波旬と隔て

「今日の欠席は――また奥村か」

 担任はわざとらしく大きなため息を零すと、出席簿に強めに何かを書いた様子だった。少々荒々しく閉じると、そこにいない彼に向けての嫌味かのように、私たちに言葉を向けた。

「えー、皆は大事な時期なんだから、なるべく休まないように。体調管理も気をつけること。じゃあ、号令」

 起立。という学級委員長の声に合わせて重い腰を持ち上げ、浅く礼をするや否やすぐに椅子に座って、窓際の空席を眺めた。クラスメイトたちは各々友人と話したり、教室から出たりして、もはや馴染んでしまったその光景に誰も目を向けることは無い。
 そこに彼は、今日もいなかった。

 //

『奥村の双子の弟の方はあんなに優秀なのにあいつはどうして……』
『奥村くんって怖いよね……ほんと近づきたくない』
『どうしてああすぐ手が出るのかしら……』

 彼がその場にいようがいまいが、陰口のような、また何か別のもののようなそれは入学した頃から三年生に上がるまで、絶えず耳に飛び込んできた。今や三年生で、彼が学校に来ないことなんて当たり前になってしまい、誰ももう口出しをすることはなくなったけれど、彼が珍しく中学校に来たと思えば問題を起こして帰ってしまう。中学は義務教育だから、卒業はできるのだろうけれど。噂によると、彼は幼い頃からすぐに関係のない人に手を出して怪我をさせて、そう、――まるで“悪魔”だと、口々に言われるのだった。でも、私が前見た時には――

「――名前! どうしたの奥村の席なんて見つめて」
「えっ、……ああ、今日も来ないなって」

 女子特有のクラスでの固定メンバーの一人が、私の机の前に立っては私の視線をなぞり、そのまま私と同じように奥村くんの席を眺めた。引き出しの中に詰め込まれたプリントや、先週か、もしくは先々週に使った体操着が机の横にかかっているのがすべてを物語っている。

「奥村、サボりらしいよね」
「ああ、……うん、らしいね」
「双子の弟の方はあーんなに成績も優秀、顔だっていいし性格だって、あっちの方がお兄ちゃんみたいなのに。奥村はなんで――」

 そこからは奥村くんに対する愚痴とか、もう何回言われてるんだろうってくらいの「怖い」だとか、「悪魔」だとか、そういう類の言葉が並べ立てられる。半ば聞き流していた私は、彼女に、彼女や今まで奥村くんに愚痴や恐怖の言葉を贈った人たちに、それは違うんじゃないか、なんて思いを巡らせた。
 私が前に、奥村くんが誰かを殴っているのを見たときは、奥村くんは悪くなかったように見えた。むしろ、殴られている方がそこにいない第三者からの好意を嘲笑って、それに痺れを切らした奥村くんが手を出してしまったように見えた――なんて、まったくもって都合のいい解釈、もしくは私の理想とした、こうだったらいいな、なんて姿なのかもしれない。

「名前、今から移動だよ? 行こ!」
「あ、そっか。先行っといて」
「おっけ、わかった」

 三年生のこの時期に調理実習だなんて悠長なものだけれど、まあ息抜きにはいいのかもしれない。エプロンと三角巾をスクールバッグの中から取り出すと、一人で教室から出る。出て、戸締りをする。予定だった。

「あ……」
「……」

 教室の鍵を閉めようとしたとき、学ランのボタンを止めずにスクールバッグを肩に担いで遅刻をしてきたらしい男子生徒と目が合った。それは紛れもなく、同じクラスの、つい先程まで話題に上っていた奥村燐くんで、急いで閉めかけていた扉を開けた。

「いーよ。俺もう帰るし」
「え、でも……」
「今から移動なんだろ。いいって」

 奥村くんはそう言って背を向けた。せっかく来て、運良く調理実習だって言うのに、勿体ない。でも、私なんかが口出しできない。今までの喧嘩が真っ当な理由なんじゃないかとか、今から調理実習だよ、とか。そんなことを言って、「だから何?」という感じだし、もし本当に噂どおり怖い人で、女だからって容赦なく殴られてしまってはどうしようもない。でも、何か声をかけたくて、変なところでそういう無駄な冒険心が働いてしまう。そんな私から絞り出された声は震えていて、その言葉は、まったくもって言おうとしていた言葉ではなかった。

