本編

 平和な昼下がり。穏やかな時を刻むこの幸せな瞬間が、永遠に続くことを願っている。だが心のどこかでは、安寧を捨て刺激ある毎日を送りたいと思ってもいる。そんな矛盾した考えもまた、俗っぽくて嫌いじゃない。






 ピットガレージ前にテーブルを設置し、紅茶の準備をする。わざわざ地元イギリスから取り寄せた茶葉を、ゴールデンルールに則って淹れていく。
「何人くらい来るかしら」
 日によって、ウイリアムズのアフタヌーンティーにやって来るマシンの数はまちまちだ。多かったり少なかったり、読めない。だが、その中で、必ず一番乗りでやって来るマシンが1人いる。そのマシンも加えて、とりあえず5人分用意した。スコーンやクッキーなどはまた明日食べられるし、このくらいの量の紅茶なら、1人でも余裕で飲み切れる。それに、あの子は必ずおかわりを求めるから、多少多くても平気のはずだ。ポットで蒸らした紅茶をスプーンで軽くひと混ぜすると、ふわりとバラの芳醇な香りが舞った。
「ウィル、こんにちは」
 振り返ると、白い髪をキラキラ輝かせるあの子が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「あらあら、大きな仔犬さん」
「わんわん」
 えへへ、と嬉しそうに笑う彼の頭を撫でる。ハース用のカップを用意して、紅茶を淹れる。クッキーを小さな白いお皿にのせて、彼の前に置いた。
「ほら、まずは座って」
「ありがとう、いただきます」
 言うが早いか、クッキーを頬張るハースの顔が柔らかくなる。「美味しい」このためにティータイムを行っているわけではないのだが、この笑顔を見ていると、全部彼のために用意しても悪くないかな、と思えてくる。
「このために車検頑張ったんだー」
「あら、このタイミングで車検?」
「うん。熱エネルギー回生システムを新しく交換したんだー……っあ、」
 ハースが口をおさえて気まずそうにウイリアムズを見つめる。本来なら自チームの戦略に大きく関わってくるような情報は他言無用のはずだ。ついうっかり口を滑らせたのだろう。ウイリアムズはフフ、と笑みをこぼした。
「聞かなかったことにするわね」
「ごめん、そうしてくれると助かるよ」
 恥ずかしそうに頬を染め、彼はクッキーをおかわりする。
「他チームがいなくて良かったわ。2人だけの秘密にできるもの」
「ぼく、こういうところがダメだって怒られたばっかりなのにな」
 落ち込んでしまったハースに、クロテッドクリームをつけたスコーンを渡す。驚いた様子の彼にウイリアムズは「頑張ったごほうび」と微笑んだ。対して、ハースはにっこり笑うと、口を大きく開けて指をさした。食べさせて、と甘えてきたのだ。
「自分でお食べなさいな」
 ウイリアムズが彼の鼻をつまんで突っぱねると、ハースは「ぶー」と唇を尖らせて、あからさまに不機嫌になる。諦めてスコーンに手を伸ばしたとき、そのスコーンは誰かの手によってひょいと浮かんだ。何が起きたのか分からず、それでも目線はスコーンを追いかける。
「お、うめー」
 ニコニコしながらスコーンを食べるレッドブルの姿を見て、ハースは「ぼくのスコーン!」と悲鳴をあげた。
「おう、かなり美味いぞ。オメーも食えよ」
 口元にクリームをつけたまま、彼は食べかけのスコーンをハースの口の中へ豪快に突っ込んだ。
「いやしかし、本当に美味いな。どっかから取り寄せしてるのか?」
「私のモーターホームで手作りしてくれているのよ。私のシェフたちは優秀なの」
 セルフレイジングフラワーという粉をイギリスから取り寄せてはいるが、そのあとにスコーンにするまではすべてウイリアムズのモーターホームで作っている。ゲストやメディアの人に振る舞ったりしていて、かなり人気があるらしい。
「へえ、俺のチームにも欲しいぐらいだ」
「うーーー……」
 唸り声が聞こえて、ハースの方を見る。彼は机に突っ伏してグスグス泣いていた。
「おいおい、泣くほどかよ」
「あーんしてほしかった……」
「なんだよ、もう1個欲しいのか。ほれ、口開けー」
「いーやー! ぼくはウィルから食べさせてほしいのー!」
 そのとき、ひょいとレッドブルの首根っこが捕まれ、後ろに引っ張られた。驚きの表情を見せた彼は、そのまま後ろのイスにストンと座らさせられる。
