いつだって覗き込んだファインダーの向こうには、美しい景色が広がっていた。夏に染まる空に、新緑に染まる植物、散る花。新が切り取るのはいつだってそんな風景で、単調で代わり映えのしない、綺麗という言葉がよく似合う世界。
 己の撮った写真群に満足できなくなったのは、とある夏の日のことだった。

「俺、写真やめようかと思って」
「……えっ?」
 暑い暑いと嘆く声を遮って、新は隣にいる人影に声をかけた。外では蝉がその存在を誇示するかのように鳴き喚いて、四時間目が終わったばかり──昼休みが始まったばかりの教室を賑やかしている。何でもないような顔をした新に話しかけられた隣の席の女子生徒は、下敷きで自分のことを仰ぐのをやめた。頭の天辺で纏められたつややかな黒髪が、下敷きから与えられていた涼しさを失って垂れる。
「何言ってんの、写真部会計係さん。暑さに頭やられたなら保健室行ったら?」
「いや、真面目に」
「……何かあったの?」
 冷えた机に突っ伏していた女子生徒は、怪訝な顔で起き上がった。由々しき事態とでも言いたげな顔に、新はひらひらと手を振って見せた。そんな深刻な表情をされるほど重大な話ではない。
「いや、飽きたってだけ」
「飽きた? 新が写真に?」
「おう。最近撮っても撮っても楽しくないしろくな写真取れないし。ほら、俺夏希と違って飽き性だから」
 新はそう言いつつ、発色の良い緑色をした炭酸飲料のペットボトルを開けた。それに伴う景気のいい音は誰かが流したポップスの音楽に紛れ、教室の雑音となっていく。夏希──新と中学時代から高校入学、そして夏休みを目前に控えた今の今までの付き合いになる親友は、いつもとごく変わらぬ調子でそう伝えた新に、もの言いたげな視線を投げかけてきていた。
「まああんたがそう決めたなら、あたしに口出す権利はないけど。まあお疲れ様? ってことで」
「お、なんだ? 俺のファンだから俺が写真やめるの嫌だって?」
「幻聴が聞こえるなら耳鼻科行って」
 辛辣な言葉を投げかけながら、夏希は机の横にかけた鞄からスポーツドリンクを取り出して一口飲む。その間に、新は机に伏せていたスマホを手に取りLINE通知のチェックをする。馴染んだ距離感だった。ふたりの関係は親友とも、腐れ縁とも呼ぶべきものだ。会話が途切れるタイミングは心得ている。
「……ところでさ。やめること自体は新の勝手だけど、あんたが写真に飽きるなんて信じらんないんだよね。新って写真撮るのやめられんの?」
 そう、心得ているつもりだった。ごくりと喉を鳴らしてスポーツドリンクを嚥下した夏希が何かしらを喋ったのを、他人宛だと思う程度には。新が写真をやめるという話は、いつもの通り只の無駄話として流れるはずで、少なくとも新はそのつもりだったのだ。先ほどの言葉が自分に向けられていると気が付いたのは、夏希が女子の友人と一緒に弁当を食べに席を立った後のことだった。幸い夏希は返事を求めていたわけではなさそうだから、新が無視したということにはならなかった様子だったが。

 中学時代から、写真部だった。中学三年生では写真部部長を務めたし、高校に入って始めた本屋のアルバイトの初任給はカメラのレンズを買った。そう言われると自分がとても写真好きな人間に見えてくるけれど、実際問題そんなことはない。将来カメラマンを目指しているわけでも、写真を撮って食べていきたいという気持ちもなく、ただ出身の中学で強制的に入らされる部活動の中で、たまたま写真部を選んだだけ。それをずるずると高校まで続けた結果がこれである。
 夏希と出会った中学一年生のころは、物珍しさに部活動の時間に貸出カメラを手にして校内を駆け回った記憶があるが、今はそうでもない。外出の時は一応首から提げているけれど、それだけだ。最近の新がファインダーを覗くことは少なかった。
 プリントアウトした写真に魅力を感じない。ファインダーを覗いても楽しくない。これを飽きたといわずして何というべきかと、新は脳内で夏希に問いかけた。
