冷めないほとぼりは余韻を残す

 時間ができると、鍵盤に触れるようにしている。一日休めば三日分は後退するとはよく言うものだ。
 白と黒を隠すための蓋は、開けたままにしておく。その相反する色が、私を魅了するから。早く触ってほしい、なんて。

 だから、非番のときは、休暇は、任務から帰ったあとは、寝る前は。私はピアノを奏でる。楽譜に沿って、忠実に、でも少し自由に揺れさせて。
 そう、それもまた、先客がいない限り。

 ☓☓☓

 窓から光が差す。仄暗い部屋に、けれどそれだと視界不良だから、最低限の灯りをともす。その幽々たる部屋には、今日は相客がいた。いつもならば、その音が聞こえると、戸にかけようとしていた手を止め、自室に引き返すところであるが、今日は少し違った。それを聞いていたい気分だったからか、他のことをする気分にならなかったからか。どちらが正解かは当の私にもわからなかったけれど、決してどちらが不正解ということはないだろう。一人がけソファに腰かけた私は、テーブルランプに照らされた少し伸びてきた爪を見て、音のする方に視線を移した。

 相客の男は、その技術が私以上である。譜面通りに奏でるのは、そこそこ練習を重ねた者ならば誰にでも可能なこと。
 けれど、目の前の男はそうではなかった。程よい脱力感。指先から零れる柔らかな音色。感情を込めて、けれど作曲者の意図から外れないように。今日の彼の選曲は、練習中のものではないらしい。どちらかと言えば、広すぎない部屋に主張しすぎない光が差した、この状況に相応しい楽曲であった。

「……、苗字」
「……えっ? 何?」
「いや、終わったよって伝えようと思って」

 その澄んだ音が止んだことにも気がつかずに、余韻に浸っていた私に、今しがた奏でていた曲譜を手に持った男が私のもとに歩み寄る。暗がりからわずか光が灯っている方へと出てきた男からは、天色が明瞭に光っていた。その男――佐疫は、空いているソファに腰かけることはなく、部屋から出ていくでもなく、ただ微笑んで、指を揃えてピアノの方を示した。空いたよ、どうぞ。なんて、いつもと変わらない柔和な笑顔で。相変わらずの裏のないその表情をただ、数秒見つめた。見つめられている天色自体は、その色を変えずに、ただ小首を傾げた。

「弾かないの?」
「ううん、なんでもない。弾くよ」

 そう、と微笑んだ佐疫を確認すると、少し離れたところにある、小さめの猫足チェストのもとにしゃがみ込んで、その中から楽譜を探し始める。
 ピアノって、素敵だと思う。たった一台で管弦楽の役割を果たしてしまうのだから。そうね、何にしようかしら。練習中の曲でも良かったのだけれど、佐疫の演奏を聞いたあとだとどうもその気持ちはなくなってしまった。トロイメライ、な気分ではないし、月光だと被せてしまっている気がしないでもない。おそらく、本人はそんなことまったくもって気にしないのであろうが。一部ずつ手に取っては、違うな、なんて、横に避けていく。先程まで部屋に音を響かせていた男が後ろで、楽譜を元の場所に戻そうと私を待っていることなんて気にせずに。

「決まらない?」
「なんかどれもしっくり来な……あ、」

 背後から手元を覗き込む男に、しっくり来ない、と言いかけた口を止めたのは、私が次に手に取った楽譜によるものである。この曲は確か、私は数週間前に、佐疫は私より先に練習していた曲である。もちろん、災藤さんと二人で。ああ、でももしこれにしたら佐疫は何て言うだろうか。作曲者もだし、演奏形態もだ。それをまた避けて、次いで楽譜を探す。すると、甘すぎない香りを漂わせた男は、私の横に屈んだ。

「『小舟にて』。気になる?」
「ああ、……うん。でも、」
「いいよ、一緒にやろうか」
「え、」

 でも、これ一人じゃ弾けないし。そう紡ごうとした言葉は、今隣にいる男によって遮られた、と言うか、私にとっての喜ばしい提案をした。困惑の色を浮かべているであろう私の眸を見た縹色は、嫌だった? と眉をひそめた。嫌なんてとんでもない。むしろ乗ってくれて嬉しいまであるので、首を横に振って、嬉しいよ、なんて伝えた。
 楽譜を手に持った佐疫は、私の代わりに、残念ながら選ばれなかった楽譜をチェストの引き出しにしまい込むと、再度グランドピアノの方に向かった。私も倣って立ち上がると、同じくピアノの方に向かう。それから、流石は好青年佐疫。楽譜を一度譜面台に置くと、部屋の端からもう一つ椅子を持ってきた。私に向けて、高さ合わせてね、って言って。

「あ、」
「どうしたの?」
「爪伸びてるんだった。ちょっと切るから待ってて」
「うん、わかった」

 再びソファに腰かけると、小物入れから爪切りを取り出す。そう言えば最近任務やらが多忙で弾けていなかったかしら、なんて思いながら、親指から順に、ぱちん、とまるで面白みのない音を余韻がとっくに消えた部屋に響かせていく。ちら、と前方に目を向けると、楽譜を眺めていた佐疫は、私の視線に気がついたのか、天色をこちらに向けた。それに、その状況に妙に緊張してしまって、危うく深爪しすぎるところであった。他人の爪切りって、そんなに凝視しないと思うのだけれど、まあ待ってもらってるし退屈なんだろうな、と考える。ニッパー型の爪切りは、わずかではあるが錆が出てきていたので、今度町に出たときに折りたたみ式の物を買おうかしら、なんて思いを巡らせた。それもそのとき覚えていれば、の話だけれど。