「あの、……明日も待ってる」
「……」

 一瞬だけ足を止めたように見えた奥村くんは、特に頷いたり何かを言うわけでもなく、スクールバッグを持ち直すと昇降口へと向かって歩いて行ってしまった。それと同時に、もしかすると余計なことを言ってしまったのではないかと、冷や汗が急に噴き出そうになってしまった。

 //

 驚いたことに、翌日は朝のホームルームから奥村くんは席に着いていた。椅子にもたれて天井を仰いでいるものの、朝から彼がいることは珍しいような気がする。けれど、大抵のクラスメイトは彼がいることにもスルーをして、私の友人も「うわ、珍し」なんてぼそっと呟くだけに終わったのだ。
 私の昨日の言葉が響いたとは到底考えられないけれど、もしそうならいいな、なんて淡い期待を抱いてしまっていた。

 ホームルームでの担任の様子は、今日も休みだろうと奥村くんの席の方に視線を送ったけれど、やはり珍しいといったように目をわずかばかり開いてから出席簿を閉じた。その当人は、引き出しに溜まりに溜まったプリントや返却されたワークを必死に鞄に詰めていた。自然と彼に目を追ってしまい、気づいたことといえば、案外几帳面なところだ。プリントは乱雑に入れるタイプかと思いきや、しっかりとファイルに挟んでいる。それにしても、あのワークに貼られた付箋の量は普通では考えられないので、余程間違えているのだろうと思い、自身のバッグに目を移す。すると、つい今まで見ていた奥村くんのものと違ってプリントが少しファイルからはみ出してしまい、変な折れ方をしていたりして、ひとりで勝手に恥ずかしくなってしまった。

 チャイムと同時に号令がかかると、一限の準備をしようと引き出しの中に手を入れる。するとまあ、何だか視線を感じて、その気配がする方を向くと奥村くんがちらちらとこちらを見ていた。何か話したいことがあるのだろうかと、席を立とうとすれば口パクで「ち・が・う」的な、そんな感じのことを言われた。かといって何もないわけではないらしくて、視線を感じて仕方がない。もどかしいような、そんな気持ちに襲われたので、廊下の方を人差し指でちょいちょいと指をさせば、彼は何も言わずに廊下に出てくれた。

「――どうしたの?」
「いや、……なんでもねえ」
「でも、見てたよね。気のせいだったら……ごめん」

 多分気のせいじゃないのだけれど、これで謎にキレられたりしたら嫌だし、せっかく今日久しぶりに学校に来られたのに、明日からまたサボって来なくなっても、ちょっと嫌だし。もし奥村くんが否定するんだったら、そういうことにしておこう、と思った。
 気まずくて斜め下の方を向いて、彼の上履きのつま先の方を見つめてみたり、とりあえず視線を泳がせてみて、なかなか言葉が発されない不安に上を向いた。

「いや、……お前さ、アイツになんか言われてんの?」
「あいつって?」
「うちの担任」

 どうして急に私たちの担任が上がるのだろうか。たしか、奥村くんはうちの担任からあまりいい印象を抱かれていなかった気はするけれど。それはそうだろう。いつも担任は、そう、私と面談したときだって同じことを言う。大人たちは皆、同じことを言う。「奥村の弟はよくできるのに、どうして奥村燐の方はああなんだろうな」なんて。そんなこと、私のような無関係な人間に言うものではないと思ったのだけれど。

「……やっぱり何か言われたのか?」
「何かって?」
「俺が学校に来るように説得しろ、とか」
「私が? どうして」

 どうして、なんて言ってから昨日の私が発した言葉を思い出した。ああ、奥村くんに「明日も待ってる」なんて言ったからだろう。それも、普段はまったくと言っていいほど話さない私なんかに。不安そう、というか、それこそ気まずそうな表情で私と目を合わせない様子だったので、申し訳なくて、そんな彼を安心させようと口を開く。

「違う、違うよ。……その、来てくれたらいいなって思って」
「それ、お前の意思なの?」
「うん。……なんか、恥ずかしいね」
「……俺と話してると友達離れてくかもしんねえぞ」
「そんな簡単に離れないよ。優しいね、奥村くん」

 奥村くん、怖いって言われてるけどやっぱり優しいんだと思う。こうやって気遣いだってできるし、見た目はまあ、弟の奥村くんの方よりはキツめかもしれないけれど、ピアスを開けてるわけでもないし、極端に制服を着崩しているわけでもない。第一学校指定のスクールバッグを持ってきているし、悪い人ではないのだろう。判断の根拠が甘いと言われればそれまでなのだけれど。

