ひとひら通して誘って

 聞き慣れ過ぎた賛美歌。人の手を借りずとも柔らかな音を奏でるパイプオルガンは、今はお休み中でしょうか。冷たい石畳と、赤いベルベットを僅かに照らす、月の光。壁一面ともとれる窓から射し込む仄かな光が、ステンドグラスの加減で、虹のようにも見えます。純白の壁に掛けられた、何とも大きな十字架。蝋燭の火が、かろうじて、未だ消えずに揺らめいています。ああ、今日のお花は、トルコキキョウなのですね。私は昨日の鴇色の百合や、三日前の胡蝶蘭の方が好きでした。

「お嬢さん、良ければ私と」
「……いいえ、貴方ではありません」

 毎日毎日懲りないものね、と思いますが、それは毎日違う人なので、そんなことを言っても無駄なことくらいわかっています。毎日違う亡霊ひとなのです。時には同じ人が来ることだってあります。今まで来た人たちは、皆決して悪い人ではありません。でも、皆、私の名前を呼ばないのです。

「マリア様には、私こそが相応しい」

 誰一人として、私の名前なんて呼ばないのです。今日の人は、私の顔を一目見ようなんて思ったのでしょうか。薄いベールに腕を伸ばしたのですが、その手が触れる前に、その人とは反対方向を向きました。
 そうですね、名前を呼んでくれないのも、相手にしない一つの理由です。けれど、今日は言い忘れていたみたいでした。こう言えば、大抵は身を引いてくれるのです。

「私、好きな人がいるの」

 けれどそれは、生前の話。

 ☓☓☓

 私が、私自身が、あの世へ行くことなく、未だこの場所を彷徨っている理由は自分でもよくわかります。教会のように見えるこの場所は、私が生前、勉学に励んだ学校。長い歴史を持つ、日本に存在する、ミッション系の学校なのです。この姿になって、数十年が経ちました。結果的に、あの世に行くことができませんでしたが、特に不自由はしていないのです。

 私には生前、愛した人がいました。この聖堂で、愛を誓い、口づけを交わしました。年月とは不思議なもので、彼の顔も、名前も、すべて記憶から消えてしまいました。でも、それで良かったのだと思います。
 何故なら、私の好きな、私の愛した人は、私と愛を誓ったにもかかわらず、他の女性と愛を紡いでおりました。その光景を見たとき、それはそれは衝撃でした。彼の顔や、相手の女性の名前や顔は当然ながら覚えていませんでしたが、あの光景だけは、脳裏に焼き付いて離れないのです。
 私の中から湧き上がったのはもちろん、憎悪でした。あれから十分な月日を経た今でも、あの頃を思い出せば、腸が煮えくり返りそうなほどです。
 まるでウエディングかのような純白のドレスに、ベールを被ったこの姿には、気づいたときにはなっていました。享年十七歳の見た目にして、ウエディングドレスのようなものに身を包んでいるのです。いえ、とてもおかしいことではありません。

 生前愛していた人のことを想うと、ここから離れるなんてできたものではありません。好きで、と言うより、憎悪で。私より幸せになっているかもしれない事実に。しかし、数十年も前の話なので、彼はあの女性と幸せになっているのか、他の女性と結ばれているのか、はたまた独身か、もしかすると死んでしまっているかもしれません。あとは、わかっていることは、そう、そろそろ私も殿方を見つけてこの世から去ることですね。

「それにしても、今日はやけにうるさいですね……」

 具体的に言えば、今日に限りません。昨日も一昨日も、その前もそうです。私に惚れてしまう人たちも、日に日に執拗さが増している気すらします。それに今日は、声にしたように、ええ、いつもよりも亡霊たちがざわついております。それに加えて、物理的な騒音も聞こえます。校舎の方が何者かによって荒らされているのでしょうか。人間の仕業か、それともそれ以外の仕業か。しかし、私にはそんなことどうだって良かったのです。この聖堂さえ無事ならば、私にはどうだって良かったのです。