 いつの間にか形成されていたルーティーンワークに従い、新は猛暑の中、山へと散歩に繰り出していた。新と夏希の地元は田舎というにはいささかビル街が近すぎるけれど、山が近くにある自然豊かな場所だ。写真を撮るのにはもってこいだった──撮るかどうかは置いておいて。すでにこの数年で、休日や長期休みは写真を撮りに外に出るのが恒例だ。写真をやめるとなると、この習慣も止めることになるなと新はぼんやり思う。
 梅雨明け七月はじめ、テストも終わり夏休み目前だ。地球温暖化の影響なのか、幼いころの七月よりもやけに暑いような気がした。
「……お、鴉だ」
 木々の間をすり抜けるようにして翼を広げ、風を切っていった目の前の鴉は、少し向こうの木にとまってみせた。太陽光がその漆黒の羽を照らし、艶やかに輝く。
 思わず、手が勝手にカメラを持ち上げた。あの輝きを収めたい、空間を切り取るようにそのまま──この手に。思うままに流れるままにファインダーを覗いた新は、その先に広がる平淡な風景にはっとなる。そうだ、俺は写真をやめるんだ。ファインダーの向こうにも、きっと現像したとしても、鴉の羽の七色の煌めきは損なわれてしまう。
 新が撮りたいのは、あの煌めきただひとつなのだ。その時新が得た感情を写真で伝えたい。それが出来ると信じてここまでやってきたし、今までは自分の写真に満足していた癖に、最近ぱったりその感情を味わっていなかった。
 ──そうだ、きっと写真に飽きたのだ。ならばやめよう。別の趣味を探すか、それこそ学生らしく勉強でもなんでもすればいい。
 新がため息をついてきた道を引き返せば、鴉はまるで嘲るようにひと鳴きして、ゆうゆうと新の上を飛び去って行った。

「うわ、ほんとにカメラ持ち歩かなくなってる」
「うわってなんだよ。そもそも俺人は撮らねえし」
「知ってるけど……あんたの首にカメラがないってこんなに違和感あったのね。新じゃないみたい」
「とことん失礼だな、俺の本体はカメラかよ……とりあえずやるぞ、お前に付き合ってるんだからな俺は」
 はいはい、と頷いた夏希が、ぱっと台本を投げてよこした。放課後、人気のない空き教室にも冷房は効いているようで、閉め切った扉のせいもあり多少寒いくらいに冷えている。今日も今日とてポニーテールを靡かせた夏希は、付箋だらけの自分の台本をぱらりと開いた。彼女は、演劇部だった。
 水曜日は、一週間の中でも演劇部がオフの日だ。将来舞台役者になりたいという夏希の夢は中学に入った時にはもう定まっていて、新の知る夏希というのはいつだってスポットライトの元で夢を語る少女だった。演劇部に比べれば暇を持て余している写真部の新は、今まで台本あわせの練習には幾度も付き合ってきた。
「お、主役か。上等じゃん」
「そう、ジュリエット。一年だけの演劇だからね、勿論勝ち取ったのよ。いいでしょ」
 機嫌よさそうにからからと笑った夏希は、その白い肌でぱらぱらとページをめくると或る一ページで手を止めた。今日の練習はそのページから始めるらしい。新も夏希の台本をちらりと見て、同じページを開いてみせた。
「それじゃあ、ここからお願い」
「了解」
 白い指が活字をなぞった。新は言われた通りの箇所をじっと見て、それから台詞を読み上げる。彼は別に演技をすることに長けてはいないけれど、四年間も練習に付き合っていればそれなりに感情を籠めることは覚えた。そこそこに長いロミオの台詞を読み終わりちらりと夏希を見れば、すっと熱の入った瞳が新を射抜いた。大雑把で快活で宿題が嫌いな彼女は、舞台に立つと一変する。それはもちろん練習でも同じだった。教室に備え付けの蛍光灯でさえ、彼女を照らすためだけにあるかのように錯覚させる──慣れた風景だった。
 台本をぱたりと閉じた夏希は、絶妙なタイミングで言葉を紡ぎ始めた。禁じられた恋に興じる乙女の言葉が、夏希の喉の奥から溢れて零れ、新の耳に触れる。彼女に引っ張られて、新もまるで物語の中の登場人物になったようだった。彼女には、才能があった。
 新はただただ彼女以外の人が紡ぐ部分の台詞を追いかけながら、ずっと夏希に魅了されていた。

「……よし、今日はここまで! 付き合ってくれてありがとね、新!」
「いーや、お安い御用。主役頑張れよ、あと今日の英語の宿題な」
「うっ、それ主役と同等に並べて出す? 思い出したくないんだけど。ていうかあんたもいい加減現代社会の課題やりなさいよ」
「俺年表埋める課題死ぬほど苦手なんだよ」