「ぼくのわたあめちゃんにあまりイジワルしないでくれるかな? 牛ちゃん」
 レッドブルは振り返ることもなく、「フェラーリか」とニヤリと笑い、持っていたスコーンを口に運んだ。真紅をまとった彼は、ハースの頭を撫でながら「お邪魔します」と笑顔でウイリアムズと挨拶を交わし、ハースとレッドブルを隔てるように2人の間のイスに座る。
「わたあめちゃんが可愛いのはわかるけど、好きな子にイジワルするのはいただけないな。もっと優しく気を引かなくちゃ、ね」
「べ……ッ、別にそんなんじゃねえよ」
 2人分の紅茶を用意したウイリアムズが「好きな子、ってところに関しては否定しないのね」と訊くと、彼はいたずらっ子のような瞳で「嫌いだったらわざわざ関わらねーよ」とケーキを頬張った。
「牛ちゃんの素直なところ、ぼくは好きだなあ」
「そりゃどーも。紳士つーのはいつでも素直でいなきゃな。それに」
 レッドブルがなにかを言いかけた瞬間、誰かの叫び声とガコンという音と共に、彼の顔は蛍光黄緑色のペンキにまみれていた。何かの力で飛んできたペンキ缶が逆さまになって、レッドブルの頭に引っ掛かっている。バタバタと駆けつけたのは、同じように黄緑色のペンキにまみれたアストンマーティンだ。
「やばーッ、ごめんウィル、掛かっちゃった? お菓子とかは無事?」
「テーブルには一滴も掛かってないわ。でも、レッドブルが」
 彼はおもむろに立ち上がり、ペンキ缶を頭から外すと、努めて冷静に自身の袖で顔を拭いた。ふう、と深呼吸をすると、「経緯」と怒気をはらんだ声で言った。空のペンキ缶がガランと大きな音をたて、捨てられる。
「あーーー…………その……手が滑って」
「そうかそうか、手が滑ったか。そんじゃ他に言うことは?」
 アストンマーティンは、一瞬だけコースの方に目を向けると、「そっちの方がクールよ」と捨てぜりふを吐いて走り出す。それに呼応するようにレッドブルもまた「お前もクールにさせてやろうか」と叫んで緑の髪を追いかける。
 そんな2人の姿を見つめて、「仲良しだよねえ」と微笑んだフェラーリは、ローズヒップの紅茶を口に含んだ。
「ウィル、いいの?」
 心配そうな顔のハースに「なにがかしら」と返す。
「アフタヌーンティーを邪魔されてない?」
 ウイリアムズ本人にとっても、チームにとっても、ティータイムはとても大切なもの。ティータイムを邪魔するものを定期的に折檻しているのを、ハースは一番近くで見ているのだ。
「ああ……テーブルから離れたから、いいわ。それよりも、紅茶のおかわりはいかが?」
 ポットをくるりと回すと、バラの香りとハースの笑顔が咲いた。
「おや、ティーパーティーかい?」
「うわー美味しそう! 食べていい?」
 メルセデスとマクラーレンが、なぜか腕を組んで歩いてきた。やけに親しげなその様子は、過去のマクラーレン・メルセデスの関係性を彷彿とさせる。
「あらメルシィ。前回のグランプリ、優勝おめでとう」
「ああ、ありがとうウィル」
 祝福の意味も込めて、ウイリアムズからハグをプレゼントする。
「きみたちも仲良しだねぇ。羨ましいよ」
「珍しい組み合わせね。最近はすっかりルノーと仲良しじゃない」
 マクラーレンは昔からパワーユニット……エンジンをフォードやメルセデス、ホンダ等と、多くの会社から提供されていた。そして今はルノーのパワーユニットを搭載している。そのためか、ここ数年はルノーと共に歩いている姿をよく見ていた。
「ルノー、先週のレースからマシンの調子が悪くて、今メンテナンス中なんだ」
「言っちゃっていいの、そういうこと」
「事実だもーん。てか、ボクが他のチームと歩いて変な噂立てられるのも嫌だし。それなら、先に言っちゃった方がいいじゃん」
 マクラーレンはニコニコしながら、ずいぶんと合理的なことを話す。確かに、理にはかなっていた。
「このカップ、誰の? 飲んでもいいかな」
「いいわよ、誰も口をつけてないから」
 いそいそとイスに座るマクラーレンを微笑ましそうに見ていたメルセデスと目が合って、「メルシィ、貴方も飲む?」とウイリアムズが誘うと、「そうだね。いただこうかな」と座った。
「ぼくのおかわりは?」
「あるわよ。もし無くなっても、また淹れればいいんだから」
 メルセデス用のカップを取り出して、はたと気づく。ウイリアムズは、自分の分の紅茶を忘れていた。あらかじめ温めていたカップも、4人分すべて使っている。