 けれど、それにしてもうるさすぎる。私以外の女の子たちの亡霊もざわつき始めました。私の次に人気がある女の子は、私のことが嫌いなのでしょう。いつもは私がここにいる時間帯は姿を見せませんが、今日ばかりは外の様子が気になったのでしょうか。聖堂内を歩き始めました。私は変わらず、壇上に佇んでおります。当然、現れることのない運命の殿方の迎えを待っているからです。
 すると、この聖堂への入口、二枚扉が静かに開きました。ここの生徒たちも私たちの頃の教えの通り静かに扉を開いてくれますが、それよりも、もっと静かに開きました。まるで音がなかったのです。それにもかかわらず、私がそれに気がついたのは、そちらを向いていたから。いいえ、きっとそれだけではないのでしょうが。

「……どなた?」

 逆光でしょうか。その姿をはっきりと捉えることはできませんでした。月明かりと蝋燭の光しかないのですから。不思議なことに、その中でも、彼の眸だけは、異様な程に美しく光っていたのです。空色が、あまりにも妖しく光っていたので、つい惹き込まれそうになるほどでした。
 足音が近づいてきます。きっと、その眸の持ち主がこちら側に歩いて来ているのでしょう。もしかして、この人が、今日の騒がしい原因でしょうか。暗がりだと、私にも、きっと相手にも不都合なので、十字架の近くにある紐を一度、二度引くと、壇上を照らす光が増えました。
 そこに現れたのは、制服のようなものに身を包み、外套を羽織った青年でした。彼からは生気を感じることができないので、恐らく私と同じ亡霊か、異界のものでしょう。青年は、すべてを許すように穏やかに笑いかけると、決して私と同じ目線には立たずに、どこからか資料を取り出しました。

「君が『闇のマリア』?」

 一般的にはそう呼ばれているみたいなのです。一般的と言いますか、この学校の生徒たちには、そう噂が広まっているみたいです。ええ、私は亡霊とは言え、人間にも姿を見られてしまいます。そこから誰かが『闇のマリア』だなんて名前をつけて、生者にも死者にも広まってしまったのが、今の結果と言えましょう。おかげで、私の記憶のある限りでは、死後一度も本当の名前を呼ばれたことがありません。しかしまあ、そんな名前をもらった私自身、キリスト教の聖母マリアとはまったくの無関係です。

「ええ、そうです。貴方はどちら様かしら」
「そうだね。俺が先に名乗らないと失礼だ」

 見た目の通り、しっかりしているのですね。そう思っていると、騎士ナイトでしょうか。私の二、三段下で床に膝をつけると、右手を胸に当てたのです。なんとまあ、礼儀正しい青年でしょう。

「あの世から来た、獄卒の佐疫と言います」
「獄卒さん……」

 獄卒。噂は聞いたことがあります。あの世に、獄都という首都があり、そこには亡霊や妖怪が住むそうです。私も、もしかするとそこに行くのでしょうか、なんて考えていたのですけれど、それから既に何年もの月日を経たので、きっともうそんなことはないのでしょう。獄卒とは、地獄の鬼で、彷徨う亡者を冥府へと送るのが仕事だと聞きます。ならばこの獄卒の佐疫さんは、何かお仕事があってこの学校にやってきたのでしょう。ああ、どうりで校舎の方が騒がしかったのですね。

「マリアさんにお聞きしたいことがあります」
「何でしょうか」
「最近、周りで何か変わったことはありますか?」

 まあ、この獄卒さんは難しいことを言いますね。それにしても、きっと佐疫さんの方が見た目の年齢も、あとは社会的立場だとか、そうですね、生きていると仮定したときの年齢もきっと上ですので、敬語を外すように言いました。途中からかしこまってしまって、少し面白い人ですね。鬼、と言った方が良いでしょうか。いいえ、人の形をしているので、人と呼んでいきたいと思います。
 最近、変わったこと。

「私のことをご存知かはわかりませんが、こう見えても異性からの人気があるのです。その人たちが最近はこう、しつこくなってきたと言いますか」
「なるほどね」

 獄卒さんは律儀に私より下に立って、私を見上げる形でしたので、ぜひ上がってくださるように言えば、失礼、と頭を下げてから二段、三段と上がりました。先程よりも鮮明に、どこかまがい物のようにも感じる空色が私の目に飛び込みます。それだけで、十分に眩しく感じてしまったので、先程彼の姿を捉えるためにつけた明かりを消しました。

