雨を呑む、雨に呑まれる

 分厚い雲が空を覆う。先程まで――任務として廃工場に到着した頃までは、綺麗な紫色、桃色が広がっていたのに、気がつけば辺りは暗い。暗いどころか、激しい音を立てて雨が地面を打ち付けている。夕立だろうか。雨の音に紛れて、舌を鳴らす音が聞こえた。言うまでもなく、その音の原因は隣にいた男にあった。まあ、舌打ちしたい気持ちはわかる。ただでさえ、少し厄介な亡者を冥府に送った後だと言うのに、外に出れば豪雨なのだから。

「……」
「……」

 雨の音だけが聞こえる。傘を持たない私たちに与えられた選択肢は、まず一つ、雨が止むまで待機をする。そして二つ、雨に濡れることを厭わずあの世へ繋がる壁まで走る。雨が激しいのはきっとここだけだろう、という憶測だ。この辺りが制限されてしまっているのは、今の天気にはとても苦しい。はあ、と溜息を零すと、隣からは二度目の舌打ちが聞こえた。
 隣にいる男、田噛とはそう浅い付き合いではない。かと言って、深い付き合い、まあ、お互いをよく理解しているかと言えば決してそうではない。どちらかと言えばそれは平腹あたりが務まるのだと思う。
 さて、どうしようか。特に仲が悪いわけではなかったので、その点は幸運である。仲が悪い、あるいは微妙に話せる仲、そんなのでは会話や提案をするのは多少なりとも勇気なりがいることであろう。このまま降雨を目で追うだけでは埒が明かないので、こういうときに話題を持ちかけるのは、もちろんのこと私からだ。

「どうする?」
「あ?」
「雨。止むまで待つ? それとも走る?」
「わざわざ濡れる馬鹿がいるか」

 やっぱりそう言うと思った。もう既に少しだけ濡れてしまっているのだけれど。流石は廃工場、雨宿りする余地が少ないのもあり、隙間から漏れた雨にわずかではあるが服が濡れる。その上、湿気で髪も水分を含む。田噛の黒髪も、そのおかげで癖がついている。
 しかし、今から濡れながら走っても、機関車にでも乗り込めばもう濡れることはないし、館に戻ってすぐにお風呂に入れば風邪をひくことも、ない、とは言いきれないけれど、雨で濡れたことなんてとっくに忘れるだろう。何より、今は季節的に少し寒いのだ。私としては今しがた挙げた二つの提案の、二つ目を推していきたいところではあるが。肌寒い中雨が止むまで待つより、思い切って濡れてしまって、お風呂で温まる方が良いと思った。しかしまあ、隣の男は前者がいいであろう。

「雨宿りしたいでしょ」
「は? あー、まあ走るのめんどいしな」
「濡れたくないって言ったもんね。外套貸そうか?」
「あってもなくても変わんねぇだろ。てか、」

 寒がりなんだからお前が着てろよ。
 夕日色の眸を持つ男は、それ吐き捨てると、また舌打ちをした。そしてまた、結局振り出しに戻る。私と田噛の世界には、雨の音だけが響く。うるさすぎるくらいの土砂降りの音だけれど、今は不思議とそれに対する不快感はなかった。
 それから、一〇分、二〇分、手元の懐中時計は音を刻む。一向に雨が止む気配はなく、特務室に思いを募らせる。斬島や谷裂はもう帰ってるかな、とか、非番の平腹は部屋をめちゃくちゃにしていないかな、とか、今日の朝食は何かな、とか。そろそろ寒いし、お腹も空いてきた。雨は降り続く一方であるから、町まで何とか帰ろうと提案をしようと、した。

「たが」
「苗字」

 しようとした、と言うのは、実際にするに至らなかったということだ。久しぶりに口を開いた田噛が私を呼んだかと思えば、私の頬に手を添える。水滴で冷たくなったはずの頬は、その手によって熱を与えられる。そして、瞬きする間もなく、今から何が起こるかを理解した。理解してしまった。次の瞬きができなかったのは、その夕焼けに吸い込まれそうだったから。その眸が、私を捉えて離さなかったから。濡れた睫毛を揺らすと、その眸に捉えられた、そのまま、距離はゼロになる。渇いた唇はわずかに湿り気を帯びており、さらに熱が伝わる。夕焼けを映したその眸は、私を捉えていたかと思うと、数秒してから閉じられた。私も、それに合わせて睫毛を伏せる。私が思っているより、長いようで短い時間だっただろう。わずか数秒。でも、その間は、雨の音がひどく遠くに感じられた。
 ゆっくりと、けれど名残惜しげもなく離れた私たちは、再度外を向き直す。まるで今の十数秒をなかったことにするかのように。けれど、火照る身体がその数秒前のことは現実であることを突きつけてくる。わずかに濡れた服、肌寒い季節、時間帯。なのに、自身の身体は熱くて仕方ない。隣の男に目を遣ると、くあ、と緊張感のない欠伸を一つ。

 廃工場で、交わした一時。私は抵抗をしなかった。とてもロマンチックとは言えないこの場所で。雰囲気に呑まれただけ。でも、きっとそれだけじゃなくて。嫌悪を感じず、さらに言えば心地良さすら感じたそれは、その行為は、私が田噛のことを決して嫌いじゃないから、なのだろう。嫌いというより、むしろ――
 相変わらず雨は止みそうにない。雨だれがその場に小さな湖を作り出す。近くに聞こえる雨の音を、雨の音だけする世界に新たな音を作り出したのは、またしても隣にいる男であった。

「止みそうにねぇな」
「……そうだね」
「……仕方ねえ。走るか」
「……うん」

 まだわずかに熱を帯びた唇から、その熱を逃がさないように、指先で軽く触れると、帽子を深く被り直した。田噛も倣って深く被ると、目の前の淀に躊躇いもなく足を踏み入れた。