「知らないわよ……」
 お礼にジュース奢ってやろうと思ったけどやめた、と言って夏希は呆れたように両手を振った。苦笑した新の髪を、オレンジ色の夕日が照らしている。運動部も活動を終え、鴉も家に帰るころだ。台本を何周かして、夏希が気になると言っているところを反復していたらもうこんな時間だった。新たには特にやることもないので構わないのだが。
「まあ、大分納得できるまで練習できたから、ありがと。人がいるとやっぱり違うわ」
「そうか? 大根役者相手だけどな」
「大根役者でも一人でやるよりはマシってことよ」
「大根役者は否定しねえんだな、俺も一応四年間お前に付き合って演技してるんだけど」
「本腰入れてやってないんだから仕方ないでしょ、そうそう簡単に技術は手に入らないわよ。あたしだってスマホで写真撮ってるけど腕あがらないしね」
 そういって笑った夏希は、置きっぱなしにしていた荷物を背負いあげた。演技をしている最中の、ジュリエットという貴族らしさは完全に失われ、彼女はもうどこにでもいるような女の子にしか見えない。新も机に放り投げてあったリュックを背負うと、夏希に向き直る。
「帰るころには夜だろ。送る」
「えっあんたそんな気遣いできたの?」
「流石に俺も高校生なんだけど。親友の女子を夜中の住宅街にほっぽったりしねえわ」
「まあ家近いしね。じゃあよろしく」
「おう」
 夏希ははにかむように笑って、肩にかかっていたポニーテールをさらりと流した。新は一瞬見惚れ、それから笑って先に立って歩き始めた。
 夕暮れ時と言えど、夏休み目前だ。エアコンの効いた校内から出れば、暑さに汗が首を伝う。帰りに結局、夏希はスポーツドリンク、新は蛍光ピンクの炭酸を買った。
「んで、ロミジュリの発表はいつなんだ?」
「夏休み初めの週の土曜。つまり再来週」
「まじか、俺行けねえな……。週末だろ? ばあちゃんち行ってると思う」
 新がそう言えば、夏希が少し考える顔になった。中学の時から、夏希の出演する演劇を見に行くのは新の習慣で、よほどの用事が重ならない限り見に行かないということはない。大体自分が読み合わせに付き合った台本とはいえ、夏希と他の部員が演じるのを見るのは楽しいものだからだ。衣装を着こなす夏希のことが見たいという気持ちも多少ある。
 夏希はスポーツドリンクを勢いよくあおったのちに、軽い声で提案した。
「あ、じゃあリハくる? 終業式の日にやるけど……あんた写真部でしょ。あたしのこと撮りたいんですって言い訳にすれば入れてもらえると思うよ。あたしの知り合いだし」
「だから俺写真やめるんだって」
「言い訳に使うのも嫌? あ、もうカメラの話題出さないほうがいい?」
「いや、そこまでじゃないよ。飽きただけだし……まあそれで入れてもらえるなら。お前を撮りたいわけじゃないけどな」
「分かってるわよ。演劇部にはあんたも顔知れてるしね、普通に頼むだけでもいいかもだけどさ。……あ、今回はライトまでリハするって。こだわったらしいよ」
 ──なんだかんだ、俺が来るのを楽しみにしてくれてるのだろうか。わざわざそんな手間をかけてまで新を呼んでくれる様に、ぼんやりとそんなことを思った。日は落ちて、帰り道はふたりを宵闇に誘っていた。高校の最寄り駅はすぐそこだった。

夏休みの話題で盛り上がる終業式終わりの教室の中を、新はそっと抜け出した。親しい人に簡単な挨拶と夏休みに遊ぶ予定の話はしたけれど、それ以上に特に用事はない。クラスメイトにこれ以上捕まってしまえば、約束の時間に間に合わない。移動しながら前に背負ったリュックからカメラを出して首にかける。教室から、とっくに夏希は消えていた。
 開けっ放しの食堂の扉から、何でもない顔で演劇部のいるところへと入り込んだ。夏希はつい立ての向こうで着替えているらしく、姿が見えない。照明のセットをしている演劇部の知り合いの一人が新に気が付いて手を振ってきた。どうやら、夏希の根回しは成功しているようだった。
「よう神谷、佐野を見に来たんだって?」
「これでも一応写真撮りに来たんだけど」
「どうせジュリエット佐野を撮るんでしょー。俺の目は誤魔化されないぞ」
「……そりゃそうだけどさ。別に今すぐ日夏を撮ってやってもいいぞ? その大道具作業で汚れた作業着のまま」