「君はここから出ないから知らないかもしれないけど、最近この辺りで亡霊たちが暴れている。原因は君だよ、マリアさん」
「……私の、せい?」
「君のせいと言うと少し違うかな。君は死後から今まで、何も悪いことをしていないから」

 佐疫さんの言う通りです。私は人間や他の亡霊たちに意地悪なこともしなければ、私から何かを働きかけようともしません。実害なく、快適に過ごしているはずです。それなら何故、私が原因で獄卒さんが来るような事態になってしまったのでしょうか。
 佐疫さんの硝子のような眸ばかりに気を取られてしまって、私は彼の外套の下に隠れた赤黒い染みに気づくことができませんでした。

「佐疫さん、血が……」
「ああ、気を遣わせてごめんなさい。大丈夫だよ、俺たち獄卒は死なないし、すぐに回復する」

 こちらも噂に聞いていた通りです。獄卒さんは、粉々になったとて、時間はかかるけれど、元通りに回復する。けれど、仕事柄怪異との戦闘は避けられないであろう獄卒さんが、血が出る程の攻撃を受けたということは、亡霊の暴走とやらは本当みたいです。どうやらその攻撃をしてきた亡霊たちを無事にあの世まで送り届けたそうで、一段落したためにこの場に現れたそうです。

「……それで。どうして私が原因で、亡霊たちが暴れる事態になっているのですか?」
「聞いたら、すごくくだらない理由だと思うはずなんだけど」

 もちろん聞かせていただきました。佐疫さんの言葉通り、本当にくだらない話でありましたが、同時に自分を責めてしまうことでもありました。
 どうやら暴れているのは、私がお誘いをお断りした人たちだそうです。悔しいのか、自暴自棄になったのか、ええ、まったく私の前ではそのような素振りを見せなかったので気がつかなかったのですが、彼らは学校の備品に強く当たったり、亡霊同士で、柔らかく言えば喧嘩とやらをしているそうです。備品を壊すなんて、仮にもこの学校に関係する者たちなのに、なんて呆れすらしてしまいます。

「……困りましたね」
「ねえ、マリアさん」

 壇に腰掛けて話を聞いていましたが、声をかけられて、俯いていた顔を佐疫さんの方に向けると、相変わらずその眸の色は、光は、ベール越しの私にもはっきりと届きます。赤黒い染みは相変わらずですが、出血はもう止まっているように見えたので、話通りの回復力に驚きを感じました。

「どうしてマリアさんは、ここにいるの?」
「いては、いけないのですか?」
「そうじゃない。けれど、そうだな。言い方は選ぶけど。マリアさんが未練なくこの世を離れれば、この騒ぎも収まるんだ」

 それは、その通りだと思いました。今暴れている者たちは大半、いいえ、皆私が原因なのですから。私が何もしていないにしても、そのせいで、このような事態を引き起こしてしまっているのです。けれど、だからと言って誰かを選んでしまっていれば他の者たちは不幸になりましたし、そもそも誰かを選ぼうだなんて思いませんでした。
 ぐっ、とドレスを握ると、薄い布を通して爪が手のひらに食い込みます。こんなに力を込めたのなんて、いつぶりでしょう。ええ、私だってあの世へ行けるものなら行きたいのです。

「マリアさんは、生前に裏切りを受けたんだよね」
「……よくご存知ですね」
「そして、ロザリオで自分の胸を突いた」
「ええ。ええ、おっしゃる通りです、佐疫さん」

 マリア、だなんて呼び方にも随分慣れてきました。しかし、愛した人の顔を、名前を忘れてしまっても、自分の本当の名前だけはずっと忘れないままでいます。記憶って、不思議なものですね。本当にいらないものは記憶から排除されると聞きますから、きっと私からすればあの人は不必要だったのでしょう。
 ならば今の未練は二つ。本当の名前を呼んでもらうこと。そして、添い遂げる殿方を見つけること。ええ、きっとこの二つさえ達成することができれば、私は快くあの世へと旅立つことができるでしょう。

