雪が落ちる前に
俺には好きな人がいる。同じクラスの苗字名前さんだ。
彼女はどこか大人びていて、その上ヒーローとしての強さや優しさも持ち合わせていて。それでいて、笑顔は太陽のように明るい。俺は彼女のそんな笑顔や人柄に惹かれたのだ。けれど、とても俺なんかじゃ釣り合わないというのが悲しい現実だ。
「天喰くんのこと見てるとドキドキしちゃうな」
だから、彼女の口からこの言葉を聞いたとき、俺の脳は考えることをやめた。もしかすると、両思いなんじゃないかって。こんな贅沢なことがあっていいのだろうかって。おそらく真っ赤になっているであろう顔をゆっくりと上げると、彼女は俺と視線を合わせたまま言うのだ。俺の好きな笑顔だった。けれど、余計な期待をするもんじゃない。だって、彼女はこう言ったのだから。
「天喰くん、なんだか危なっかしくて」
◇
「そんなに笑わないでくれないか……! ああ、やっぱり俺じゃ駄目なんだ……」
「違うよー、誰もそんなこと言ってないって! 名前ってそういう子だもん! ね、通形!」
「ああ、苗字さんは心配してくれてるんだ!」
俺は演習などであまり失敗はしない方だが、苗字さんにとってはこの表情や身体に出ているメンタルの弱さ見ていて心配になるらしかった。三年生になってインターン活動が増えたことで、演習があることはほとんどなかったが、今日の久しぶりの演習で彼女にはみっともない姿を見せてしまった。何より彼女の前だったから、いつもの数倍緊張していたこともあって。二人にはこうやって励まされるが、好きな人に心配される人間だなんて情けないにも程がある。
俺はこの気持ちを墓場まで持って行くつもりだったが、親友のミリオにはあっけなくバレてしまい、さらには波動さんにも気づかれていたのだ。どうやら俺はわかりやすいらしい。それからと言うものの、皆が帰宅をした放課後に、この教室で毎日ほとんどない進展を二人に伝えることとなっている。……恥ずかしいけど、この二人くらいにしか相談できないのが事実である。
「それに何度も言うけど、俺は別に彼女と付き合いたいわけじゃ――」
「それほんと? ねえそれって本心なの? 言い訳してるだけなんじゃない? 本当はどう思ってるの?」
波動さんは人差し指を立てて俺の顔を覗き込んできた。彼女の無垢な表情がとても俺に刺さる。――そう、本音を言えば彼女と付き合いたい。彼女に好きになってもらえるならば、どれほど幸せだろうか。俺は固く結んでいた口を開いて、少しばかり息を吸った。
「ほ、本当は……」
「本当は?」
「…………付き合いたい」
精一杯出した声は、二人からすれば蚊の鳴くような声だろう。俺みたいな人間がこんな贅沢を言って許されるのだろうか。ああ、言って後悔した。きっと二人には引かれているに違いない。今すぐ消えたい……! 消してくれ……!!
「じゃあ、見てるだけじゃ駄目だと思うんだよね!」
「……え、」
ミリオの返答に顔を上げれば、二人は俺の贅沢すぎる願望に引くことも笑うこともなく、真剣なアドバイスをくれた。見てるだけじゃいけない、そんなことはわかっている。でも、自分から話しかけるだなんて、そんな――
「そんな、俺から話しかけるなんて。そんなこととてもできない……」
「嘘つかないの!」
嘘だって? 俺は嘘を今の一瞬でついたというのか。波動さんはどこを聞いて嘘だと判断したんだ。俺はメンタルが弱いだけじゃなくて無意識に嘘までついてしまう人間だったのか……!
勝手に一人で落ち込んでいると、波動さんは俺に「顔上げて」と言った。彼女の顔を見ると、頬を膨らませている様子だった。お、怒っているのか?
