恋しさ故、気焔万丈

 タイプライターの音が鳴り響く。二つの音が重なるそれは、それぞれ違う速さで打ち込まれていくのだった。秒針が響く部屋に、無味乾燥とした音が連続して生まれる。時計が三回音を鳴らしたとて、そんなこと気にならない、意図的にそれを気にしないくらいには、私たちは追い詰められているのだった。
 息を切らす間もなく、それどころか息をすることすら忘れて、資料、報告書、そしてキーボードに視線を往復させる。息苦しくなっていたのに気がつかないのは、もちろん、それどころではないからだ。それはもう、冷めきってしまった昼食に手をつける暇もないくらいに。その昼食はと言えば、気がつかないうちに黄色の目をしたあの男に食べられてしまっていたのだけれど。

「は〜……」
「ふう……」

 私たちが深い深い溜息を零したのは、ほとんど同時だった。心做しかくすんでいるように見える空色と目が合うと、またしても溜息を零した。二度目のそれは、一度目よりは、切羽詰まったというより、お互いを労うようなものであった。固まりかけた肩を自身の手でほぐす。数時間、ずっと同じ体勢だったことが原因だろう。目の前の男は、身体を伸ばすとか、そのような行動はしないものの、目の下の隈の濃さがすべてを物語っていた。手元に視線を戻せば、ようやく終わるだろうか。溜まりに溜まっていた書類の山は、ほとんど右に移動し、ほんの小さな山へと変わっていた。

「……お疲れ、佐疫」
「うん、苗字もね……」

 伸びが足りず、椅子から立ち上がって身体をひねり、上にも下にも筋を伸ばした。二度言うが、まだ終わっていない。しかし光が見えてきたという事実は大きいもので、その事実が私の気力を維持した。佐疫も同様席から立つと、やはり固まっていたのか、腕を上に向けて伸ばす。珈琲を淹れるよ、と仕事をしていた席から少し離れたテーブルに移動した。佐疫がキリマンジャロの豆を挽くと、疲れもあってなのか、なんとなく苛立つようなこの部屋に少し甘酸っぱい香りが充満した。お湯を注いで蒸らしている間は、仕事をしているときを除いて、私たちの間では珍しい沈黙が続いた。またしても秒針の音が鳴り響く。

「お待たせ。少し息抜きしよう」
「ううん、ありがと……。佐疫お疲れ」
「二回もありがとう」

 二人分のカップを持った佐疫が、それをテーブルに置く。バタークッキーもついでに添えてくれたので、流石よくわかってるな、そう思いながらも珈琲を流し込んだ。小さな机で、座り方次第では足が触れ合うほどであるが、目の前の男は疲れているにもかかわらず、背筋を伸ばして、こんなときでも変わらずの綺麗な姿勢を保っている。私は今すぐ寝転びたいのに。佐疫より先に、クッキーに手を伸ばす。糖分って大事だよね。体重なんて気にしないふりをするように、誤魔化すように言えば、その通りだね、と微笑んだ。

「沁みる〜っ……佐疫お疲れ〜……」
「まあ、まだ終わってないけど……」
「いいのいいの。佐疫ももう終わるでしょ、お疲れ」
「すごく労ってくれるね。そうだね、終わりは見えてきたよ」

 もはや口を開ける度にお疲れ、と言いたい気分だ。私自身にも、もちろん佐疫にも。佐疫は特に、仕事ができるし、ちょっと難しいことも良い顔して引き受けちゃうから、私の課されたものより随分量が多かった。おそらく、任されたものもあるのだろう。憶測なんかじゃなくて、私もそうだからである。

「はあ〜……何徹目〜?」
「俺? 俺は、三……だったかな」
「うわあ……私は言っても二徹目。それであの量仕上げてるの偉すぎる〜……」
「苗字も本当にお疲れ」

 二徹と三徹、言葉だけならあまり変わらないように感じるが、私にとっては大きな違いだ。四徹目に突入してしまえば、もう何も感じなくなるだろう。経験したことはないが。空いた昼にこうして書類をまとめて、時間になれば任務に行く、そして寝る時間を削ってまた書類をまとめる。ここ最近は忙しくて、本当に本当に寝る時間がないのだ。きっとそれは佐疫も同じだろう。しかも、少し進んだと思えば、任務をこなせばまた報告書を書く。そんな悪循環もしていた。いつもであればそこまで億劫ではない報告書が、なんとも辛かった。頭が回らなくなって、今日何したっけ、なんてこともあったのだ。
 しかし、だからこそ早く終えなければどんどん溜まってしまうのだ。今日は、今日仕上げさえすれば、やっとゆっくりできる。その理由は簡単で、休暇を貰えたからである。休暇と言うより非番だが、今の私の健康状態、精神状態からすればそれはそれは立派な休暇だ。肋角さんは意地悪だ、なんて思いながら仕事をしていたが、このタイミングでの非番は大きすぎる。肋角さんに、肋角さんのいないこの場で手を合わせて感謝した。