「……優しいとか、……そういうんじゃねえ」
「そっか。来てくれて嬉しいよ。学校も、奥村くんが思ってるよりは案外楽しいかもしれないし」

 そこまで話したところで、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。教科の担任の先生は、珍しいというふうに私と奥村くんを交互に見てから、「授業始まるから入りなさい」と言われた。
 奥村くんは意外にも可愛い感じで焦りながら教室に入っていくのだけれど、その直前に彼から告げられた言葉に耳を疑った。

「ありがとな、名前」
「……え? ……うん」

 ほとんど話したことがなかったのに、本人だって興味なさそうなのに、私の名前を把握されていて、それを呼ばれた。どこか面映ゆいような、そんな感情に駆られては、背中を押されるように教室へと入った。

「名前、……」

 その時間はそれに頭を支配されて、でも奥村くんの方はとても向けないので、頭を空っぽにしたまま三平方の定理の公式や先生の解説を目で追うだけの時間だった。

 //

 翌日も奥村くんは朝のホームルームから帰りのホームルームまで、一限もサボることなく出席していた。と言っても、やっぱり休んでいる分だとか、もともとあまり頭が良くないのか、授業の理解は難しそうだったけれど、教科書とにらめっこして一日を過ごしていた。体育の授業なんかは身体能力の高さに驚いたものだけれど、彼には友達がほとんどいないらしくて、そんな彼を褒める人はいなかった。

「名前最近奥村のこと見てるよね〜」
「もしかしてラブなの? 絶対弟の雪男くんの方がいいよー」
「弟くん?」
「うん。だって雪男くんの方がイケメンだし背も高いし、頭も性格もいい、完璧じゃん!」
「うーん……」

 弟くんの方はよく知らないけれど、奥村くん、兄の方もそんなに悪い人だとは思わない。まだ全然彼のことを知らないけれど。背は高くはないけど低いわけじゃないし、頭はお世辞にも良いとは言えないけれど、性格は奥村くんも負けていないと思う。よく見ると結構かっこいい方、だとは思うし。

「やっぱラブなんだ……」
「いや、違うけど。ちょっと外すね」
「おけ〜」

 二人に断りを入れてから、一人で体育館の壁にもたれている奥村くんの方に向かった。友達二人は会話の方に集中してるみたいだし、まあ、いじられてしまってもあとで訂正すればいいだろう。奥村くんは今コートで試合中のクラスメイトには目もくれず、バスケットボールを回して暇を持て余していた。

「奥村くん」
「名前? ……友達は良かったのか?」
「大丈夫だって。さっきのプレー、かっこよかった」
「! そ、そう!?」

 奥村くんはパッと目を輝かせて、バスケットボールを落としたと思えば私の手を勢いよく掴んだ。そんなバスケットボールは飛び跳ねながらコートの中へと入りそうになったので、すかさず私がキャッチする羽目になったのだ。それにしても、奥村くんにないはずのしっぽが見える。なんか、犬みたいというか、距離が近いというか。って、この光景こそ見られてしまったら勘違いされそうだけれど。

「奥村くんって距離近いんだね」
「そ、そうか?」
「なんか思ったより怖い人じゃないし、名前も呼び捨てだし」
「呼び捨て、だった?」
「ううん、大丈夫。なんか新鮮だし意外だなって」

 今度は飛び跳ねてどこかに行ってしまわないようにボールをそっと地面に置くと、奥村くんの横に倣ってもたれては、座り込んだ。そんな私にまるで糸で引っ張られるかのように、奥村くんも座っては、一秒ずつ減りゆくスポーツタイマーに表示された時間をぼんやり眺めた。

「お前もさ、俺のこと名前で呼べよ」
「え?」
「ほら、奥村くんだとややこしいしさ……雪男と」
「ああ、弟くんと……接点、ないけどね」

 苦笑を漏らしつつそう返せば、そっか、と口を尖らせながらまたボールを手に取ると、上に投げてはキャッチして、と繰り返した。
 名前呼び……小学生のときから同じだとできるのだけれど、思春期だし、少し恥ずかしい節もある。燐くん、なんて心の中では呼べるけれど、相手は男子だし。

