ロベリアに酩酊

 私には思いを寄せている男の子がいた。正確に言えば、今もなお片思い中の。中学のときから十年弱、その思いが消えることはなかった。そんな彼は、私の思いを伝えないうちにどんどん手の届かない場所へと行ってしまうのだった。

「苗字、さん……?」
「……えっ?」

 だから、その姿が目に映ったとき、何かの間違いなんじゃないかって、そう思った。

 ◆

 中学に上がって、ドキドキしながら教室に足を踏み入れようとするも、つぶらな瞳の男の子と、猫背気味の男の子がドアの前で狼狽しているのが見えた。と言うより、猫背気味の彼だけが。邪魔だから早く入ってくれないかな、と思って、私は挨拶なんてせずにそのドアを横取りするかのように開けた。小さく「ひっ」なんて声が聞こえたから少しだけイラッとしたものだけれど、私の性格が悪かったのかもしれない。

 入学してから次の日は、クラスで一人一人が自己紹介をする。“個性”に関してはデリケートだからわざわざ言うわけじゃなくて、簡易的な、名前と出身小学校、そして一言。その程度。先日の猫背で目つきが少々悪めの彼は、似合わないことに出席番号一番だった。

「……あ、あまじき……たまき、です……出身は、……」

 もしかすると、口が半開きになっていたかもしれない。名前はかろうじて聞き取れたからいいものの、他のことがまるで聞こえない。耳を澄ますも、部分的に、だ。どうやら自己紹介が終わったらしいあまじきくん? は、小さくお辞儀をしてすぐに席に着いてしまった。周りからは困惑の色が見えて、まばらな拍手が聞こえてきた。その中でも浮くくらいに大きな拍手を鳴らしていたのは、つぶらな瞳の彼だったのだけれど。正直なところ、合わなそうだな、なんて思っていた。

 運が悪いのかどうなのかと言われれば運が悪い。三度目の席替えにして、天喰くんと隣の席になってしまった。ため息をつきたい気持ちは我慢して、「よろしくね」と言うと、「あ、よ、よろしく……」と安定のたどたどしい返事が返ってきたので、呆れて笑ってしまったのだけれど。
 でも彼は頭がいい。当てられたときに顔を一度青ざめさせるのはいつになっても治らなかったけれど、テスト前の課題で手が止まれば、「どこかわからない?」と優しく聞いてくれたりして。頭がいいし、教えるのも上手かった。だからこそ私が理解できないと、「ああ……俺が教えるのが下手だから……」なんて言うけれど、私の頭が悪いだけ。天喰くんはむしろめちゃくちゃ教えるのが上手だった。その後ろ向き発言さえ直してくれればな、なんて。
 そう、それと――

「うっ、……」
「どうか、した?」
「んん、……っ、なにも、ないよ」

 やはり中学生って難しい年頃なもので、少し意見が食い違っただけでも仲間外れにされてしまう。いつの間にか私の居場所はなくなっていたのは、私の性格の問題なのか、どうなのか。
 放課後の教室で一人泣いていると、その姿をよりにもよって天喰くんに目撃されてしまったので、涙を拭って笑顔をつくる。でもまあ、それは失敗に終わってしまった。

「……話、聞いてもいいか」
「……何も、ないよ」
「……君が嘘ついてるのは、わかる」

 そんなにわかりやすいのか、そう思うと一度止まったはずの涙はみるみるうちに溢れて、あなたは少し困っていたのかな。それから、少し話を聞いてもらうだけで楽になった。あなたは相槌を打つだけ。うん。そうなのか。それは辛い。そんな言葉だけで、私の気持ちは楽になった。最後に「私の性格が悪いのかな」なんて笑いながら言ったとき、あなたは普段合わせてくれない目を合わせてくれた。

「苗字さんは、素敵な人だよ」

 その言葉に、気のせいかもしれない。気のせいかもしれないけれど、どこか胸が高鳴ったような気がした。

 運が良いことに、三年間ずっと同じクラスだった。そんなにたくさん話す方ではなかったけれど、すれ違うと会釈をしたり、定期的にある“個性”強化の授業の話をしたり、テスト前には勉強を教えてもらったり。
 私の公立高校の入試が近づいたとき、そう言えば天喰くんはどこの高校に行くんだろうと思って、思い切って訊いてみた。教えてくれないのなら、まあ仕方ないなと思いつつ。でも、近くの高校ならいいなって思って。