「私は、もうきっと、その人に未練はありません。私は、運命の人が現れるのを待っているのです」

 そうです。あの人への好意なんて、そのほとぼりなんて、きっと、あの人が違う女性と逢引していたのを目撃した日から冷めていたのでしょう。しかし、それに気がついたのは、たった今のことでした。

「ですから佐疫さん。私は到底あの世へ行けそうにありません。……けれど、私としてもこの学校は安全な場所であってほしい」

 私のためでもありますが、ここの生徒たちや、他の実害なき亡霊たちのためでもあります。私が卒業できなかったこの学校の生徒たちにも、これからも安心して過ごしてほしいのです。
 その願いを持って佐疫さんに懇願の目を向けますが、その佐疫さんはと言うと、何か考え込む素振りを見せます。何か策でも思いついたのかしら。相変わらず妖しく光るその眸は、今まで見た中で一番惹き込まれるものでした。

「ねえマリアさん」
「何でしょう」
「……俺じゃ駄目かな」

 その言葉は酷く驚くものであると同時に、目の前の青年は一体何を考えているのか、わかりませんでした。初対面で好意を向けられるのは初めてではありませんが、初対面で伝えられるのは初めてです。彼の優しさに、空色に、少しだけでも惹かれてしまったのは事実です。しかし、いいえ、きっとこれはあの世へ誘う目的の元、紡がれた言葉でしょう。

「……佐疫さん。お気持ちは嬉しいのですが、」
「ああ、……気持ちを伝えるのにこれじゃいけないな」

 佐疫さんは被っていた帽子を取ると、またしても真っ直ぐな視線を向けてくれます。その後聞こえた言葉に、私は耳を疑いました。

「――名前さん。俺を選んでくれませんか」

 まあ、なんて単純な女なのでしょうか。その言葉だけで、私の胸はいとも簡単に高鳴ってしまったのです。ああ、もしかすると、名前を呼んでくれるなら誰でも良かったのでしょうか。きっとそうではありません。
 それにしても、私は名乗っていませんし、この学校でも、おそらくあの世でも、『闇のマリア』として通っているはずです。それでは、何故? それを私の表情から読み取ったのでしょうか。佐疫さんは続けて口を開きます。

「『闇のマリア』って呼ばれていたからそう呼んでいたけれど、君の本名はここに任務に来る以上調べる必要があったから知っていたんだ。黙っていて悪かったね」
「いえ……」
「それに、見るからに日本人なのに、マリアさん、だなんて違和感があったから」

 なるほど、今の衝撃の連続が腑に落ちました。いいえ、実際には腑に落ちきっていないところもあります。そう、私のことを好きだということ。
 冷静さを保てているでしょうか。きっと保てていないでしょう。彼の眸すら直視することが困難なのですから。名前を呼ばれる。そのあの世へ行くための一つの目標は呆気なく達成されてしまいました。
 それに、このまま彼の告白とやらを受け入れてしまえば、無事にこの世を離れることができてしまう。

「その、……俺を選んで、と言うのは」
「遠回し、だったかな……こういうの慣れてないから」

 私をあの世へ連れていくための冗談、という考えは、この彼の一言で散ってしまいました。仄かな明かりの中でも、彼の眸の色と、これだけははっきりわかるのです。彼の顔が、頬が、髪からわずかに覗く耳が、赤く赤く染まっていました。
 私から、相手の方に触れるのは初めてでした。
 彼の頬に手を添えてみると、私にまで熱が伝わってくるようでした。

「……好きだよ、名前さん」
「どうして。会ったばかりです、私たち」
「君はそうかもしれないな。けど俺は前にもここに来たことがあるんだ」

 今もなお、彼の頬に添えている手は、どうしてでしょう、退けようとは思いませんでした。どこか冷たさを感じるようで、でも確かに熱を持っています。
 佐疫さんは、以前この学校に亡者を送るために来たと言いました。そのときに、私を見たのでしょう。

「あのときも、君の顔を見ることはできなかったけれど、君が亡霊たちに優しさを向けているところを見たんだよ」
「……それから?」
「あとは、どこか辛そうな君の姿」

 ああ、きっと、まだあの人を引きずっていたときですね。生死すらわからないあの人のことを恨みつつも、想いを寄せていた、いえ、想いを寄せていたと思い込んでいた時期でしょうか。何故言い直したか、なんて、言うまでもないでしょう。あの人への想いがないことに気がついたのはついさっきですから。