「ハースはこのお菓子のなかで、どれが好き?」
「ぼくは……んー、ぜんぶ」
「フフ、ハースらしい」
「わたあめちゃんなら、サビ止め以外に嫌いな食べ物はないよね」
 レース中は敵対しているチームが、アフタヌーンティーでテーブルを囲んで、わいわい楽しんでいる。その様子を見て、まあいいか、とウイリアムズは吹っ切れる。今日はホスト役に徹しようと心を決めたのだった。……の、だが。
「お兄! 兄ちゃんどこにいるの」
 今日はずいぶんと賑やかだ。穏やかな空気になったかと思えば、トラブルが向こうから全速力でやって来る。
「あっ、ウィルごめんね、お邪魔しちゃった」
「ううん、大丈夫。いつものことでしょう」
 あの兄のことだ。些細な兄弟のいさかいなど、今さら驚きもしない。
「どうしたの。子牛ちゃんが声を荒らげるなんて珍しいね」
 心配そうなフェラーリをよそに、マクラーレンが「またあのバカが、なんかやらかしたんじゃないの」と辛辣な言葉を投げつけるが、アルファタウリはその通りだと大きくうなずく。兄をバカ呼ばわりされても怒りもしない。まさしくその通りだからだ。
「兄ちゃん、今日が車両点検の日だってすっかり忘れているんだよ。もう15分前なのに」
「はは、バッカで。無線で呼べばいいじゃん」
「一方通行じゃなければね」
 アルファタウリの口から漏れ出たため息は、この場の呆れ返った空気を体現していた。「あの大バカ野郎はどこだ」怒り狂った般若もやって来る。エステートは、本気で怒っていた。
「落ち着いてよ、私のお医者さま」
「これが落ち着いてなんかいられるか。あのレッドブルが車検忘れなんて情けない理由で出場停止になってみろ、大炎上だ」
 ぞろぞろとみんなが集まっている目の前を、当の本人と、アストンマーティンが駆け抜けていく。般若……もといエステートは、その手に拡声器を持っていた。
「おいそこのバカ共! いい加減止まれ!」
 コース中にキンと響き渡る巨大な声に驚いたのだろう。2人してコーナーを曲がりきれず、コース外の芝生に飛び出してしまう。
「危なー。次のコーナー、グラベルだったよ」
「なんだよー、楽しんでたのに」
 ヘラヘラ笑っていたレッドブルは「車検だバカ牛」と怒るエステートに首根っこを捕まれ、さほど抵抗するわけでもなく「え、今日だったか?」と目を丸くした。
「ミーティングで聞いてないのか」
「あー……なにもねえだろうと思って、ここ最近は顔出してねえ」
 てへ、と可愛らしく笑うレッドブルを殴りたくなる気持ちをぐっと、ぐっと堪えて、彼の身体をズルズル引きずっていく。
「全く、お前はトラブルしか起こさないな」
「緩急がある人生の方が楽しいぜ?」
「ジェットコースターはお前で定員オーバーだ。巻き込むんじゃない」
 拳をこめかみにグリグリ押し付けながら、彼はレッドブルのエナジーステーションへ入っていった。ピットクルーたちに、彼の身体を投げて寄越す。
「速く行って終わらせてこい」
「わーかったよ、ウイリアムズのスコーンも食い残しちゃったからな」
「まだ残ってるから大丈夫よ」
 真後ろから声が聞こえて、メディカルカーは振り返る。白と緑と青と黒と茶とオレンジと、角がある。「おい」全員が、律儀にメディカルカーを見上げた。
「お前ら何してる」
「バカ牛の見送り」
「面白そうだから来た」
「紅茶も終わっちゃったし」
「ウィルの紅茶のおかわり待ち」
「モーターホームならお湯ぐらいすぐに出せるでしょ」
「一度沸騰させないとダメなの」
「日本の軟水だともっと美味しいって言われてるよね」
「日本はボトルドウォーターも美味しいもんね」
「日本GPの水が一番美味しい」
「とっとと行きなよ、見送ってあげてるんだからさあ」
「呼ばれ待ちだっつーの。勝手に入っちゃダメなんだぜ」
「この前怒られてたもんね」
 オレンジ、緑、青、白、緑、青、角、黒、茶、オレンジ、兄の方の角、緑。金平糖みたいなやつらが一斉にごちゃごちゃ話し出す。
「お前らもとっとと戻れ、邪魔になるだろう」
「はぁーい」
 レッドブルに手を降りながら、みんな一斉にぞろぞろ立ち去る。「……ったく」1人取り残されたレッドブルは、全員の背中をじっと見ていた。
「みんな俺様のこと好きだなあ」
 フフン、と機嫌よく笑う。嵐が立ち去った後の廊下は、いつも以上に静かに思えた。