翻弄する夢見鳥

 いつも通り登校して、目立たないように後ろのドアから入って、波動さんや甲矢さんに挨拶をして、席に着く。これが俺の毎日の学校生活の始まり。チャイムとともに担任が教室に入って来て、特にいつもと変わらないホームルーム。今日は特別授業や授業変更がなく、いつもより少し短めに担任は話を切り上げた。

「今日の日直は、天喰」

 あ、そうか。もう一周してきた頃なのか。日直といっても黒板は中学の頃と違ってデジタルだし、特にすることもないのだけれど。強いて言うなら先生からの雑用を頼まれるのと、あとは日誌だったはずだ。黒板がデジタルなら日誌もデジタルでいいじゃないか、なんて思ったりもするが。

「――と、苗字」
「……え?」
「えっ、私?」

 俺のあとに名前を呼ばれたのは、苗字さんだった。そこで俺の思考は停止。からのフル回転。どうして苗字さんなんだ? よりにもよって片思い中の苗字さん……いや、そもそも日直は普通一人でするものだったはずだ。急に二人に変わったっていうのか? ヒーロー科はただでさえ一クラスの人数が少ないって言うのに、そんなの一周するのがますます早くなってしまうじゃないか。

「せんせー、どうして? 日直ってそもそも一人のはずじゃないですかー」
「苗字は日直回ってきたらいつもさぼってるだろ。さぼらないように監視の意味も込めて、丁度一周した天喰とならお前もさぼらないと思ってな」

 俺が、苗字さんを監視? そんなことできない。……いや、今までずっと目で追ってしまったりしていたのは逆に監視だったのかもしれない。なんて気持ち悪い男だ。苗字さんはクラスメイトから「ドンマーイ!」と声をかけられながらも、渋々先生から日誌を受け取った。まあ、俺が日直の役割をやれば苗字さんも怒られず、俺も無駄に心臓を働かせずに今日は無事に終わるだろう。

「天喰くーん、これも何かの縁だからがんばろーね。大丈夫だよ、私もちゃんと働くから」
「あ、……ああ」
「天喰くんおもしろ。よろしくね」

 無理だ。前言撤回。彼女に名前を呼ばれたことで今日はもう無事で終わりそうにない。助けてくれ、ミリオ、波動さん。

 ◇

 案の定先生に雑用として教材を教室まで運ぶように頼まれてしまった。これに関しては二人いて良かったと思う。二十人分とは言え一冊が分厚いし、一人だったら廊下で転んで恥ずかしい思いをしていたに違いない。今は俺と苗字さんで半分、というか俺の方が多くなるように分けて、廊下を歩いているところである。

「天喰くん優しいねー。前みたいに転ばないように気をつけてね」
「あ、ああ……」
「さっきからそればっか。私って話しにくいの?」
「いや、そんなことは」

 決して彼女は話しにくいわけじゃない。むしろすごく話しやすい方だと思う。俺のそもそものコミュニケーション能力に問題があるのだろう。けれどそれ以上に、俺が彼女のことを好きという弊害が大きすぎる。隣のクラスのミリオには「ラッキーだな!」なんて言われたが、こんなに話せないようじゃラッキーどころかアンラッキーだ。でもせっかくのチャンスなら……! そう思って俺から話しかけてみることにした。

「苗字さんは……どうして日直をさぼったり……」
「えー、苗字さんじゃなくて名前ちゃんでいいよー。ほら、名前ちゃん!」
「えっ!? む、無理だ……」
「うん知ってたー」

 そう言ってくすくすと笑う彼女。彼女は苗字より名前で呼ばれる方が好きらしく、入学当初から名前呼びを半ば強制していた。クラスで彼女のことを「苗字さん」だなんて呼んでいるのはもしかすると俺だけかもしれない。でも、俺が名前呼びだなんて……まして好きな子を……そんなの無理だ。考えただけでも頭が爆発しそうになる。

「なんでさぼったりするのかってね。私ねー、日直嫌いなの」
「そ、そんな理由で?」
「うん、めんどくさいもん。だから先生が監視をつけたのは正解かもしれないね」
「監視、なんて……」
「ね、そんなガラじゃないもんね。うける」

 またしてもくすくすと笑う彼女。俺は彼女の笑顔が好きだ。「天喰くんだったら下手すれば全部やってくれそうなのにね」なんて笑う。俺だってそのつもりだった。でも君が予想外にもしっかり働いてくれるから、俺の計算は狂ってしまったんだ。