「うーん、また機会があったらね。とりあえず奥村くん、で許して」
「……わかった」

 煮え切らない返答だったので申し訳なさを感じつつも、それはいつの体操着なんだ、とか、最近好きなテレビ番組とか、そういった別の話題へと移った。

 //

 それから、奥村くんは少しずつ学校に顔を出すようになった。時折授業をサボっているのも見受けられるけれど、それでも週に二、三回程度は来るようになった。順調に学校に馴染んできているのかもしれない。
 と、思っていたのに――

「奥村さ、また殴ったらしいよ」
「……知ってる」
「相手の方入院だって。怖すぎ……」
「見てたから、知ってる」

 入試も卒業も目前、なんて時期なのに、奥村くんは問題を起こして、また学校に来なくなってしまった。その原因は紛れもなく喧嘩で、そばにいた私には到底止められるようなものではなかった。
 彼の怒った理由はやはり真っ当なものだった。弟くんを、馬鹿にされたからだ。奥村くんとは普段話していても、弟くんの自慢話がよく出ていたから、好きなのだろうと思っていたし、そんな大切な弟くんが悪く言われては、彼の性格では手が出てしまったのだろう。
 先生はそれを止めに入り、奥村くんの親御さんも呼び出して頭を下げさせた。奥村くんは、何も言い訳をすることなく、家へと連れ帰られてしまった。

 私は、彼が正当な理由で、彼の真っ直ぐさゆえの喧嘩だったと知っている。でも――

『近づくんじゃねえ!』

 私に向けられたその言葉と、あの目によって私は少し、彼に恐怖を抱いてしまっていた。私は、彼のことを友達だと思っていたのだけれど、本当に奥村くんが友達でいいのか、なんて最低なことを考えて。ついには、私まで。私まで、彼のことを“悪魔”だ、なんて思ってしまっていた。取り残されてしまった私は、担任に肩に手をぽんと置かれると、一言、告げる。

『奥村ともう、関わるんじゃない』
『っ、どうして……』
『苗字は優秀だし、もう入試も近い。そっちに集中すべきだと思う』

 眉を下げてそう言う様子に、反抗する気力なんて起きず、むしろ反抗する価値が見出せないような気がして、黙って頷くだけだった。

 卒業式が迫った一週間前、何度か奥村くんは教室に顔を出した。前以上に、居心地が悪そうにして、授業は出ずにチャイムが鳴る前にどこかに行ってしまうこともあった。そう、私があの日声をかけるまでのように。
 私と目は合うのに、わざとらしくそれをずらす。以前なら声をかけられたはずなのに、謎の恐怖と罪悪感に支配され、私も視線を逸らしてしまう。奥村くんは少し寂しそうな表情をすると、その場から立ち去るのだ。

「……ごめ、なさい…………」

 私の震えてしまった謝罪の声は、また一人になってしまった奥村くんには届くことがなかった。

 //

 とても明るい気持ちなんかで迎えられない卒業式は、早くもやってきてしまった。空模様は私の心を映したかのように曇り空――というわけではなく、すっかり春のように暖かくて、澄んだ青空が広がっていた。

「ついに卒業かー! 高校行っても絶対会おうね〜!」
「会お会お、いつでも会える距離じゃん」
「マジレスやめな?」

 卒業式だから制服を正しなさい、なんてことはなく、私の友人はしっかりスカートを折って、せっかくだしということでメイクもしてきている。いつもは口うるさい担任も、今日は仕方がないかとため息をつきつつ、心を染みている様子だった。

「奥村くん、は……」
「名前」
「……」

 私の名前を呼んだのは、奥村くんではなくて友人だ。名前を呼んで、目だけで「その話題はやめよう」とでも言いたげに私を見つめる。担任の目もあるし、今日で最後だし、もう彼のことを考えるのはやめようと思った。でも、彼の姿が、嬉しそうな表情が、脳裏に焼きついて離れない。

 いつもより早めに集まった私たちは、卒業文集に目を通す。このときはまだ、奥村くんも来てたっけ。なんだかんだでしっかり書いてくれた。まあ、字は相変わらず汚いし、とても中学三年生の男子が書くような字ではないけれど、それも彼らしくて安堵感すらある。でも、彼のいない教室ではその彼らしさで笑うことすらできなかった。

「じゃあ、そろそろ体育館に――」
「兄さん、早く!」
「う、わっ! 押すな……って……」
「!」

 外からの騒々しさと、教室のドアが勢いよく開く音でクラス一同がその原因へ視線を送る。心のどこかで期待していて、でも来ないんじゃないかって思っていた。担任が声をかけるより、彼が口を開くよりも先に、机をガタンと鳴らして声を上げたのは私だった。