「私に最初に声かけてくれたのは天喰くんだったでしょ、覚えてる? 覚えてるよね? だから天喰くんは自分が思ってるより強い人間なの、ねえ知ってた?」
「うん、環はいつだって自分を卑下しすぎだ。もっと自信を持っていいと思うぞ!」
確かに、ミリオの真似をして波動さんに声をかけたのは事実だ。ミリオのように、強くなりたくて。それにファットにだって強い人間だと言われてきた。だったら、俺は。
「――ありがとう二人とも。少し、頑張ってみるよ」
二人と目を合わせてそう言えば、二人は頷いてから「頑張れ!」と背中を押してくれた。窓から射し込む夕日が少し、眩しかった。
◇
翌日、ミリオと学校に向かう瞬間から緊張が半端じゃなかった。ミリオには「力抜けって!」と背中を叩かれたが、とても無理だ……! 昨日“頑張る”宣言をしておいてこの有様だ。やっぱり俺は強い人間なんかじゃなかった。どうしたらいいんだ。
教室の前で十数回、いや、数十回深呼吸をする。ミリオには呆れられているだろうか。けれど一向に落ち着く気配がしないんだ。もう俺の事なんて放って自分のクラスに行ってくれないだろうか。いざ入ろうとドアに手をかけると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、天喰くん。何してるの?」
その声はミリオでも波動さんでもなく、苗字さんのものだった。俺の好きな人の好きな声が俺の名前を呼んだことに嬉しさを感じながら、でもひたすら深呼吸をする姿を見られた情けなさに思わず固まってしまう。
「お、おは、……よう」
「相変わらずだね」
苗字さんは苦笑しながら俺が開ける予定だったドアを開けた。彼女にとっては「何してるの?」というのは純粋な疑問だったかもしれないが、それでもネガティブな俺は彼女に引かれていると解釈してしまった。中にいると思って無駄な緊張をしていたのに、当の彼女は俺より後に来て、それが余計に俺の寿命を縮めた。……世界一無駄な時間を過ごしてしまった。
それから一日ただ彼女を眺めて過ごしていた。話しかけられれば挙動不審な返答をし、自分から話しかけようにも彼女の周りには人が集まるからなかなか行けなくて。波動さんからは「頑張れ!」という視線が常に向けられているが、なかなか行動できないでいる。彼女が一人のときを狙って声をかけたいが、そのような良いタイミングに巡り会えない。
――そして三日後。ミリオから提案という名の任務が課せられた。
「今日は苗字さんを誘って一緒に帰ること!」
「えっ……! ハードルがあまりにも高くないか……!?」
そんな難しくて、さらにハイリスクなミッション……。断られたら明日から気まずくて死んでしまう……! 辛い! ミリオが言うには「苗字さんとは駅まで一緒だから」って。確かにそうだ。通学中に何度も見かけては目で追っていた。ああ、なんだかストーカーのようだと思ってしまった。もし苗字さんにもそう思われていたらどうしよう……。気を落としていた俺の肩に手を置き、俺の心情とは正反対の笑顔を向けるミリオに乾いた笑いすら出なかった。
七限が終わる一○分前から緊張が半端じゃなかった。ここ数日でどれだけ寿命が縮んだだろうか。チャイムが鳴ると同時に胃が痛み出した。苗字さんに目を向けると、伸びをしてから鞄に教科書やノートを入れ始めた。苗字さんは友達と帰ることが多いが、今日は幸運にも一人で帰るみたいで、本当にタイミングが良かった。
苗字さんが教室を出るのを見てから俺もショルダーバッグをかけて後を追う。ふと振り返ると、波動さんに「頑張れ」と声を出さず、口パクで伝えられたのが見えた。そんな波動さんに「ありがとう」と返して、俺は教室を後にした。
◇
見えなくなった彼女を追い、彼女の背中を視界に捉えたのは校門のあたりであった。今しかない。周りに人はちらほら見えるが、それを気にしている場合ではない。俺は彼女のもとに駆け寄って――
「……え、」
それは予期せぬ出来事であった。いや、予期はいくらでもできたはずだ。どうしてその前提が頭に無かったのだろう。校門を出たあたりで、彼女に話しかける男の人がいた。高校生ではなさそうだ。歳上、だろうか。そりゃ彼女の人柄だ。恋人がいることなんて、安易に想像できただろう。ごめん、ミリオ、波動さん。せっかく背中を押してもらったのに、この有様だ。