「まあ、天喰くん面白いし。なんか楽しいから別にいいかなーなんてね」
「っ、……」

 よいしょ、と言いながら教卓に教材を置いた彼女は、俺の方を見向きもしないで他のクラスメイトのもとへと行ってしまった。俺は彼女の後ろ姿をただただ眺めているだけで、数秒後に甲矢さんから背中を叩かれることとなった。

 ◆

 俺が彼女に恋をしたのは入学して間もなかった頃だ。ミリオにすごい奴だなんて言われて、無事に倍率の高い名門校の雄英にも合格して。もしかすると本当に俺はすごい奴なんじゃないか、なんて思ってドキドキしながら教室に向かっていると、格好悪いことに転んでしまったのだ。これによってとても俺がすごい奴だなんて思えなくて――

「だいじょーぶ?」
「えっ、……あ、」
「怪我してないー? 頭打ってないー?」

 あまりの恥ずかしさと消えたさで落ちてしまっていた頭を上げると、君がいたんだ。君はしゃがんで俺と目線を合わせて、こんなに格好悪い俺に声をかけてくれた。

「だ、いじょうぶ……です……」
「そ、よかった。私ね、苗字名前。多分同い歳? だから敬語いらないからねー。ヒーロー科だから確か、A組かB組だったと思うー」

 そりゃあヒーロー科ならA組とB組だよな、と思った。少し、天然なのかなんなのか、よくわからない子だと思ったけれど。

「同じクラスかなんだかわかんないけど、一緒ならいいねー、じゃあ先行くね」

 ばいばーい、と、俺とは対照的にまるで緊張感のない声で手をひらひらとさせながらその場を去る彼女。
 その瞬間からなぜだか心臓がうるさくて仕方がなかった。あんなによくわからない子なのに、もしかして一目惚れというやつかもしれない。最後に見せてくれた、あの笑顔だろうか。そして偶然にも、同じクラスになってしまったのだ。彼女はこんなこと、とうに忘れているかもしれないが。

 ◆

「日誌だってー、天喰くん書いてよ」
「あ、ああ……」
「やだな、冗談冗談。私が書くよー」

 すっかり夕日に染められた教室で、一つの机を挟んで彼女と向かい合って座っている形となる。彼女自信も沈みかかった夕日にわずかばかり染められていて、どこか芸術品のようだと思った。でもそれどころではなかった。こんなに近い距離で話したことがなくて心臓が忙しいのだから。
 彼女はどこかゆるくて不思議な雰囲気の割に、綺麗な字を書く。ピンク色のシャーペンを持ったその手は流れるように文字を綴る。消しゴムがほんの少しだけ欠けている様子から、やむを得ず使うタイミングがあったのだろう。髪が視界を遮って邪魔そうだと思ったが、それは彼女のもう片方の手によって耳にかけられた。それでも落ちた一束は、オレンジ色をした光が透けていて思わず見惚れてしまう。

「んー、今日の現代文何したっけー」
「『こころ』。最近ずっとそれじゃないか」
「そっかー。私ね、そんなに好きじゃないの。だってKがね――」

 彼女は今の現代文の授業に対する感想と不満を言いながらも、さらさらとペンを進める。俺はその不満に対して「そうだね」「確かに」なんて薄っぺらい同意の言葉を並べ立てるだけに終わっている。さすがは俺のコミュニケーション能力のなさだ。何かあれば同調をしてしまうなんて。……好きな子に嫌われたくない、なんていうのも一つだが。

「天喰くん、必殺技どうー?」
「ミリオのおかげで何とか……」
「うっそだー。天喰くん一人で何個も試してたでしょ、見てたよ。もー、なんでそんなに謙遜しちゃうのー」

 見られていた。今の“個性”強化の訓練では主に各々の必殺技を編み出している。ミリオはすごい。そんなに派手な“個性”じゃないのに、色々と実践をして試行錯誤を繰り返しているのだから。俺もいくつか試しているが、普通に再現するのと何ら変わりない気がして。苗字さんの必殺技は――

「――苗字さんの必殺技は、綺麗だった」
「えーそう? 自信あったの。嬉しいな」
「あっ、いや、……うん」
「急に微妙な反応ー。今日やってたやつとね、あと二つあるの。二つだよー」

 人差し指と中指を立てて俺に念を押すようにそう言った。すごいでしょ、とでも言わんばかりだ。微妙な反応をしてしまったのは、思わず心の中の言葉が、心の中で考えるよりも先に出てしまっていたからだ。苗字さんの必殺技は特段派手というわけではなかったけれど、どこか綺麗で。ひらひらと舞うような動きに合わせて工夫された“個性”。その姿はまるで蝶のようだった。ああ、無意識にそういうところでも惹かれたのかもしれないな。

