心弛び、慕情

 先程までこの場に似つかわしくないほどに、それはそれは大変うるさかった平腹は、どういうわけか急に黙ってしまった。珍しいこともあるものだ、と驚いて、けれどそれに意識を持っていかれないように手元の資料に目を通し進めた。

「なーなー苗字!」
「うわ、びっくりした〜、何?」

 そんな沈黙は本当に刹那的で、当然の結果と言えばそれまでである。どうやら夢中になっていたのは何やら本であり、推測するに何かわからないことがあって私の名前を呼んだのだろう。蒲公英色の目をした男は、口をへの字に歪めて、再度開いていた頁とにらめっこするのであるが、ついには眉を顰めてそれをばん! と置いた。

「あーあ。丁寧に扱ってね」
「だってこれ意味わかんねーもん。初めの方はまだわかりやすかったけどさあ」

 この場にいるのが私と平腹、あと何気にいる斬島だけで良かったと心から思う。特に報告書やらに追われて残業をしている獄卒なんかを前にすると、平腹のこれはただの雑音なのだから。私は次の任務までの状況把握のための資料を読んでいるだけなので、まだ期間は少しあるし気にならないのだけれど、斬島は大丈夫かしら、なんて視線を向けると、ああ、どうやら大丈夫そうだった。

「どうしたの、何がわからないの」
「ここ!」

 こういうのは普段は佐疫の役割なのだけれど、本当によくやっていると思う。私もこういう場面でやむを得ず解説をすることになった経験は何度かあるけれど、何度言っても伝わらないので、結局平腹が飽きるまで付き合うことになるのだ。だるい、の一言とか、適当に他人に振ることでかわしている田噛ってすごいんだな、と感心をしてしまう。
 どれどれ。本を覗き込む。平腹の指さしたところを見ると、

「あー、」
「『男女の友情と恋愛感情の違い』か?」

 一体平腹は何を読んでるんだ、という多少の困惑で声に出すか迷ったそれは、平腹の隣からそれを同じように覗き込んでいた縹色の目の男が平然と読み上げてしまった。佐疫に助けを求めたい。もはや平腹からの意図した嫌がらせか? なんて思ったけれど、当然平腹にそんな頭は持ち合わせていないので、その一瞬の考えは却下である。

「なに? 斬島わかんの?」
「……いや、確かにこれは苗字が適任かもしれない」
「……え!?」

 平腹の前に置かれた本を見て、結構難しいことが書いていたりするのによくここまで読めたな、と疑わしくも感心していると、斬島の口から出た言葉に耳を疑った。思わず反応がわずかではあるが遅れてしまうほどには。それを聞いた平腹は蒲公英色の目をさらに輝かせて、実際には微塵も輝いていないのだけれど、私の方を見た。やっぱすげーな苗字! って、そんなこと言ってないけれど、そういう表情をしている。

「やっぱすげーな苗字! なんで? なんでわかんの? 早く教えろよ!」
「あ、言った。なんでって……うーん……」
「? 苗字は田噛」
「わ、わー!!」

 柄にもなく平腹と張り合えるほどの大声を出してしまった私を見て、斬島は相変わらずの無表情を動かすことなく肩を震わせた。つい周りを見回すけれど、もちろんのこと私たち三人以外誰もいなかったので、安堵の息を漏らした。蒲公英色の目をした男はと言うと、その目を丸くして私と斬島とに視線を往復させた。

「田噛? 田噛がなに?」
「いや、多分斬島の言い間違い。ね、斬島?」
「……ああ。間違いだったみたいだ」

 私の圧を汲み取ってなんとかそれを訂正してくれ、とばかりに斬島に目を向けると、どうやら私の望み通りにしてくれたので、ひと息ついた。それでもやはり平腹は、『男女の友情と恋愛感情の違い』が気になるようで、折れずに私に何度も何度も聞いてくる。結局どういうこと? 早く教えろよ。なんて具合に。説明してもしなくても面倒で変わらないと考えた私は、恋愛感情に対する一般論を伝えようと試みた。

「……要するに、こう、ドキドキするかどうかじゃないの」
「どきどき? あ! オレこの前めちゃくちゃ足の速ぇ猫追いかけて走ってたら気づいたらドキドキしてた!」
「俺もさっき苗字が大声を出したときに少しドキドキしたな」
「う、うーん……」

 この二人だとこうなるのか、と頭を抱えた。それにしてもどうして、斬島が私の恋愛事情について知っているのだろうか。佐疫あたりに気づかれていたのは知っているけれど、佐疫が口外するなんてことはないだろうし。余程私がわかりやすいのか、それとも斬島の勘の鋭さによるものなのか。もし木舌あたりにも気づかれていたとしたら、木舌のお酒の管理を徹底しなくてはならないな、などと思いを巡らせた。
 ドキドキするかどうか、なんていうありきたりな答えを出したものの、私が田噛に向ける感情は少し違う。田噛といると安心感があるし、気を遣わなくて居心地がいい。そうして考えてみれば、私が田噛に向けているこれは果たして恋愛感情なのか、自分がわからなくなってしまうのだった。