「俺が嫌がることを知っていやがる」
「普段無駄にかっこつけてるのが悪い。あと俺をからかったこと」
 クラスメイトの日夏は、ぎりぎりまで作業していたらしく、ペンキの入ったバケツを持ちながら笑ってみせる。昔から新や夏希をからかうのが好きな友人だった。
「悪かったって。佐野がよく見える席は左端だぞ」
「お節介どうも」
 日夏に言われるがまま、新は観客席のほうへと移動した。本番と違いがらがらな客席の中で、どうやらリハーサルの見物に来たらしい先輩方に手招きされる。夏希に頼まれごとをされて部活中に顔を出したり、高校に入る前に部活見学で演劇部に行ったりと何かと顔を合わせることのある先輩方は、いらない気を聞かせてか日夏が言った場所へとスムーズに案内してくれた。ここなら撮りやすいでしょ、と一番前の席を案内され、苦笑いでお礼を言う。それでも夏希の舞台を見逃すよりはいいか、と割り切って、新はカメラの電源を入れた。そもそも自然ばかりを撮っている新だ、ファインダーの向こうの人にはあまり興味がなかった。
 思えば、夏希を撮る機会はいくらでもあったように思える。中学時代からずっと彼女の演劇は見に行っていたのだから。中学も高校も演劇部に申請すれば、いくらだって撮らせてくれただろうに、いつだって新は彼女を目に刻むことしか考えていなかったのだ。風景写真ばかり撮っていたせいもきっとある。
 ──彼女を撮る自信が、きっとなかったのだ。舞台の上を彩る彼女を、その空間丸ごと切り取れる自信が、新には。
 そんなことをぼんやりと考えていた新の視界がいきなり真っ暗になった。食堂の照明が落ちたのだ。舞台中にフラッシュを焚いてはいけないと慌てて電源を入れ、フラッシュとついでにシャッター音をオフにした。
 やがて、スポットライトがセットを照らして、設置されたスピーカーからは雰囲気に沿った音楽が流れ出す。舞台の始まる合図だった。ナレーター役の男子の声が、どこからともなく響いていた。
 舞台袖に見立てられたらしいついたての向こうから、次々と登場人物が姿を現す。使用人らしき生徒、飾りの沢山ついた服を着たロミオらしき人──夏希の隣にほかの男が立つのを気にしなくなったのは、いつのころだっただろうか。ナレーターによる、おそらく隣のクラスの男子であろうロミオの簡単な紹介が終われば、次はジュリエットの番である。
 使用人に連れられて、いつもの元気いっぱいの歩き方はどこへやら、貴族の女性らしく静かで上品な動きで夏希──ジュリエットが現れた。ライトが丁寧に彼女のドレスのスパンコールをきらめかせ、裾のグラデーションを映えさせた。確かに、前回見た舞台よりライティングに凝っているようだ。艶やかな黒髪は降ろされ、リボンで飾りつけられている。普段の彼女がつけていれば本人も周りも似合わないと一蹴したろうに、こうしてみると元から彼女の一部だったかのように似合っていた。舞台はすでに彼女のものだった。
 新はとっくに目を奪われていた。夏希の舞台を見るのが好きだ。一度と言わず何度も読んだ台本とはいえ、できる限り集中して鑑賞したい。ただ、これでも一応写真部としてここにいるのだから、一枚くらい写真を撮っておかないとまずいだろう。いくら自分が写真に飽きたと言えど。
 新は仕方なく、カメラを手に取った。ゆっくりとファインダーを覗く。舞台は夏希のシーンから始まるようで、よく通る大声のはずなのに上品で愛らしさを感じる夏希の声が耳に触れる。舞台は始まったようだった。目を細め、その景色をおさめようと集中する。
 新は、ファインダーの向こう側の景色に顔を顰めた。先ほどまで自分の視界にあった煌めきも、これから始まる物語へのときめきも、ファインダーの中には何ひとつとして残っていない。自分が動ける範囲の中で何度か角度を変えてみるも、結果は全く同じだった。こんな写真では、こんな機械では、彼女の魅力が何ひとつとして切り取れていないのだ。
 人物の撮り方がなっていないからだろうか、それともライティングが上手く画面に入っていない? どうして、あんなに魅力的なものが、ファインダーを通しただけで平淡になってしまうのだ。あんなに綺麗に輝いているのに!
