五畳半の熱を分かつ

 バイオリン? 違う。お筝? 違う。と言うより、不釣り合いだ。それを言えば、バイオリンだって。喇叭……には適任がいる。尺八。とても柄じゃない。ピアノ? ピアノも佐疫で十分だ。三味線よりは、この男はやっぱりギターか。ギターに合わせるんだったら、何だっけ。あ、

「ハーモニカ」

 窓の外まで響くような、澄んだ音色。本人曰く、これはまだ調整の段階に過ぎないそうであるが。いつも耳にするような金属音ではなく、私と背を合わせて胡座をかく男は、今日の気分だろうか、アコースティックギターとやらを選択したらしい。
 いつだったか、私が初めて彼がギターを弾いているところ、ああ、あのときはエレキの方だった。私はその楽器を初めて見たから、それどこに売ってるの? そう聞いた。当時、この私たちが住む区域から出たことがなかったから、金属の糸のようなものが真っ直ぐに、弛みなく張られたそれは、大変珍しかったのだ。しかしそれも昔話。何十年、否、それ以上ここで共に生活をしていれば、何度も耳にすることになる。もっとも、今日は自発的に聞きに来たのだが。

「ハーモニカがどうした」

 旋律を持たない柔らかな音色を奏でる手が止まった。背を預けているため、その姿を確認することはできないが、音が止んだ、ということは、手を止めたのだろう。ベッドの上で背中合わせ。その状況は変わらないまま、後ろにいる男、田噛に言葉を向けた。

「似合いそうだなって思った。特に、エレキじゃなくて、今みたいにアコギ弾いてるときは」
「俺に吹けってか?」

 アコースティックギターに、ハーモニカ。
 この間、町に出た。非番で、することがないなら買い物でも行ってきなよ。そう佐疫が言ったから。谷裂だったら、鍛錬にでも付き合わされていたのだろうけれど、相変わらず佐疫は気の利く男だ。町からの帰り際、聞き馴染みがありつつもいつもとは違う、聞き慣れたそれよりも無機質な音、それとはまた別の、温かさと冷たさが共存する音が、自然と耳に入った。その音に釣られるように振り返ると、町の狐が、これまた不相応なアコースティックギターとハーモニカを演奏していた。つい立ち止まってしまったのは、惹き込まれてしまったのは、その音が、黄昏に染まる町に、気味が悪いくらいに調和していたものだから。
 あとから聞くと、どうやら狐によって惑わされていたという。

「吹かねぇ。何より練習する時間がないんだよ」
「ギターは練習してるのに?」
「それはそれ」

 一理ある。私だって、人にせがまれて好きでもないことを始めるほどのお人好しでもなければ、興味関心もない。しかし、私と田噛の仲なのだから、少しくらいお願いを聞いてくれても良いじゃない、なんて思うものだ。単なる我儘に過ぎないとは言え。
 本音を言えば、ハーモニカじゃなくて、田噛自身の歌を聞きたい。彼の歌声を。頑なに聞かせてくれないものだから、見た目の割に恥ずかしがりなのか、音痴なのか、そう考えるのが妥当である。あと、弾き語りの練習をしていないとか。

「あとあれだ。あんまり好みの音じゃない」
「あらら喧嘩だ。どうして? 温かい音してるのに」
「奏者の技量によるな。俺からすればまあ、音域が高めだから好みじゃない」
「……一理ある」

 上手いこと丸め込まれている気がする。けれど確かに、素敵な音色ではあるものの、例えば私の機嫌が悪いときに、目の前で拙い演奏でもされてしまえば多少なりとも苛立ちを覚えるはずだ。それと別に、主張の強めなハーモニカと田噛の相性は良くない気もする。何よりこの場にすぐ用意できないのも、田噛の意見に負けてしまう原因でもあった。相も変わらず私と背中合わせしている男は、ギターとの相性は良いんだがな、と呟いてペグを回した。
 そうだな、温かみがあってなおかつ田噛との相性が良いのはハーモニカと言うよりはオカリナだったかしら。それともやはり、いや、歌の方だ。