 ☓☓☓

 薬草を種類別に振り分ける。鎮痛はこっち、止血はこっち、といった具合に。所謂雑用であるが、閑暇を過ごし、特にすることがない私にはうってつけの暇つぶしであった。
 そんな私の向かいのソファで横になって、帽子で顔を隠して寝ている男を尻目にかける。

「……」
「……」
「どうしてここにいるの」
「眠いから」
「へえ。部屋行かないの」
「……」

 自分の部屋が一番落ち着くって言ってたんだから、自分の部屋で寝ればいいのに。枕もあって快適だろうに、平腹にめちゃくちゃにでもされたのだろうか。目の前の男は私の二つ目の質問に答えることはなく、けれど催促するほどに気にもならない。レンゲソウを瓶に詰めると、次の瓶に手を伸ばした。この色は魚毒に効く色だろうか。キリカさんの手にかかれば頼めば魚毒の心配なんてないだろうに、と思うが、うっかり平腹みたいなのがむやみに魚を口にして倒れてしまっては大変だしな、と考える。

「取って」
「だるい」
「なんだかんだ取ってくれるの。寝てないじゃない」
「うるせぇ。今から寝るんだよ」

 帽子で顔を覆いつつも、右腕を伸ばして私のもとに置いてくれた。シソを瓶に詰めて、もう一つ同じ色の瓶にもまた、シソを粉末にして詰めた。まあ、魚毒にしろ何にしろ、刺身の横に添えるだけで見栄えはいいからな、と緑色をしたそれを眺める。
 いつものように規則正しい息遣いは聞こえてこないので、数日前の平腹たちとの会話を思い出した私は、田噛に助言を求めることにした。好きな男、訂正。好きかどうかわからない男に聞くというのも変な話ではあるが。

「田噛」
「……」
「友達としての好きと恋愛感情の好き。何が違うかわかる?」
「……あ?」

 寝たふりをしていたのか、はたまた口を動かすのが面倒だったのか、黙っていた田噛は、私のおそらく思いがけなかったであろう質問に対してつい口を歪ませると、見慣れた夕日が姿を現した。なんともまあ、間抜けな表情で、笑いを堪える。

「この前さ、平腹に聞かれて『ドキドキするかどうか』って答えたんだけど」
「……」
「どうもしっくり来なくて」

 そのしっくり来ない原因は、言うまでもなく目の前の好きかどうかわからない男にある。現に今、彼に対して胸は高鳴っていない。でも居心地が良い。彼が一言も発しないとしても、そこに居てくれるだけで、安心感がある。強いて言うならば、どのような返答があるのか、果たしてないのか、その期待にドキドキしていた。そんな中でも、薬草を分ける手は止まらなかった。きっと内心は、こんなくだらない質問になんて答えないだろう、と思っていたから。
 最後の瓶に薬草を詰め終えて、手帳に種類別の状態や数を記す。万年筆を置いて、ふう、と息を吐き出すと、横になって目を閉じていた田噛は、もう一度、薄らとではあるが、その色を見せた。

「安心するかどうかだろ」
「うん、……ん?」
「だから安心するかどうか。一緒にいて気遣わないとか。……あー、あと二人きりになりたいかどうかとか」
「やけに具体的な」

 空返事、そして聞き返したのはもちろん、田噛から返答があることへ対しての驚き。具体的、とは思うものの、田噛の言ったことはほとんどが私の考え、否、私の状況を表すものであった。恋愛感情にドキドキっていらない? と聞いたら、知るかよ、とだけ返して目を閉じた。そうか、私のこれって、ちゃんと恋愛感情だったんだ。一般的とは違えど、少なくとも私と田噛の中では。再確認して、胸を撫で下ろす。目の前からは、規則正しい寝息が聞こえてきた。

「田噛?」
「……」
「……おやすみ」
「……」
「……」
「……自分の部屋行かないのかってやつ」
「うん?」

 今度こそ寝てしまったと思った私は、瓶の数々を籠に詰め入れて部屋を出ようとしたが、背後から声が聞こえた。まだ起きてたのか、と思う前に、嬉しい気持ちと、あとは急に数分前の何気ない質問に対する言葉に対して不思議に思う気持ちがあった。どうして急に思い出したかのように触れてくるのかって。戸を開けようとした手を止め、姿を隠したソファの背もたれからの続きの言葉を待つ。その言葉は、意図的だったのか、そうでなかったのか。

「わざわざ居心地悪いとこには来ねぇよ」

 いつも通りの淡々とした声。私を困らせようとしているのか、無意識に出た言葉なのか、それとも――
 その答えをひねり出す前に、それを遮るかのような、寝る、という一言だけが発せられた。