「奥村くん!」
「名前……」

 皆の視線とか評価とか、そんなの気にせずに彼のもとに駆け寄る。悪魔みたいだなんて怯えてしまった私がこんなの、偽善者みたいだって? 偽善者でもいい。私の身体が勝手に動いてしまったのだから。でも、

「……っ、」
「…………名前?」

 何を言おうとしていたんだっけ。何かが、喉のあたりで引っかかっては出てこない。なんだっけ。すごく視線が痛い。見られているところが熱を帯びていくような感覚がする。すると担任は、仕切り直すかのように咳払いをした。

「じゃあ、そろそろ体育館に向かおうか」

 その声に合わせてクラスメイトたちは立ち上がり、ぞろぞろと体育館へと歩き出した。友人二人は私と奥村くんとのことをあえて聞かずに、私の肩に手を置いてから体育館の方へと足を向けさせた。後ろを少し振り返ってみると、気のせいか、奥村くんが私の方を見たまま動かない。悪いところだ。私は、気づかないふりをして押されるがままに歩みを進めた。

 //

 卒業式はあっさりと終わった。入試が終わってから急遽練習した歌も、一度歌えば終わり。卒業証書の授与だって。こんなにもあっさり終わるものなのか、と思うと、涙も出てくることはなかった。

「じゃあ皆、夢を持って進んで――」

 担任から贈られる言葉に涙するクラスメイトたち。色々あった中学生活だったけれど、最近のことだからなのか、色濃く覚えているのは、三年生になってからのこと。修学旅行にも来なかった、さぼりがちだった奥村くんが、少しずつ学校に来てくれて、私と話してくれて。少しでも、私のことが彼の中に残っていればいい。
 担任の挨拶が終わって、各々が涙ぐみながら写真撮影のためメッセージが書かれた黒板の前に整列した。ちらりと端の方に立っている奥村くんに目を遣る。そう、少しでも彼のためになっていれば。もう、話せなくてもいい。むしろ、余計なことを言ってしまうより、出会う前に戻る方が、いいんじゃないかって。クラス全体での写真撮影が終わって、お開きになると、友人たちと写真を撮ったり、教室や学校に思いを募らせた。数十分経って、数十分経ってもなお、帰ることはなく奥村くんがしばらく私の方を見ていた、気がしたけれど。
 でも、気のせい。奥村くんは、私に近づくなって言ったし、私だって彼に近づくことを求めていない。もう、話せなくてもいいの。

 本当に、そう?

 子どもじゃあるまいし、自分に言い訳してどうするの。何より、彼が教室に来たとき、真っ先に駆けつけたのが私の答えじゃないの。奥村くんは教室の端に立っていたけれど、ため息をついたように見えた。するとスクールバッグを肩に担いで、教室のドアを開けた。教室は賑わっていて、クラスメイトたちがそんな奥村くんの姿に気がつくことはほとんどなかった――けれど。

「……ごめん、帰るね」
「待って。……奥村くんのところ?」
「……うん」

 私も鞄を手に取って奥村くんの後を追おうとしたけれど、友人に腕を掴まれてしまった。奥村くんのところ、だなんて。止められるだろう。ただでさえ担任にも、本人にも近寄らないようにって、言われたのに。

「それは、名前が行きたいんだよね」
「……うん」
「……好きなの?」
「……違うと思う、……わかんないけど、」

 私は奥村くんが好きなのか、と問われれば、違うんだと思う。でも、今、奥村くんと話したくて仕方がない。心配そうに、でも芯のある眼差しを向ける友人から一度目を逸らして、もう一度合わせる。呼吸を整える。

「――でも、……大切なんだと、思う」

 彼女から目を離さずにそう言うと、彼女が私の腕を掴んでいた力は自然と弱くなった。彼女は、彼女たち友人二人は、可愛らしい無邪気な笑顔を浮かべると、私の背中を押した。それを見て、本当に、いい友人を持ったのだと思う。

「ほら、はよ行っといで」
「! あ、りがと。じゃあ、春休みね」
「はいはい、私らいつでも会えるんでしょ? ほら、早く行ってきな!」

 背中を強く叩かれると、勢いのまま教室を飛び出した。

 //

 呼吸が荒い。けれど、足を止めたくない。止められない。必要なものしか入っていない軽いスクールバッグも、どこかに投げてしまいたい。もう白くなくなった息に、三月の暖かい陽気なんて暑すぎるくらいで、制服の下が汗ばんでいるのを感じた。
 お寺の曲がり角を曲がると、誰かの後ろ姿を捕らえた。誰かじゃなくて、奥村くんだ。奥村くんの、後ろ姿だ。