「ねえ」
「なんだ」
「歌わないの?」

 田噛の歌声を、聞いたことがない。彼がこのギターを演奏しているときはいつも、ソロじゃなくて伴奏の方だ。平腹や木舌が機嫌良さそうに歌っているところはよく目にするし、災藤さんや佐疫も稀に何かを口ずさむ。よくよく考えれば今しがたハーモニカを提案してみたのだって、歌の代わりとして、だったのかもしれない。本当に吹いてほしいならば、丸め込まれてしまったとて、歯痒さなりを感じるものだろう。それがないのだ。とても無意識ではあったが。
 田噛の歌声なんて、とても想像できない。一度気になりだしたらそれはもう、気になって気になって仕方がないので、田噛を焚き附けるように、彼の右手側から顔を覗き込んだ。田噛との仲だから、多少の煽りくらい許されるでしょうよ。あの日の黄昏の町より、余程深く、けれど静かに光る双眸と視線が絡んだ。

「何か歌えない理由があるんでしょ」
「は?」
「そうだなあ、すごく音痴とか」
「なんだ、喧嘩売ってんのか?」
「いやいやまさか。得意不得意とか、人に聞かれたくないものくらい誰にでもあると思うし」

 私の目を見たその男は、わかりやすく舌打ちをした。もはや男の口癖となってしまった、だるいな、というのも付け足して。しかし、その言葉で勝利を確信した。勝利という言い方も、変ではあるが、田噛が「だるい」と言うときは、なんだかんだで目的を遂行するとき、お願いを聞いてくれるときだと知っているからである。先程は見えなかった、きっと真顔には変わりないが、たった今好きなものに打ち込んでいる表情を見て、つい喜びが込み上げそうになったもので、それを汲み取られる前にまた、彼と反対の方向を向いた。

「まあそうだな」
「ふふ、」
「苗字だって聞かれたくない恥ずかしい声、聞かせてくれるもんな」
「……それは余計」

 小さく笑う息遣いが聞こえる。再びペグを回して、音の調節を始めた。ああ、やっぱり。蓄音機から流れる音色とか、この間の狐の演奏とかよりも、余程安心できる。あたたかい音がする。エレキギターでもいいけれど、私はこっちの方が好き。この心地良い音に、甘えるように、背中にのしかかる。ぽろん、ぽろん。

 すうっ、と息を吸う音が聞こえる。先程までの意味の持たなかった綺麗な音は、その手によって意味を、旋律を与えられていく。聞き馴染みのある前奏。その理由は簡単で、いつも聞いていたから。今までも、彼が伴奏だけを奏でると、歌ってやろうかしら、なんてほんの少し考えて、それでも彼の歌声を聞きたかったから、そのもどかしさを抑えていた。それ以上に、伴奏単体でも心地良かったからだ。
 今度は弾く前、決まってする呼吸の音じゃなくて、緊張感がありつつもゆったりとした呼吸の音を鳴らした。そして一拍。歌が聞こえる。紛れもなく、私の後ろでギターを演奏している、その男から。待ち望んでいた歌声が聞こえた。
 五畳半の広さの部屋中に響き渡るのは、優しいその歌声。低音がよく響く、ハーモニカとは似ても似つかない声だ。息遣いを近くに感じる。これと言った癖なんてものはないが、その分、その歌声とか、歌詞とかが明瞭に私の中に入ってくる。主張はして来ない歌声ではあるが、しっかりと芯を感じる。
 ああ、確かに。これを他の人に聞かせてしまうのは、勿体ないかもしれない。私の中だけに、留めておきたいのだ。真っ直ぐな、くどさをまるで感じさせないその歌声のおかげで直に届く歌詞は、恥ずかしいほど一途なラブソングであった。みるみるうちに顔中が熱を持つような。

 気がつけば田噛の手は止まっていた。途中で終わったとか、そんな馬鹿らしい話はなく、四分足らずの演奏が終わったというだけの話である。余韻に浸る余裕なんて、予想外に持ち合わせていなかったものだから、思いがけず背筋を伸ばして昂りを落ち着かせているところだった。田噛の歌声の綺麗さ、ああ、とても綺麗だなんて言葉で片付けられない。私が提案したそれとは酷く対照的ではあるが、どこか似通っている気がした。何よりも、その歌詞、歌詞と言うより、歌い方。まるで私に向けた真っ直ぐな――

「お気に召しましたか、お嬢さん」
「……っ、ずるい」

 仕返しのように私の顔を覗き込むと、悪戯な笑みを浮かべる、黄昏時のような、梔子色の眸を、また静かに光らせる男。言いたいことがたくさんある。言いたいことがたくさんあるけれど、あえてその中で一つだけを選択した。一度顔を両手で覆って、次はまた、誤魔化すように彼の背中に埋めて、強く強く抱き締めた。

「……好き」

 返事は当然なかったけれど、少し見えた彼の耳はわずかに紅潮していて、それから彼は、私の手の甲を柔く包んだ。