 ちゃんと撮りたい、と思った。彼女を、この空気を、この光を、きらめきを。それにはきっと、技術も向上心も何もかもが足りていないことも。新はそっとカメラを降ろすと、スポットライトに照らされる夏希を見つめた。
 彼女が壁に何度もぶつかっては乗り越えていったところを、新は傍で見ていた。相談に乗ったことも、練習を手伝ったことも覚えている。彼女が泣いて歯を食いしばって、納得できるところまで自分を磨き上げたのを、知っていた。その結果があのきらめきだということも。
 自分はどうだっただろうか? 努力は人並みにしているつもりだった。写真もたくさん撮ったし、風景を撮るための基礎の理論は顧問から聞いて学んだつもりだった。ただ、思い返せば、大きな壁にぶつかっても、それを迂回しているような気がするのだ。そうだ、風景写真ばかり撮るようになったのはどうしてだっただろうか。

 ──そうだ、中学の初めのころに、夏希を撮って、その下手さに辟易したからではなかったか。

 新は、粛々と続く舞台に、カメラを降ろした。俺では、今の俺では、まだ撮れない。
 それでも、撮りたい。そう思えたのは、どうにも久々に思えた。ファインダーの向こう側のきらめきをこの手に納めたい。湧き上がるその衝動を抑えて、ただスポットライトの先を見つめていた。夏希はいつも通り、舞台上で輝いていた。

「人物写真は撮らないんじゃなかったの?」
「気が変わったんだよ。勉強した」
 誰もいない公園の壇上で、夏希が笑う。
 市役所の隣にあるその公園は、よく祭りや何やらが開催されるせいか、石造りのステージがあったけれど、行事がないときはただの公園の一部だ。自由に扱える。夏希の練習で何度か来たこともあるその場所に、今度は新の希望で訪れていた。
 夏の終わりの夜だった。ひぐらしが鳴いて、夏休みの終わりが近いことをふたりに知らしめる。
「悪いな、こんな夜に」
「舞台のオーディションの練習もしたいし、別にいいんだけど。送ってくれるでしょ?」
「まあ、ここからならお前の家通り道だしな」
「ならいいわよ。あとで練習付き合ってもらうからね」
 わかってるよ、と呟いた新は、夏希と自分の荷物を纏めてステージ端に置く。やけに大きいその荷物の中から簡単なつくりのライトをひとつ取り出すと、もともと決めておいた場所に置いた。
「あんたこんな大きいライト持ってたっけ」
「いとこが持ってたから譲ってもらった」
 公園内に電灯は少なかった。祭りの時はステージを照らすライトが大量に設置されるくせに、そうでないときはたったの一本だ。それも、夏希を彩るライトにしてはぼんやりしすぎていた。
 その代わりに持ってきたライトは譲ってもらったが、大きな電源はいとこからの借り物だ。それに繋ぐと、ぱちと人の目には眩しすぎる電気がつく。一瞬眩しそうにした夏希は、それでも慣れているらしく、角度を整えるとすぐにいつもの調子に戻った。
「……この前のロミジュリの演技でいいんだよね? あたしの台詞だけで」
「おう。カメラセットするからちょい待って」
「イメトレしとくから早くして」
「ハイハイ」
 新のほうを見ながらポニーテールを解いた夏希の黒髪が、夏の夜に散る。雲間から月が覗いていた。あの舞台の時のように、スパンコールの光るドレスではないけれど、私服では短パンを好む夏希にしては気を使ってワンピースを着てきてくれたようだった。
 残暑のせいで額を伝う汗を、新はリストバンドで拭った。いつかの誕生日に夏希から貰ったものだ。カメラの設定を素早い手つきで弄る新に、夏希が微笑む。
「やっぱりやめらんなかったじゃん、写真」
「……そーだな」
「新、なんだかんだ言って写真好きだもんね」
「何も言わずとも理解されてるの、なんか腹立つな……」
「そりゃ親友だからね。当たり前」
「そーだな、親友だからな」
 そう誇らしげに笑う夏希に、新も満面の笑みを返す。新の茶の混ざる黒髪も、夏希の黒髪も、生ぬるい風に靡いた。
「……あたしね」
 最後に一応、とレンズを磨いている新に、夏希にしては珍しい、なんだかか細い声で声をかけられる。ふとそっちを向くと、やけに力を抜いた笑みが新を見ていた。レンズを磨く手が止まった。
「ずっとあんたに撮ってもらいたかったよ」
「……そうかよ」
 それだけ言うと、夏希は背筋を正した。新はレンズを一拭きすると、そっとカメラを構える。夏希はゆっくりと、ジュリエットの台詞を言い始めた。
 シャッター音が幾度も響く。夏の終わりの、まだ蒸し暑い夜のことだった。