「天喰くんもできたら見せてねー。謙遜はだーめ」
「うっ……は、はい……」
「よろしい」

 こつんと俺の額のあたりをシャーペンで小突く彼女は俺の返事を聞くとまた、笑った。ああ、この笑顔が好きだ。顔に熱が集まっている気がする。きっと顔が赤いのは、夕日のおかげで誤魔化せているだろうか。

「今日の出来事? 天喰くんが面白かったー、でいいや」
「そ、そんな適当な……」
「だって面白いもん。こういうのはね、適当くらいが丁度いいんだよー」

 本当に彼女は六行の欄に『天喰くんが面白かった』という一行にも満たない一文を書くと、ペンを動かしていた手を止めて、握られていたそれをその場に落とした。なんだかんだで特に大きな事故もなく、好きな女の子との日直を終えることができた。こんなに話すことはこれからもないだろうし、日直だって二人体制ですることは今日で始まり今日で終わりだろう。
 すると、彼女が閉じたはずの日誌はもう一度開かれて、俺の方を向けた。

「ねー天喰くん。今日の日誌ね、上から声に出して読んでみて」
「えっ、……何のために……」
「いいからいいから」

 彼女からそれを受け取ると、今日の日誌のページの上に視線を落とした。なんだ……? タコ、の絵?

「それね、天喰くん」

 もうよくわからない。でもわかることは、このよくわからないタコの絵を書いた彼女は可愛いということだ。駄目だ、好きになってしまったからにはすべてが可愛く見えてしまう。タコの絵が『天喰くんが面白かった』なんていう一文よりも長く、たくさん描かれているのを無視して俺は彼女の指示の通り日誌を声に出し始めた。あっ、駄目だ。声が震えそうだ。小学生のとき、音読で何度も読み直しをさせられてからトラウマになったのを思い出した。ちらりと彼女を見ると、期待の込められた視線が向けられていた。

「――天気、晴れ。日直、天喰、名前…………あ、」
「いえーい、やった」
「え、その、」

 少し震えた声で読み進めると、開始数秒で詰まってしまった。これは音読がトラウマだから、とかそうじゃなくて。

「天喰くんだけ名前呼んでくれないからね、呼ばせてみたかったの。やったね」
「いや、あの、ちが、」

 俺は苗字さんのことを名前だなんて呼んでしまった。高かったハードルを一気に彼女のせいで越えてしまうことになったのだ。けれど、俺が言葉に詰まっている、というよりパニックになっているのはそうじゃない。そうじゃなくて。

「通形くんのことだけだもんねー、私もしかして二人目? 嬉しい」
「あの、苗字さ、その、」
「んー?」

 あまりにもパニックになっている俺を見越してなのか、彼女は何か不備があったのかと俺の手に渡った日誌を覗き込んだ。彼女はまじまじと自分の書いた文字を見てから「あ、」と声を出す。

「天喰名前って結婚してるみたいだねー、おもしろ」
「あ、……うん」
「もしかしてこれで照れてたの? 面白いねー」

 そう言っては笑う彼女。意識していたのは俺だけだっていうのか。何とも情けない。もしかすると好きだということがバレたかもしれない。そんな彼女は何とも思っていないような表情で俺から日誌を奪うと、教卓に置いた。

「職員室に持っていかないと……」
「いーの。面倒だし、先生も見つけられるところに置いといたし。さ、帰ろー」

 俺だけは未だパニックだ。天喰名前の文字列に、彼女の口から聞こえた「天喰名前」「結婚してるみたい」。けれど意識しているのは本当に俺だけだし、もうチャンスは来ないのだと落胆した。俺の彼女への片思いが成就することはないのか。
 下駄箱からローファーを出した苗字さんはそれを履いてつま先をトントンと鳴らした。「早くー」と言って俺を待っていたので、俺も慌てて靴を履いた。

「ねー、次も日直さぼったらまた天喰くんと一緒にできるかな」
「えっ、」

 またしても下を向いていた俺の顔は彼女の言葉で彼女の方を向くことになった。君は楽しそうな笑顔で、そんなことを言うもんだから。俺は君から目が離せなくなってしまって。

「次また監視がつくなら天喰くんがいいなー」

 その笑顔のまま俺の方を向く君から、どうしても目が離せなかった。俺の恋は成就しないかと諦めかけていたけれど、もしかすると。本当にもしかすると、まだチャンスがあるのかもしれない。