「プリモとセコンド、どっちがいい?」
「……うーん。あ、私プリモしかできない。佐疫は下もいけるの?」
「うん、一応ね。災藤さんとしたときは俺も上だったけど」

 流石としか言いようがない佐疫は、譜面台を照らしていた灯りを、一段階、二段階と明るくした。部屋の電気をつければいいのに、なんて思わない。窓からの光は、控えめでありつつもこの部屋を照らしてくれているし、部屋にも光源がある。何より、この明るさが今の私には丁度良かったのだ。
 ぱちん、ぱちん、と音を鳴らす。今日はほとんど佐疫から話を振ってくれていたから、今度は私が口を開いた。

「またドビュッシーでごめんね」
「気にしないで。むしろドビュッシー好きだから嬉しいよ」
「ふふ、そんな感じする。私はもうちょっと激しいの、緩急のあるやつが好きだな」
「苗字らしいね」

 そんな、他愛のない会話。佐疫は、どうせなら誰かに聞いてもらう? なんて提案をくれたけれど、二人でいいよ、と返した。
 無機質な音が止むと、それを小物入れに戻して、佐疫のもとに向かった。お待たせ。全然待ってないよ。左に座った男は、目を細めて私を見た。彼と言えばでお馴染みの外套は、相変わらず脱ぐことをしない。何でも収納できる佐疫特注の外套の仕組みは、いつになっても気になるものだ。緊張するなあ。椅子の高さを少し上げて、座る。
 佐疫は、プリモの方が合ってると思う。彼の奏でる高音って、遠くまで届くから。透き通ったそれは、心に響いてくるから。しかし私自身、上の方が得意であるし、そもそもセコンドは弾けないので、声にせずに自身の中に留めておくだけにしておいた。

「緊張するなあ」
「そんなに気張るものじゃないよ。大丈夫、力抜いて」

 佐疫は私の肩の力を抜くように手を置くと、指を伸ばしておくように言ったので、それに従うように筋を伸ばした。肩を上げて、下げる。遊びのような、ただの連弾なのに、佐疫の技術を横にするとどうも緊張してしまう。つい数分前に、失敗とか気にせずに楽しく弾こうね、と言ってくれたのに。そうね、そう。楽しく弾けたら、それでいいんだった。

 すう、と小さく、彼と私にしか聞こえないくらいの呼吸音を鳴らすと、指先が音を創る。演奏を始める前の静寂なんて一瞬で、息を吸う音から間もなく、意味のある音が紡がれていった。佐疫はプリモの方が合ってる、なんて馬鹿らしい。初めて合わせたはずの音は、初めてとは思えないほどの調和を見せた。何より、下を弾く男が安定していたから。私がプリモで良かった。外套から覗く佐疫の指がするすると鍵盤を滑る。重厚感があって、主張しすぎずに響く低音。ああ、流石は佐疫。初めは少し力が入っていたけれど、上手に弾くとか、もうそんな考えは抜けきっていた。つい口元をゆるめて、彼の手元を見る。切りそろえられた爪、骨ばった手。

 佐疫と一緒に、音を創っている。

 それだけで、その事実だけで、十分すぎるくらい心が満たされる。触れそうで触れない私の左手と彼の右手。それに異様に胸が高鳴るのは、それでも佐疫の体温をわずかに感じることができるから。同じ温度を確かに分け合っているから。ふ、と小さく笑みを零すと、それに気がついたらしい佐疫も相好を崩した。
 災藤さんと一度合わせた以来、私は一人だった。一人で、ただただ静けさの中に音を生み出していた。けれど、二人って、こんなに楽しいんだ。それは二人だからなのか、横にいる、佐疫とだからなのか。私には知り得なかった。この時間がずっと続けばいいのに、なんて考えてしまっていたが、無論それは叶うことのない話であった。
 最後の音を、集中力を保ちつつも、天色の眸と息を合わせて奏でる。ふう、とひと息ついて、余韻に浸りつつも視線を外すと、部屋は先程よりも暗く感じた。その中で、薄らと光を主張するのは窓の外だった。
 どちらから口を開くか窺う余裕もなく、私の口からは自然と笑みが零れた。

「……ふふ、」
「? 何?」
「ふ、いや、楽しかったなって思って」

 口元を押さえているものの、破顔したそれを抑えきれていない私を見て、佐疫は一瞬縹色の眸を丸くしたけれど、すぐに顔を綻ばせた。こうして笑い合うだけで、幸せって分かつことができるの。私たちは、口元に手を当てがって、でも声を抑えずに笑った。

「ふふ、私ね」
「うん」
「佐疫と一緒に弾けて嬉しかったよ」
「うん、俺も」

 未だに緩んだ口元を隠すように、そろそろ片付けようか、って暗黙の了解。譜面台をしまい込み、椅子はそのまま。灯りだけ、一段階、二段階、三段階めでそれは消える。佐疫は私と同じで、蓋は開けたままにしておいた。外套の釦を留め直した佐疫は、楽譜をチェストの中に戻そうかとしたらしいけれど、まあいいか、と言うようにピアノの上に置いた。それを横目に、身体を伸ばす。

「あ、あとね」
「うん?」

 窓を閉めて、テーブルランプに手をかけた私はおもむろに口を開いた。佐疫は次に私が何を言うかって、相も変わらず優しい表情を向けてくれる。言うか迷ったんだけど、って、心の中で付け加えた。

「ちょっとドキドキした」

 何が、なんて詳しく言わずに、そのときの単純な気持ちの昂りだけを伝える。そんなに詳細に伝える必要なんて、ないのだから。戸に手をかけて待つけれど、私の言葉を聞いた佐疫が、確かにその天色をわずかに揺らして、その場から幾分動くことはなかった。