「天喰くん、どこの高校受けるの?」
「……えっ、俺は……」
「……ごめん、教えたくないならいいよ。デリカシーなくてごめんね」

 付き合いが長い割に教えてくれないのは少しショックだったけれど、天喰くんだし、と片付けようとして、その場を後にしようとしたとき、声で呼び止められる。

「ゆ、雄英……なんだ」
「……えっ、……えっ?」

 俯いたままの彼から聞こえたのが、まさかヒーローを養成する最高峰の雄英高校だなんて。天喰くんが、そんな。頭、良いもんな。絶対受かるに決まってる。そうやって驚きはすぐさま納得に変わったのだけれど、横からひょいと出てきた通形くんにさらに驚かされることになった。

「俺も雄英高校なんだよね! 環も俺も、ヒーロー科さ!」
「み、ミリオ……」
「……えっ?」

 今の時期にそう言うってことは、雄英高校志望じゃなくてもう受かっているってこと? 頭が混乱してきて、天喰くんに思わず詰め寄ってしまった。確かに天喰くんは最近“個性”を使うのが上手くなってきたなって思ったけれど、まさか、まさか、ヒーロー科だなんて。

「ど、どうして言ってくれなかったの!?」
「お、俺なんて……大したものじゃないから……」
「ええ……」

 大したものでしかない。倍率いくらだと思ってるの。ここまで謙遜が激しいともう清々しくなってくるレベルだ。それにしても雄英だなんて、そんなの、全然会えなくなってしまう。こんなに近くにいた人が、あっという間に遠くに行ってしまって、おめでたいことなのにどこか喜びきれない自分がいた。

 そこから後悔は募るばかりで、告白しておけば良かった、とか、連絡先を交換しておけば良かった、とか。テレビで映されたり、ネットニュースになっている彼を見る度にその後悔は大きく膨らんでいった。

 ◆

 仕事の出張で偶然大阪まで来た私は、もはや聖地巡礼といった気持ちだった。彼のことが好きだけど、純粋にサンイーターの一ファンになっていたのだ。あ、ここ中継で映ってたな、とか、ここファットがよく食べてるたこ焼きのお店だ、とか。最終日に取っておいたフリーの日を大阪の街を歩きながら満喫していた。そのとき、事件が起きた。

「苗字、さん……?」
「……えっ?」

 誰かに名前を呼ばれて驚いて振り返る。だって、大阪に知り合いはいないはずだし、いたとしても――

「えっ、さん、あ、天喰、くん……?」
「……良かった、やっぱり苗字さんだ」

 そこにいたのはもしそうだったらいいな、と考えていた、コスチュームを纏っていないサンイーター――天喰くんだった。私のことを確認すると、安堵のため息だろうか。はあ、と零して私のもとに少しずつ歩み寄ってくる。髪も染めて化粧もして、あの頃よりも垢抜けていて、普通わからないはずなのに。そんなあなたは想像よりも背が伸びていて、目つきは相変わらず悪い。もちろんテレビで見るよりもかっこよくて、ときめきが止まらないでいる。これは一ファンとしてなのか、恋愛対象としてなのか。

「ひ、久しぶり、だね。元気そう」
「ああ。苗字さんは、どうして大阪に……」
「仕事でちょっと」

 髪を整えながら笑うと、彼も柔らかく微笑んだ。えっ、こんな表情したことあったっけ。ファンサービスが過ぎない? そんなことは顔に出さず、平常心を保つ。……あれ、それにしても天喰くんがヒーローコスチュームを着ていない。お仕事中だと思ったけれど、案外そうでもないのかしら。

「天喰くん今日お仕事は?」
「ああ、ファットが休暇をくれた。たまには休めって……」
「毎日大変そうだもんね、ファットの言う通りお休みが必要だよ」

 サンイーターの活躍は目覚ましいもので、毎日のようにヴィランを捕らえた、なんてニュースが入ってくる。これは私がファンだからそういうニュースを追ってしまっているだけかもしれないのだけれど。

「そういう苗字さんは今仕事中だった? すまない、邪魔をしてしまって」
「ううん、今日はフリーだよ。観光したくて。明日千葉の方に帰るの」

 そう言うと、自分で言ったのに切なくなってきてしまった。偶然の再会はやっぱり偶然で、しばらく会うこともない――もしかしたら、もう会えないかもしれない。少し話し込んで、終止符を打つように「じゃあ」と言うと、天喰くんから声がかかった。

