アイビーは咲かない

 幼馴染のお兄ちゃんが好きだった。
 雪のような白い髪に、整った顔立ち。

『燈矢くんのおよめさんになる!』

 舌足らずな高い声で、燈矢くんにそう言った。そのときの彼の返答は、長い間思い出せないままでいるのだけれど。
 燈矢くんは私が五歳の頃に亡くなった。自身の“個性”によるものらしかった。人が亡くなる。幼かった私には、それがどういうことかよく理解できなかったのだけれど。そういえば、あの頃の燈矢くんの日に日に増えていく身体の火傷は、不自然だった。
 そんな今でも鮮明に覚えているのは、あのピーコックブルーの綺麗な瞳。焦凍くんと同じ色をした、でもどこか違うあの瞳。

 あれから十数年。私は十六歳になった。焦凍くんと同じ雄英高校への進学を選んだ。私の“個性”はヒーロー向きではなかったから、普通科に進学をしたけれど、焦凍くんは雄英高校のヒーロー科。自慢の幼馴染だ。
 同じ高校に進学したとは言え、普通科とヒーロー科は時限数が違う。だから焦凍くんとの関わりも自ずと少なくなってしまった。
 中学生の頃から、告白されることは少なくなかった。でも私は好きな人がいるから、と断り続けていた。大半の人はそれを焦凍くんのことだと言う。もっとも、私がそうやって断っていたのは諦めさせるためだったのだけれど。それに、あんなにかっこよくて何でもできる完璧な焦凍くんのことを恋愛対象として見たことはない。きっと、彼のお兄ちゃん――燈矢くんのことが忘れられないでいるから。
 そしておかしなことに、私に告白してきた男の子たちはもれなく行方不明になるのだ。

 ◇

 いつも通り帰路に着く夕方。薄く空を覆う雲がわずかに赤く照らされていて、雲の間から覗く夕日に肌が染まる。中学のときのように、隣に焦凍くんはいない。少し寂しさを覚えながらも、家へと足を進めた。
 焦凍くんの瞳を見る度に、焦凍くんが左を使う度に、私は亡き燈矢くんのことを思い出すのだ。すっかり記憶は薄れ、彼の顔なんてもうほとんど思い出せなくなってしまった。

「燈矢くん……」

 道に立ち止まって、ぽつりと呟いた。私はこうやって、燈矢くんのことを思い出しては一人呟く。もう癖になってしまっているみたいだった。記憶が薄れても、私の中に燈矢くんの存在を置いておきたいから、だと思う。私とよく遊んでくれた燈矢くん。泣いていたときにも隣にいてくれた燈矢くん。大好きだった燈矢くん。
 ――もし、いま燈矢くんが生きていたら、ヒーローになっていたのだろうか。もしかしたら、エンデヴァーをも超えるような、そんなヒーローに。……考え始めたら止まらない。家に帰ろう。
 止めていた足を動かし始めたとき、何かにぶつかった。顔を上げれば黒い人影。

「ご、ごめんなさい!」

 頭を数回下げて、急いでその場から立ち去ろうとした。怖い人で、慰謝料なんて請求される羽目になったら嫌だから。
 その人から背を向けた瞬間、腕を掴まれた。怖い人、だったかも。腕にこめられた力は決して弱いものではなくて、痛みをわずかに伴った。

「久しぶりの再会だってのに随分呆気ねえじゃねェか」

 ……“久しぶり”? 聞き間違いかと思われたその言葉に、私は顔を上げて男の顔を見た。
 継いで接いだ爛れてしまった色の変わった皮膚は痛々しくて、思わず顔を顰めてしまうほどで。恐らく火傷痕だろう。ゆっくりと口角を上げる彼の瞳は――私がよく知っている色で。焦凍くんとは同じようで違う、あの色。記憶の中にあるピーコックブルーの瞳が呼び起こされる。

「燈矢、くん……」

 私から発せられた声はとても震えていた。どうか間違いであってほしい。私の記憶の中の彼の姿とは大きく異なっているのに、この目の前の男を燈矢くんでない、と否定しきれずにいた。
 男に否定してほしい。俺はそんな名前じゃない、と。その一言が欲しい、のに。

「なあ、名前ちゃん」

 初対面であってほしい彼の口から零れたものは、紛れもなく私の名前だった。足が小刻みに震える。だって、燈矢くんは――

「あの時の約束、忘れちまったか?」

 あの時の約束。もし目の前にいる男が本当に燈矢くんなら、私が思い出せる約束はたった一つ。唇をきゅっと固く結べば、男はわかりやすくため息をついた。

「ああ、哀しいよ。名前ちゃん」

 どうか燈矢くんじゃなくて、別の人ならいい。いっそ不審者なら、どれほどいいことか。
 目を泳がせる。男と目を合わせないようにしていると、その男は少し屈んで私に視線を合わせた。
 刹那、昔の記憶が走馬灯のように。


『燈矢くんのおよめさんになる!』
『名前ちゃんと俺の歳じゃまだ結婚できないんだよ』
『えー!』
『――だから、名前ちゃんが大きくなったら俺のお嫁さんになってくれる? 俺、待ってるからさ』
『! うん……!』


 目の前の男は間違いなく燈矢くんだ。それを認めたくなくて、首を小さく横に振る。彼は私の肩に手を置いて、優しくぽんぽんと叩いた。

「大きくなったなあ」

 腰が抜けそうな、冷や汗が噴き出すような、そんな感覚が今。私のその姿を見て喉を鳴らして笑う、男――いや、燈矢くん。

「ずううううっと名前ちゃんのこと見てたんだよ! 『好きな人がいるから』って言うのは焦凍じゃなくて俺のことだったんだろう?」

 助けを求めたくたって、まわりに人はいなかった。運悪く、人通りの少ない道だったから。

「よく俺の名前呼んでたよなあ、寂しかったよなあ」

 いつから。どこから、どこまで見られていたのだろう。

「名前ちゃんに近寄る男もみんなみんな俺が燃やしてやったよ」

 燈矢くんは、その言葉を聞いて硬直してしまった私の腕を引いた。素直に胸へと引き寄せられた私は、下を向くしかなかった。私に告白してきた次の日に行方不明になっていた彼らは。仲の良かった男の子の友達も、そんなに関わりのなかった男の子も、みんな燈矢くんの手によって―――

「名前ちゃんは、俺のお嫁さんになるんだもんな?」

 背中を優しく撫でられれば、私は精神的な拘束によって身動きがとれなくなった。この説明しようのない感情を涙に流せば、燈矢くんの優しい声が鼓膜を刺激した。

「好きだよ、名前ちゃん」

 大好きだった燈矢くん。でも今は正体不明の恐怖に支配されて、私は燈矢くんの胸の中で何度も頷くしかなかった。