「ふふ、ふふふ、佐疫佐疫佐疫」
「うわあ、どうしたの苗字。二徹目でおかしくなった?」
「ふふふ、違うよ。頑張れば私、非番という名の休暇なの今日」
「あ、そう言えば俺も今日は非番だったなあ」

 私の前の空色の目に、光が灯ったように見えた。佐疫から見ても、そうであろう。カップを置くと、私たちは無言で会話した。間違いなくこれは通じ合っている。少しばかり口角を上げて、お互い顔を見合わせて頷く。

 一日中寝られる。

 自室のベッドが恋しい。一刻も早く落ち着くあの香りに飛び込んでしまいたい。

「ふ、はは、佐疫佐疫、」
「うん。わかる、わかるよ苗字」

 バタークッキーをひと口で口に入れてしまって、上品さがいきなり欠如してしまったかのように珈琲を飲み干す。仕方がない。私たち、疲れているから。間もなく四時を指そうとしていたそれを見ると、再度仕事に取りかかり始めた。一時間だ。一時間で全部方をつける。

 ☓☓☓

 鴉の鳴き声が聞こえた気がする。勢いよくキーボードの音を部屋に響き渡らせたと同時に、今までで一番深く、気持ちの良い溜息をついた。佐疫も、それから一分経たずに無事終えたようだった。

「あ〜〜! 終わった〜!!」
「お疲れ! 本当にお疲れ……!」
「お互い様。本当にお疲れ。私たちは偉い。最強の獄卒よ」

 出来上がった、すべてに印鑑を押し終わった書類の山を見て、私と佐疫は手を取り合った。それはそれは今まで獄卒やってきた中で、最も固い握手だった。きっと双方にとって。なんならもう佐疫を持ち上げてこの場で回りたいくらいの気持ちではあるが、いくら鍛えていても佐疫を持ち上げるのは困難だし、少し冷静になれば、どうも浮かれすぎている人に思われてしまうであろうから、頭の中だけに留めておいた。

 書類を無事に提出すると、軽い気持ちながらもふらふらとした動きでお互い部屋に向かう。そう、田噛すらもぎゃふんと言わせるくらいに、引かれるくらい寝てしまおう。今は夕方の六時だから、一四時間くらいは寝られるだろう。皆が任務に出払っている間に寝る。これ以上ないくらいの幸せだ。もう何があっても起きない。お腹も空いているけれど、それよりも今は睡眠を優先したかった。
 別れる間際、佐疫とお互いをこれ以上ないほど労い、励ますように再度固い握手をした。眠気も飛んでいたが、寝られる、そう思った瞬間、何よりも睡眠欲が頭を支配する。じゃあ、いい夢を。おやすみなさい。そう言葉を交わすと、各々の個室に入った。
 さあ、この空が暗くなって、さらに明るくなって、また暗くなるまで寝るぞ。どうせなら、開けるな、なんて貼り紙もつけておこう。



 そのわずか三時間後、気持ちよく眠りについていたはずの私と佐疫は、肋角さんに召集された。

「二人には悪いが、平腹と田噛の応援に行ってやってほしい」

 ああ、顔が引きつってるよ佐疫。私の頬も痙攣してます。隈が未だ濃く残る佐疫と、頭が上手く回らない私。こんなの応援に行っても戦力外です肋角さん。

「ああ、許せない……」
「……苗字」
「……わかってるよ佐疫」

 指定された場所に着いた私と佐疫は、疲れた顔を合わせる。私と佐疫の考えていることは、今日だけでどれほどリンクしただろうか。今なら獄卒一わかりあっている二人組として優勝できてしまうだろう。
 息を軽く吸って、その古びた扉を開けると、武器を構えた。

「「今日は三○分だ」」