「もう少し、話さないか」

 せっかくの再会だし、と付け加える。何故だか涙が出そうだった。会えただけで嬉しいのに、まだ話せるなんて。そんなの、余計に別れるのが惜しくなってしまうじゃない。でもそんなことは決して表情に出さないように、私から提案をすることにした。

「じゃあ、今から一緒に飲みに行かない?」

 ◇

 天喰くんって、お酒弱そう。私も強くはないけれど、アルコール五パーセントのお酒でべろべろになっているのが安易に想像できる。なんて可愛いんだろう。なのに――

「てんいんさん〜、やきとり!」
「苗字さん、飲みすぎだ……」

 私の方が潰れる始末だ。強くはない、なんて言ったけれど、普通に弱いみたいだった。ちらりと隣の天喰くんの持っているジョッキに目を移すと、しっかりと飲み干されていた。私と頼んだ本数は同じだ。なんでそんなに潰れないの!? と聞けば、どうやら“個性”の都合上胃が強く、ある程度の毒にも耐えられるからアルコールも大丈夫らしい。あまりにも予想外だった。

「天喰くん、久しぶりだね」
「さっきもその会話をしたような」
「んふふ、私酔ってる?」
「ああ、すごく」

 私も自覚してる。呂律が回らなくなってきたしなんだか楽しくなってきてしまった。そんな私を心配するように、天喰くんからお冷が渡る。気遣いができて大変結構。今日も明日もかっこいい。
 私の手に握られたビールを煽り、店員さんから届いた焼き鳥を食べ始めた。へえ、これが天喰くんは鳥の足やら羽やらの再現のもとになるのか。楽しい。

「天喰くん〜、私なんかと飲みに来て熱愛報道出ちゃうよもー」
「えっ、」
「いつも報道されてるの知ってる。すぐに否定するのも知ってるー」

 もし私と天喰くんが仲良くお店に入ったところがパパラッチされてしまったならば、次の週刊文春にでも載るところだろう。そして天喰くんがしっかりと訂正をすることで一連の流れは収まるのだけれど、もし否定されたらちょっと辛い。かなり辛い。仕方ないけれど。

「苗字さんは、いつもこんなにお酒を飲むの?」
「んーん、多分はじめて」
「えっ……大丈夫なのか」
「じゃないー」

 こんなにお酒に弱いと思っていなかったし、どうしてこんなに飲んでいるのかもわからない。天喰くんを前にして緊張するのが嫌だから、無意識のうちにそれをほぐそうとしてこの状態にあるのかもしれない。それから、お酒ってこわい。あんなのフィクションの世界だけだと思っていたのに、驚く程に言葉が自然と溢れ出てしまう。

「私ね、天喰くんと会えて嬉しい」
「……俺も、嬉しい」
「天喰くん、雄英行っちゃって寂しかったのー」

 軟骨の唐揚げをつまみながらも、止まらない。唐揚げを食べる手が止まらないんじゃなくて、自然と言葉が出てくるのが。

「もっと早く言ってくれたら私も受けたかもしれないのに」
「そ、そうだったのか」
「記念受験だよ。私の“個性”じゃ駄目だあ」

 天喰くんみたいな恵まれた“個性”でもなければ、“個性”強化の授業をめちゃくちゃ真面目に受けていたわけでもない。それに頭も天喰くんみたいに良くないし。

「明日、帰りたくない」
「…………」
「天喰くんと、離れたくないの」

 もう向こうは何言ってんだこいつ状態だろう。私もわからない。後になれば冷静になって死にたくなるのだろうけれど、お酒に頼れば恥ずかしいことも余裕で言えてしまう。そう、それは学生時代に言えなくて後悔して、今の今までずっと持っていたこの気持ちすらも。

「私ね、天喰くんが好きだった」
「……え」
「好き。好きだよ、今も」

 私の顔が赤くなっている気がするのは、お酒のせいだ。全部酔いに任せてどうとでもなってしまえ。なのに、どういう訳だか涙が頬を伝う感覚があった。私のずっと抱えていた気持ち。天喰くんは、好きな人が、もしかすると彼女ができているかもしれない。私のこの告白を聞いて、何もなかったかのように話してくれるの? ああ、長居する予定がなくて良かった。会えたのが今日で良かった。