どうしようもなくなって立ち尽くしていたが、彼女の声によって引き戻された。
「――だから嫌ですって」
「ちょっとだけだって」
「……お断りします」
……どこか様子が変だ。恋人なら、もしかしたら俺の知らない彼女の表情が見えるんじゃないかって思ってたけれど、彼女の顔から伺えるのは嫌悪感という言葉が相応しかった。嫌な予感がする。
「……いい加減にして」
彼女が自身に伸びてきた男の手を払い除けたと思えば、男はあからさまに舌打ちをしてから再度手を伸ばした。きっとその予感は的中だ。ナンパなのか、怪しい勧誘なのか、そういうのはどうでも良くて。俺は男の手が彼女に触れる前に、それを掴んだ。
「っ、天喰くん、」
「……何、してるんだ」
俺はさらに手に力を込めた。男の手首が悲鳴を上げるんじゃないかってくらい。それでも男は折れなくて、俺たちより歳上であることを引き合いに出す。
「高校生の分際で――」
思わず笑ってしまいそうになった。俺たちは最高峰の雄英高校ヒーロー科の生徒だ。俺たちはすぐにプロヒーローである先生たちに助けを求めることだって可能だし、相手が攻撃を仕掛けてきても何も怖くない。俺は、強いのだから。
「……ここから、立ち去れ」
どうやら俺の持ち前の目つきの悪さとさらに込めた力に男は諦めたらしく、再度舌打ちをしてから逃げて行った。自分の目つきの悪さに感謝したのは初めてだ。平和に解決して良かった。外での“個性”の使用は控えなければならないから。
男が去ったのを確認してから、苗字さんの方を見る。無事だろうか。触られる前で良かった。何て声をかけようかと思っていると、彼女の手が俺のブレザーの袖口を掴んだ。
「…………え、」
「天喰くん、ありがとう……」
彼女は少し震えていて、普段あんなに強い彼女でも怖かったんだな、なんて冷静にも考えた。ああ、何て声をかけるべきだろうか。今さっき男に触られそうになって嫌な思いをした彼女の背中をさすることは、許されるだろうか。考えるより先に、俺の手は伸びていた。
「何も、されてないだろうか」
「……うん」
彼女を誘って一緒に帰るなんて目的を忘れて、俺は彼女の震えが止まるまで背中をさすった。決して泣くことはなかったけれど、怖い思いをしたのは事実だ。何とかして落ち着かせようと、必死に言葉を探す。
「……君に何かあったら、俺が助けるよ」
違う。そんな口説き文句みたいなことが言いたかったんじゃない。自分の言ったことに恥ずかしくなってしまって、動きを止めてしまった。ああ、引かれてしまっただろうか。一度助けたくらいで調子に乗るなって思われただろうか。
恐る恐る彼女を見ると、驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。それからおかしそうに笑っては、小さく「ありがとう」と言った。
彼女の震えが止まったのを確認して、手を離す。ああ、本当に何もなくて良かった。そして、苗字さんの恋人でなかったことに今更安堵した。
そして急に神様が俺の味方をしてくれたかのように、苗字さんは「駅まで一緒に帰らない?」と言ってくれた。俺は幸運だ。ありがとう、神様。ありがとう、ミリオ、波動さん。
――とは言っても、俺から話を振ることは苦手で、彼女の方をちらちらと見ながら足を進めた。彼女と同じ歩幅で歩くのが心地よい。彼女は「本当に、ありがとう」と何度も言った。何度も繰り返されるお礼に、照れくさくて下を向いてばかりだったが。
すると突然彼女が言葉に詰まった様子で、何かしてしまっただろうかと隣を見る。
「なんでもないよ、でも、」
先程まで俺の方を見てお礼を言ってくれていた彼女は下を向いて、こう言うのだった。
「天喰くんのこと見てると、ドキドキする」
また俺のメンタルの弱さや卑屈さで心配させてしまっただろうか。ああ、またやってしまった。
血の気が引いていく感覚のまま彼女の方に目をやると、俺の口から情けない声が漏れた。
彼女は俺と目を合わせないまま、ただ頬を紅潮させていた。