夢の向こう岸、ふたりの騎士

 お使いで街に行った時に、そっとその手紙を出した。ざらざらとした、どこにでもあるようなそんな紙に書いたのは、失敗したなら首をはねられてしまうような、自分の主への大逆の刑。その、作戦の一部だった。
 シュリの仕える領主が、使用人の女子にあまりにもな無体を働いているという内容の密文書には、このままだとつい領主を殺してしまいそうだとまで書いてみせた。途中で誰かに読まれれば、運が悪いと手紙ごと握りつぶされ、ロクスに伝えられて不敬罪、または殺人罪で死刑にされてしまうようなような内容だ。そんな物騒な作戦が決行される前に王家が責任をもって止めに来いと、ささやかな脅しのつもりだったその手紙の甲斐はどうやらなかったらしい。いや、あったのかもしれないが、間に合わなかったのだ。なんにせよ手は尽くした。見放したのは──神の方だ。
  栗色の髪を振り乱して、シュリは廊下を歩いていた。背負った鞄と着込んだ私服は抵抗のしるしで、ゆるやかに迫る扉に動悸がはやまる。今夜の番はだれだろうか。作戦上、誰であろうとシュリの魔法で眠らせなければいけない。秋が終わりに向かっていた。木枯らしと雪の隙間の過ごしやすい日だった。 かつりかつり、と鳴る靴音に紛れ、シュリの高くか細い声が詠唱を紡ぐ。ひとを眠らせる魔法、ひとを惑わす魔法、それらを使えることは誰にも──否、ひとりを除いて伝えてはいなかった。だから、大丈夫だ。たとえ相手が腕のたつ騎士だとしても、使用人として呼ばれているシュリならば不意を突ける。不意さえつければ、こっちの勝ちなのだ。 燭台の灯りが近づいてきていた。人影が見えてくる。
  シュリは目を疑った。
「…………ルテージさま」
「…………新人ふたりを、一気に教育しようとしたんでしょう。僕も、貴女が来たら退くように言われております。──どうぞ、先へ」
「……いいのですね」
「ええ。僕は、ただの、何も知らない騎士見習いですので」
 責務を果たせなかった騎士には、それなりの罰が与えられる。わかっているはずなのに、にっこりと笑ってみせたマコトに、シュリは笑い返した。この後の生涯で、彼と顔を合わせることはもうないのだろう。シュリは詠唱を終えていた魔法を、無遠慮にマコトへとぶつけた。ひそひそと交わされていた会話をなかったことにするための空白があった。
 一泊おいて、マコトは叫ぶ。それは、唯一彼にだけ話していた計画の通りだった。
「くせもの!!! おのれ、何を……!! ロクスさま、お逃げ……!!!」
 マコトの色白の手が鞘に伸びて、ちゃきりと剣が抜かれた。締め切られた扉の向こうで気配が動き、非常用に鳴らす鐘が鳴り響く。館中が一気に緊迫感に包まれた。マコトが、シュリに剣を向けたまま倒れ伏した。シュリは一呼吸おいた後に扉を開けた。
 舘か騒ぎを聞いて駆けつけるまでどれくらいだろうか。それ迄に、決着をつけなければいけない。
「なんだ、シュリ! なにごとだ!!! くせものは!!」
「わたしです。ロクスさま」
「は?」
  慌てふためいた様子のキルバッハ地方の領主ロクス・レ・エルハルフォードは、そこまで言われて漸くシュリの違和感に気が付いた様子だった。夜伽に呼ばれたものはみな、ネグリジェで主の部屋へ向かうのが常套である。それが、まるで旅装束のような服を身にまとい、挙句に鞄まで背負ったシュリは、たしかに異様だった。くせもの、そして裏切りもの──それがシュリが背負うことになる称号だ。
「なんのつもりだ、シュリ!」
「このようなつもりにございます」
 懐に忍ばせていた短剣を、ゆっくりとシュリは取り出した。その隙に、細かに分断された詠唱を重ねていく。歌うように、旋律に乗せ、己のなすべきことを真正面から見つめるのだ。
「女如きが、私の剣技にかなうはずがないだろう! いまなら間違いだと、起きてくるであろう使用人らに言ってやる! 早くそれを仕舞え!」
「……わかりました、いいでしょう。わたしの武器は、こちらではありませんから」
  腰から取り出した短剣を優雅に仕舞うシュリに対し、ロクスは長剣を取り出した。シュリはその瞬間に、伏し目がちだったひとみをパチリと開く。
「──良い夢を、ロクスさま」
「なにを、」
 指を鳴らしたシュリに、ロクスが顔を顰めた後にゆっくりと倒れ伏した。
  それは、シュリが何度も練習した魔法。まるで現実のようなゆめをみせる、幻惑の魔法。ぱたりと倒れたロクスの腕に握られた長剣と、これからシュリが起こす風で崩れる棚、それからまだ生温い血のついたこの、服。それらがあれば、シュリは裏切り者として死ねるだろう。窓には、服に垂らすために切り傷をつけた腕、それににまいていた包帯をぱっととって血を垂らした。胸を切り裂いたように血のついた服と逃げたらしいあと、それから見つからないシュリ……それらの条件が揃えば、どこかでのたれ死んだと思ってもらえるだろう。短絡的な考えではあるし、それを扇動してくれるはずだったマコトがいないのは痛いことではあるが、始めてしまったことには仕方がない。このまま決行するしかないのだ。 胸のあたりを切り裂かれ、血のついたシュリのネグリジェ──そのローブの部分を放り捨てる。
 乱闘したように見せるよう、手筈通りに棚を倒し、風魔法で本を吹き飛ばして、思い切りよく窓を開け払った。使用人らの足音が聞こえてきていた、もう時間が無い。 3階から飛び降りるのは、流石のシュリも些か勇気がいる。飛び移れそうな、それでいて微妙に届かなそうな木もあるがどうだ。どちらに向かうか一瞬迷い、顔を顰めた。
 雲に隠れていた月が一瞬すがたをあらわした。
「──お嬢さん、ご一緒にどうだい?」
「っ、だれですか」
「通りすがりの旅人だよ」
 ひゅおっと風邪が吹き、声の主が被っていたフードがはだける。
 彼は、夜遅くになってから今晩泊めてくれませんかと訪ねてきた客人と酷似していた。それと同時に、ずっとこの館でシュリを支えてくれたひと、ルテージその人にあまりにも似ていた。魔が差したように、夜の魔法にかけられたように、シュリは手を伸ばす。旅人を名乗る彼は、来いとでも言いたげに片手を差し出した。ぎりぎりの距離で、少しだけ届かない。
 シュリは、ほんの少し迷った末に、窓の枠に足をかけた。
 自らの風魔法で、下から自分の体に向かって風を起こした。人一人を持ち上げるだけの風を起こすにはいささか魔力が残っていないが、彼のいる木に、そして彼の手に触れる距離まで跳ね上げる補助にはなる。思い切り窓枠から木へと飛んだシュリの手を、旅人はしっかりとつかんだ。
「──逃げるぞ、お嬢さん」
「っ……はいっ!!」

 ひとりきりで宵闇に紛れるはずだった逃避行に現れたのは、素性不明の客人──そして、シュリだけのたいせつなひと。