「天喰くんのことね、大好き。中学のときから。一年のときから」
「……あの、」
「初めて見たときはなんだこのネガティブ〜って思ってたけどね」
「……」
「…………好きに、なってたよ」

 先程渡されたお冷を飲み干すと、氷がカランと音を立てた。引かれているかな。酔いに任せて告白した私のことを。約十年間、ずっと片思いをしていたことを。酔いが冷めてきたのか、少しずつ冷静になってきたけれど、決して今日の告白を後悔してはいなかった。天喰くんの返事がどうであれ。グラス越しに天喰くんの様子を窺うと、少し顔が赤くなっているように見えた。なんだ、天喰くんも酔うんじゃない。

「言えて良かったあ。もう悔いないや」
「ま、まってくれ」

 天喰くんはいっぱいいっぱいなのか、迷惑がってなのか、私に制止の言葉を向けた。天喰くんに言われた通り、素直に待った。なにものでもない、この後におそらく紡がれるであろう天喰くんの言葉を。

「俺は……」
「……うん」

 すっかり酔いなんて冷めてしまった気がした。きっと、これから振られるのだろうから。なんて言われるかな。俺は好きじゃない。恋愛対象として見てない。いや、天喰くんならもっと気を遣った言葉だろう。気持ちは嬉しいけど、仕事で忙しい。まだ君のことをよく知らないから、まずは友達から。あ、色んなパターン考えてると泣きそうになってきた。でも、私の予想は全て外れてしまった。

「俺は、君との熱愛報道が出ればいいのにって、思ってる」
「……うん。……うん?」
「君との報道なら、訂正だってしないのにって」
「……うん?」

 やっぱり酔いが冷めてなかったみたいだ。なんだか天喰くんが私の告白をオッケーしたかのような、幻聴が聞こえる。いや、そもそも天喰くんの言っていることが理解できないでいる。それを見越してか、天喰くんはジョッキから手を離して膝に両手を置き、改まった表情で私を見た。

「……俺も、苗字さんのことが好きだ」
「……え?」
「中学のときから、ずっと」
「まって」
「君一筋だった」

 幻聴なんかじゃない。天喰くんは私のことが好き、で。中学のときから好き。これって、いわゆる両思い、だったのでは。

「……酔ってる?」
「……かもしれないな」

 そう言うと彼もまた、注文しておいたお冷を飲み干した。私もそれに倣って、飲み干す。もう既に空っぽだったジョッキの中の氷が少し溶けて、私の口の中に流し込まれる。二人でそれから手を離して、また向き合うと、先に口を開いたのは天喰くんの方だった。

「だから……その、俺でよければ、……つ、付き合って、ほしい」

 さっきまであんなに真っ直ぐな言葉を向けてくれたとは思えないくらい、徐々に小さくなっていく声。ジョッキの縁をなぞりながら、彼に向けて笑いかける。

「大阪と千葉。遠距離だよ?」
「……毎日、連絡する」
「なかなか会えないよ?」
「……俺から会いに行くから」
「ううん、私も会いに来る。……本当に私なんかでいいの?」
「君は、素敵な人だから」

 あなたは、あのとき私に言ってくれた言葉をくれた。成長したあなたは、あの頃の言葉を。そしてまた柔らかな笑顔を向けてくれた。あ、その笑顔好きだな。途端にファンサービスの笑顔ではなくて、私に向けられた笑顔だと気がついて顔が熱くなる。これは、お酒のせい。

「……じゃあ、ぜひ。付き合ってください」

 少し目を逸らして、また合わせて。そう言うと、天喰くんは驚いたような、嬉しそうな、そんな顔をして私の手を握った。私もつられて笑顔になった。

 ◇

「次、大阪にはいつ来るの?」
「わかんない、次の出張かな」

 手を繋ぎながら、大阪の夜の街を歩く。酔っていて危なっかしいから送っていくよ、なんてよく言ったものだ。

「……どこに泊まるの?」
「あー、適当にホテルだけど……えっ、まさか天喰くん連れ込ん」
「ち、違う! そんなことしない!」
「知ってた。可愛いなあもう」

 愛おしくて手に力を込めると、天喰くんから控えめに、でも強く握り返された。

 数日後、読み通り週刊文春で私と天喰くんの熱愛報道が報じられることになった。