ほのかなる暮の汀

 荼毘は事ある毎に「俺と地獄に落ちてくれるよな?」と問う。もちろん私の答えは「ノー」だ。

 私となぜ地獄に落ちたいのか、と問えば「お前のことを愛しているから」と答えたので、思わず眉間に皺を寄せた。私だったら、好きな人は生かしたいと思うから。
 私が彼と地獄に落ちたくないのは、彼のことが好きではないから。好きな人は生かしたいと言えど、もし好きなら――愛しているのなら、心中なんて安いものなのかもしれない。荼毘が私のことを愛しているというのが嘘であれ本心であれ、私は好きでもない人と地獄に落ちるような人間じゃないから。
 もちろん理由はそれだけじゃなくて。……なんだか荼毘は死にたがっているような気がする。私には荼毘の抱えているものや過去なんて一つも知らない。彼のことなんて何も知らないけれど、死に急いでいる人を見るのはなんだか変な感じがするから。
 だから私は、彼と地獄に落ちたくない。

 荼毘は、時折哀しそうな目をする。それは気のせいかと思っていた。心のどこかで彼の過去を捏造する私がいるのかもしれない、と。
 けれど、それは気のせいじゃなかった。彼は一人のときに、どこか遠くを見つめる。それも、酷く哀しい目で。私は彼に干渉する気は無い。
 いつだったか、彼は私にこんな言葉を投げた。

『頼むから、俺を一人にしないでよ』

 それは本心なのかどうか、私にはわからなかった。でも、あの時の荼毘は泣きそうな顔をしていて。あんなに哀しい目なのに、涙は少しも流れない。不気味、と言うよりも不思議だった。泣きたくても泣けないの? しばらく泣いてなかったの? 形容しがたい感情のまま、彼の頬を撫でてみた。

 ◇

 いつも通り、部屋に一人。彼の帰りを待った。好きではない、と言っても彼のことをどこか放っておけないような。私の持ちうる限りの語彙ではこの感情の名前はわからないみたい。
 外から帰ってきた荼毘は、怪我をしているようだった。腕の爛れた皮膚の淵から流れる血は痛々しくて。

「待ってて、手当てするから」

 テレビの台の下にある救急箱。それを手にとり、彼の横に腰を下ろす。最近は怪我が少なかったから、としばらく救急箱を開くことはなかったのだけれど。
 私は消毒液を染み込ませたガーゼを傷口に当てた。痛くないかな。なんて、少しの気遣いのもと、私は顔を上げた。その日、初めて見る彼の顔は、

「……泣いてるの?」

 彼の目から一筋――否、いくつも流れる雫。親指で彼の目元を流れるそれを拭った。目の前の彼は、私の口から思わず漏れた言葉を聞いてから数秒後。私の親指へと視線を移した。

「よく見ろ、ただの血だ」
「……ほんと」

 確かにそれは赤い液体で、紛れもない血だった。指先に付着したそれにティッシュペーパーを当てれば、白い紙は赤い斑点を作った。

「俺はな、泣きたくても泣けねえんだよ」
「……そう」

 やっぱり。彼はしばらく泣いていないみたいだった。それでも彼の目元から流れ落ちる血は、私には涙に見えてしまって。頬に生ぬるい感触が流れた。――気づけば私の目からは、一筋の涙が流れていたらしく。

「なんでお前が泣いてんだよ」
「……わからないよ」

 どうして私が泣いているのかは、彼にも私にも、誰にもわかることではないけれど。
 綺麗になった親指でもう一度彼の目元、火傷痕の淵に沿わせて、それを拭う。そうすれば一瞬で、私の指は赤く染まった。

「ねえ、荼毘」

 彼と私の視線が絡まった。

「私、あなたと地獄に落ちる気は、ないよ」

 そう言えば、「そうかよ」と言っていつものように小さくため息を吐いた。そのため息を遮るように、私は次いで口を開いた。

「でも、私が死んだ後の火葬くらいなら、任せてもいいかな」

 荼毘は目を見開いた。私はあなたと死にたくない。この感情は“好き”とは違う。でも、私はあなたを一人にしたくない。あなたと生きたいって思ったから。

「……悪くねえな」

 少し考え込んでから、小さく呟いた。そして今度は彼の親指が私の涙を拭って、あの日の私のように頬を撫でた。

 私が生きてる間は、どうかあなたも。