「それで、無事に亡者を送って獄都に帰ってからも、君の姿が忘れられなかったんだ」
「……そんなの、」
「それで、またここに来る機会があったから、俺が任務を引き受けた」

 佐疫さんは、下心がないと言えば嘘になる、なんて笑ってみせました。どうやら、私のことが気になった彼は、この学校について独自で調べたそうです。もう何十年も前の、私の訃報が報じられた記事を見て、私の名前と、生前の顔を知ったそうです。生前の顔と今の顔はまるで変わっていませんが、彼の言う「顔を見ることができなかった」というのは、この姿になってからの私を直接、ということでしょうか。

「そうだね……きっとこれは恋なんだ。それとも、恋と言うには不十分かな」
「……私に聞かれても、わかりません」

 もう、この時間なので、賛美歌も、パイプオルガンの音も聞こえません。私と、目の前の佐疫さんの声だけがここに存在する音なのです。それと、私の心臓の音。亡霊だというのに、心臓の音が大きく鳴っている気がします。これはその通り、気のせいなのでしょうか。それとも、気のせいでないのでしょうか。私にしか聞こえない幻聴なのかもしれません。けれど、私は目の前の佐疫さんに聞こえてしまっているのではないかと不安に陥るのです。

「わからないですが、……私の鼓動がうるさいのです」
「……それって」
「あ、貴方のことが好きだとは限りません! 貴方も私のことなんか好きでなく、雰囲気に流されているだけかもしれない……」

 思わず、ベールで包まれているにもかかわらず、佐疫さんの頬から離した手で顔を覆います。そんな私を見て、目の前の彼はどのような表情をしているのだろう、と薄いレース越しに覗きます。佐疫さんは、これまで私に愛を伝えてくれたどの人よりも、優しい眼差しを向けてくれていました。そんな表情をされてしまうと、認めざるを得なくなってしまいます。私も、貴方のことを好きだということを。

「……佐疫さん」
「うん」
「私も、……好き、かもしれない。……から、あの世に、連れて行ってください」

 私って、こんなにも照れ屋だったのですね。まるで率直な言葉を向けることが難しいのです。それとも、好きな人を目の前にしてしまうと、誰しもこうなってしまうのでしょうか。これで彼に、私の今感じている気持ちが伝わったでしょうか。
 恐る恐る、彼を見上げます。ああ、未だにその優しい表情を向けてくれるのですね。生前愛したあの人は、私にこんなにも素敵な表情を向けてくれたでしょうか。

「名前さん、退けてもいいかな」
「……ええ」

 彼はわざわざ許可をとってくれました。何をするための許可かと言いますと、私の顔を隠すベールを退けるための許可です。私は今、他人に見せることのできる表情をしているでしょうか。そんなことを気にする間もなく、ゆっくりと、視界がひらけていきました。
 今日何度も見た眸は、今日一番綺麗に映りました。次第にそれもぼやけていくので、ああ、嬉しさでしょうか、私自身が涙を流していることに気がつきます。何十年も呼ばれてこなかった私の本当の名前を、目の前の人は呼んでくれた。そして、私に好意を寄せてくれた。なんという奇跡でしょう。いいえ、縁という言葉の方がよく似合います。

「これが吊り橋効果なんかで、もし冷めてしまうものなら……私はまたこの場所に帰ってきますからね」
「うん。そうはさせない」
「……好き、好きです。佐疫さん」
「……嬉しいな。俺も、名前さんが好きだよ」

 今度は佐疫さんが私の頬に手を添え、流れる涙を拭ってくれるのです。まるで、やっと目が合ったね、なんて視線を向けてくれて。
 聖堂の、薄暗い壇上。冷たい石畳と、赤いベルベットを僅かに照らす、いつもよりはっきりとした月の光。壁一面ともとれる窓から射し込む光が、ステンドグラスの加減で、花明かりのようにも見えます。蝋燭の火は未だ消える気配がなく揺らめいています。

 私たちは、まるで教会のような、この場所で。この壇上で。どちらともなく、誓いの口づけを交わしました。