白日の魔法使い

 猫が好きだ。

「にゃー」

 なー。

「にゃー?」

 なーう。

「にゃ……」
「――何やってるの?」
「!!」

 完全に油断していた。音楽室の隅に屈み、見るからに高貴な姿をした、ふわふわの猫に声をかけていると、そんな私に声をかける者に気がつかなかったのだ。醜態を晒してしまった、と顔に熱が集まった。こんなに恥ずかしがるのには理由があり、普段は自己主張を控えめに、人前ではあまり感情を露わにしないように心がけているからである。顔色を窺って、同調する。心がけている、と言うよりも、半ば前世で無意識的に身についたものではあるが。しかし、それも今日で終わり。文字通り、猫撫で声で、猫の鳴き真似をしているところを見られてしまったからだ。

猫又ケット・シーだね」
「えっ、あ、佐疫、」

 後ろを振り返ると、私を呼びかけた声の主は佐疫であった。どうしてここに、なんて、私たち獄卒からすれば愚問である。おそらくピアノを弾きに来たのだろう。逆に佐疫からすれば、どうして私がここにいるかの方が疑問だろう、などと思う。その答えと言えば、特に面白みはなく、暇を持て余していたために覗いてみただけである。
 こうして頭の中で物事の整理を進めるにあたって、次第に佐疫に振る話題というものはなくなっていき、言葉に詰まった。何か言わなきゃ、いつも通りの対応をしなきゃ、と思うも、もう手遅れなので何を言えば良いのかわからない、という気持ちの方に負けてしまった。
 そんな私の気色を読み取ってか、室内にいるにもかかわらず外套を身に着けた男は、私のすぐ横に、私と同じように屈むと、ふわふわのそれをひと撫で、ふた撫でした。

「猫、好きなの?」
「う、……あ、さっきの、……」
「すまないね、驚かすつもりはなかったんだ」

 もしかすると、佐疫が来たのは見事なタイミングで、私が猫に声をかけているところなんて見ていないかもしれない、と思っていたが、それは叶わぬ願いとして散るのだった。しかしまあ、ここに来たのが佐疫だったのは、幾分か良い方だっただろう。田噛や谷裂なんかが来たら、それはそれはこの醜態を来世まで持っていく覚悟をしただろうから。私たちに来世なんてないのだけれど。しかしその二人でも、口止めをすれば、わざわざ人に言いふらすようなことはしないだろうが。ああ、田噛は少し怪しいな。言いふらさないにしても、私のことを見て勝ち誇ったような、嘲るような笑みを向けるかもしれない。それ以外だと、抹本や平腹、あと災藤さんに見られなくて良かった。
 実は目の前にいる空色の瞳の男も笑いを堪えていたりするのではないか、と甚だ疑問は晴れないが、一度その疑いの念は忘れることとした。

「う、ううん、いいの。……猫、迷い込んで来たのかな」
「まだ昼時なのに珍しいね。それにこの子、黒猫じゃない」
「……白い模様もない」

 猫又と言えば、の象徴はなく、犬のように大きいわけでもない。二本足で歩くこともない。尻尾も身体も、長い被毛に包まれていて、冒頭でも言った通り、高貴そうな猫である。しかし、当然この世界にいるということは、ただの猫ではない。その印として、猫から伸びる影は、朱殷のカーペットに映された猫の尻尾は、二又に分かれている。間違いない、猫又だ。
 佐疫が、同じ調子で撫でていると、それはまあ気持ち良さそうに寝転ぶものだから、つい口元が緩んでしまうのだ。

「苗字、本当に猫が好きなんだね」
「え、あ、」
「ん?」
「……引いてない?」

 その様子を見ていたらしい佐疫にまたしても気がつかなかった。今日こんなに卑屈で、なんとも言葉に詰まるというか、対話能力が乏しいように見えるのは、先程までの動揺が消えないからである。他の獄卒よりはマシではあるが、それでも見られたことには変わりない。普段の会話は成立しているというのに、これでは傍から見れば、なかなか陰気と言うかなんと言うか。
 それでは埒が明かない、と言うより、目の前の心優しい佐疫も、会話がなかなか進まないために苛立ちすら感じるだろう、と考えた私は、いい加減落ち着いて、しかし先程の体たらくを掘り返すような質問を投げた。するとまあ、佐疫は猫を撫でる手を止めず、もう片方の手を顎に当てて考える。猫は、ごろごろと喉を鳴らしている。

「確かに、意外だった。驚いたけど、」
「……けど?」
「苗字の意外な一面が見れて嬉しかったのが本音かな」

 変わらず喉を鳴らし、お腹を丸出しにした、みっともないが可愛らしい姿をさらけ出す猫の瞳が、私を捉えた。よく見慣れた色に似ていた。青磁色とか、夕日色とかじゃなくて、空色の、隣にいる男の眸によく似た色だった。佐疫の言葉に、困惑する。けれど、不快感とか、そういうものはなかった。嬉しいような、安心したような、そういう類の。

「……嬉しいって?」
「苗字って、随分って言う言葉以上に随分俺たちと一緒に仕事してるのに、主張とかが少ないから」
「うん」
「好きなものとかもはっきりとわからなくて」

 先程までの恥じらいは、ほとんど抜けきっていた。ほとんど、と言う意味のまま、わずかに羞恥心が残っているのだが、自身では気にならないほどである。日向に晒された、毛玉のようなそれは、目を細めて、左右に身じろいだ。私は、その場に膝をつけると、猫の腹を撫で始めた。それでまた、気持ち良さげな表情を見せる。

「前世の、癖なんだと思う」
「うん」
「そういう環境にいたから。薄くしか、記憶に残っていないけれど」
「……そうだったんだ。――でもね、苗字」
「? うん?」

 佐疫は、猫を撫でる手を止めると、私の方を向き直した。猫は、寝てしまったのか、規則正しい呼吸音を鳴らす。猫は炬燵で丸くなる、とは、よく耳にしていたものであるが、この猫又は丸くなるなんてとんでもない。身体を伸ばして寝てしまっているのだから。それを確認すると、軽く額のあたりを撫で、私も佐疫の眸を見つめた。

「今は難しくても、俺たちはもっと苗字のことが知りたいって思っているんだよ」
「俺たち……斬島、谷裂とか、田噛も?」
「うん、その通り。だから、徐々にで良い。俺に、俺たちに、君のことを教えてほしいな」

 青空を映したそれは、柔らかな光を灯す。もう、前みたいに、私を意味なく咎める者も、牽制する者もいない。いつまでも、もう戻らない過去に囚われる必要だって、ない。佐疫の言葉だけでいとも簡単に、それはそれはまるで魔法のように、するすると、過去のしがらみが解かれていく。少しずつでいい。少しずつ、私は皆を知りたい。皆に私のことを知ってもらいたい。もっと、もっと。

「……私、」
「うん」
「猫が、好き」

 顔が綻ぶのを抑えられずに、抑える必要なんてなくそう言って、目の前の猫をひと撫ですると、佐疫も、普段から変わらない優しい表情を、さらに和らげた。猫の、猫又の、影として反射する分かれた尻尾は、楽しげに揺れていた。

――でも、猫の鳴き真似してたのは言わないでね。
――心配しなくても言いふらさないよ。