朔/遡

 今から私が言おうとしているのは、それはそれは馬鹿馬鹿しいことであるが、人間からすればそうでもないのであろうか。

「ねえ」

 声が掠れているのは、仕方がない。口内に広がるのは、生温かい鉄錆のような。薄暗いけれど、清潔の保たれた廊下から動けない私は、ただその場所を赤に染める。赤黒く、染める。
 何もないところに声をかけたわけではない。ぼやける視界に、確かに姿を捕らえている。腕、喉元、胸、腹部、腿、痛みは確実に広がる。不規則な呼吸の音が耳まで届く。私が声を預けた先にいる男は、そんな私の、まるでいつ死んでもおかしくない状況を目の当たりにしても平然としている。それもまた、当然の話である。男――田噛は、私の呼びかける声を疑いもなく耳に残したであろうが、仏頂面をまるで変えずに、些か視線をこちらに向けた。

「田噛は、私が死んだらどうする、」

 いくら鬼と言えども、もちろん痛覚は感じるわけである。少し上げたはずの語尾は、私の意思とは反対に言葉として現れた。不均一な距離を保って、身体中に刺さっているのは、包丁か、はたまたメスだろうか。剪刀という線もあるだろう。亡者は、急所をわざと避けて、否、掠らせるようにして突いたのだろうか。しかし、そんなことを意図するまでの知能は持ち合わせていないように思えた。目の前の無愛想な男は、格好良い。私が亡者それに貫かれた瞬間に、器用にも鎖で相手を縛って、ツルハシであっという間に負かし、冥府へと送ってしまったのだから。
 視線をわずかに外す。身体中に伝わる痛みに耐えながら。月が綺麗ですね、なんて、馬鹿みたい。割れた磨り硝子の隙間から見えるはずの、差すはずの光は、今日はない。雲がそれを隠している、とかじゃなくて、それをおよそ三○で表すとするならば、今日は○の日だから。
 外していた視線を、男に戻した。私の投げかけた、取るに足らない問いに対してどのような反応を見せてくれるのかと。しかしまあ、それは想定の範囲内であった。相変わらずの無関心そうな表情を浮かべる。腹部に手を当てると、まあ生温いこと。包帯の一つでも巻いてくれればいいのにと思うが、どうせ回復するのでそんな必要はないと考えるのが妥当だろう。特に、田噛や平腹は、私や佐疫、斬島なんかと違って絆創膏すら持ち歩かない。いつもなら合切袋から包帯を取り出して手当てをするところだが、田噛を見ていると、まあいいか、なんて思えてきてしまって、腰の辺りをまさぐるのを止めた。

「何言ってんだ」
「……ふ、」
「死ぬわけねぇだろ」

 つい笑みを零してしまったのは、あまりにもその返答が予想通りであったから。面白みがまったくなくて、面白かったから。そんな中、未だに痛みは伴ったまま。どころか、より鮮明に感じるようになってきたまである。そんなありきたりな返答をした男はというと、壁に身を任せているところであった。琥珀色は私を見ていたかと思うと、それは一瞬のことであり、すぐに虚空を見つめた。
 そうだなあ、平腹なら。平腹も、どうせ死なないからって言うだろう。もしかすると、その上、オレが殺してやろうか、なんてシャベルで頭を打ち付けてくる始末かもしれない。死なないのに、殺してやろうか、というのはおかしな話かしら。斬島、ああ、谷裂も、概ね田噛と同じ反応だろう。強いて言えば、もう少し真剣さがあるか、とかかしら。

「……じゃなくて、さ」
「あ?」
「もし、だよ。もしも、死んだら、って」

 そんなありきたりな答えなんて求めないよ、なんて言うように。そうね、佐疫や木舌は優しいから、何て言うかな。それでも死なないことには変わりないのだから、最後に、死ぬことはないけど、なんて付けるだろうか。田噛の言うことも、なんとなくわかっている。さらに言えば、ついさっきその答えが出たのだから。それでも、もし、なんて付け加えて聞いたのは、田噛に何か期待してしまっているのだろう。数十秒前に聞いた言葉が再度返ってくるのか、沈黙が返ってくるのか。けれど、期待していた。唇を交わし、身体を重ねた田噛なら、もしかしたら何か違う答えが返ってくるのではないか、と。そう、快楽を与えるだけで、その行為自体は意味を持たなくとも。私たちの間に、愛がなくとも。そもそもの話、私たち獄卒は、愛を持つのだろうか。しかし、何より、任務は完了しているのに、先に帰らずにいるという事実に。私は、期待していた。
 しかし、当の田噛は、くだらねえ、なんて言い捨てた。
 やはり、その程度のこと。期待してしまっていた私が馬鹿みたいに思えて、けれど一体何に期待していたのかもわからずに、目を閉じた。今だって、いつもみたいに口付けの一つでもしてくれればすぐに回復するかもしれないのに、なんて。しかしどうやら、私も彼もそんな気分ではないようだった。口に広がる、わずかな塩気を感じながら、目を閉じた。

「安心しろ」
「…………ん、」

 目を閉じた矢先、気配を感じた気がしたが、それは気のせいではなかった。聞き馴染みのある声が、降りてきたから。一度伏せた目を、もう一度開ける。視界がぼやけて姿を捕えられないから、もう一度閉じて、開ける。先程よりも、ほんの少しだけはっきりと彼の姿が目に映った。彼は、私が身を投げ出しているそのすぐ側に、血溜まりに、汚れることなんて知らずに屈む。そして、左腕を伸ばしたかと思いきや、私の額にそっと手を置いた。

「死なせねぇ」
「ふ、そっか」

 今一度零れた笑みは、予想外だったから。もしかすると、嬉しかったから、かな。琥珀は相変わらずで、表情がわずかに変わる。余裕だな、って呟いて。余裕、というか、嬉しいんだ。
 嬉しい。そう言おうとしたけれど、そろそろ喋るのにも疲れてきた。なんとか意識を保っているけれど、声を出すのが厳しくて。
 そうだな、今のうちに何を言おうかな。私の意識は、琥珀色から窓の外。藍色の中に、より一層黒さを強調する。ああ、そうだ。

「月、……綺麗、だね」
「……死ぬのも意外と悪くないだろうな」

 小さくぼやいた田噛は、薄目を開けていた私の瞼を撫ぜる。心地良い、今の私には丁度良い温度で。居てやるから早く休め、とだけ洩らして。私のものより大きくて安心する手で、その手の動きに合わせて、意識を宙に手放した。