬いていた。
もうずっと前から胸の奥にしまった想いを、透明にする準備が、やっとできたようだ。
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2021.10.10
Gleis36