「お、くむら、くんっ!」
「え、は!? 名前!?」

 息を切らした私に、距離を取っていたかのような奥村くんも心配なようで、思わず私の顔を覗き込む。口の中が鉄の味で溢れるくらいには、一生懸命、奥村くんを追いかけたの。

「あ、……悪い」
「ま、って」

 距離を詰めた奥村くんは、自身のそれに気づきまた距離を取る。どうして? 奥村くんは、私と距離を作ることを望んでいないはずだ。私の途切れ途切れの声は鳥のさえずりとともに、なんとか奥村くんの耳に届いたらしく、奥村くんが私から離れるのを止めた。

「奥村くんと、話しておきたくて」
「……説教か? あのとき俺のこと、怖いって思ったろ」
「……思ってない。……って言ったら、嘘になるよ」

 ほら見たか。とでも言うような彼の表情と、どこか寂しげな、諦めたような目の色。でも、あの日感じた目の色じゃない。私、知ってるもの。奥村くんが本当はすごく真っ直ぐで優しいって。

「でもね、私、奥村くんと話せるようになって良かった」
「……そうか」
「奥村くんのこと、何も知らないけど、それでも奥村くんが優しいのは知ってるの」

 そう言うと、彼の目に光がわずかながら灯ったような気がした。当の私は、もしかするとわかったような口を聞くな、なんて言われるんじゃないかって思っていたけれど、そんなことはなかった。だって、奥村くんだもの。

「奥村くんと話せて、楽しかったよ。……高校は、どこ行くの?」
「俺の学力じゃ中卒だよ。中卒で働く」
「そっか。偉いね」

 奥村くんはきっと、学校を休みがちで、恐らく小学生のときもそうだろう。だから、十分な学力が備わっていないんだと思う。それでも、まだ義務教育が終わった立場で社会に出るなんて、私には到底無理なことだ。本人は偉くない、とでも言うようにつま先で小石を蹴ったのだけれど。

「私たち、もうさよならかもしれない」
「……そう、かもな」
「……でも、私、奥村くんの心に少しでも残れたかな」

 彼との出会いから、話せるようになって、また来なくなって、そして今日。一瞬の出来事だった。瞬きをする間にすべてを思い出すことができるほどだ。奥村くんのことだから、近場で就職するのだろう。けれど、私の勘が、女の勘なのか、奥村くんが遠くに行ってしまうのだと感じてしまった。

「俺さ、学校嫌いなんだ」
「うん」
「先生もうるせえし、誰も俺に近寄ろうとしないし」
「……うん」
「……でもよ」

 奥村くんは、少しだけ頬を緩めて、口角が上がるのを抑えきれないようで、眉を下げた優しい表情で、私を見つめた。やっぱり、奥村くんって優しいんだよ。わかってる人だって、いるよ。

「でも、名前のおかげで、ちょっとは楽しくなったんだ」
「……そっか」
「ありがとな、名前」

 お礼を言うのはこっちだ。奥村くんのおかげで、私も楽しかったんだ。私は心の中で壁を作っていた。奥村くんと離すようになっても、決して友達ではないって言い聞かせて。私から壁を作っていた。友達だなんて言ってしまうと、離れるときに惜しいから。

「……じゃあな」
「――燐くん」

 でも、最後なら、呼ぶことを許されるかしら。呼んだって、寂しくも惜しくもならないかしら。私に背を向けた奥村くん――燐くんは、思わず足を止めてこちらを向いた。それはまあ変な顔で、不意に口から笑いが零れてしまう。

「こちらこそ、ありがとう」

 燐くんは、たどたどしく返事をすると、その変な表情のまましばらく私の方を向いて、またお礼を言うと、名残惜しそうにその場を後にした。まだまだ話したいことはあるけれど、もう、追わなくても大丈夫。私はずっと、燐くんのこと友達だと思っていたんだ。燐くんからすれば、もしかすると私なんて少し話せるクラスメイトの一人かもしれない。けれど、燐くんの身に今後何が起ころうと、私は燐くんの友達なんだ。

「……さよなら」

 自然と頬を伝う涙は、私の声は、彼に届くことなく鳥のさえずりにかき消された。