その玫瑰が愛おしい
「あー……」
だるいし、だせぇ。
この症状だと、回復にはあと数時間はかかるってところだろう。というか、まあ、回復以前の問題か手足が痺れて動けない。あまりにも、予想外だった。
亡者は冥府に送った。随分強情だったが、俺一人で十分だった。けどまあ、気の緩みが命取りだったな。気の緩みって言うか、浮かれてたのか、俺。
「動けねぇな」
誰に届くわけでもない言葉を口にしてみる。動けない原因は簡単だ。劣化だったのだろう。任務を無事に達成して、獄都に帰ろうとしたときに、シャンデリアの下敷きになってしまった。獄卒は死なない。そんなことはわかりきっていることだ。それよりも今、この状況をどうやって抜け出すかを考えなければならないだろう。急所を避けて落ちてきたはいいが、何せ抜け出せない。抜け出せないものなら、回復のしようがない。ツルハシにさえ手が届けばなんとかなるかもしれないが、右手を伸ばして地に這わせど、どうやら届く範囲にないらしい。肋角さんに俺一人で十分な任務って言われたから、油断したな。下手に動くと飛び散った破片が刺さったりもするだろう。既に出家しているし、あー、この感じだと左腕も軽い骨折くらいはしてるだろうな。
一度目を閉じて、瞼の裏に自然と焼き付くのは苗字、あいつの姿だ。
『無事帰ってきたらデートだからね!』
何年獄卒やってると思ってんだよ。つい失笑してしまいそうなくらい、あいつは心配症だ。それとも俺だから心配してくれるのか、あいつは。けどまあ、無事に帰れそうにない、というか、時間がかかるだろうから、朝までには帰れねぇだろうな。苗字も浮かれて、化粧をしてお洒落して、俺を待っているのだろうか。
『田噛田噛、どっちが可愛い?』
『あー、こっち』
『わかった、じゃあこっちにする』
『女って大変だな』
思ったことだからそうは言ったけど、俺のためにそんな大変してくれているんだから、これ以上に嬉しいことはない。あのときの苗字のむくれた顔が、可愛かった。俺のために悩んで、準備してくれる苗字が、可愛い。
死ぬ間際みたいに走馬灯が襲ってくるが、もちろん死んだりはしない。苗字との楽しい思い出ばかりが脳裏を駆ける。苛立ちを覚えてしまいすらする状況だが、次々と頭の中に流れ込む記憶が心地良くて、当分抜け出す気にはならなかった。
『やる気さえ出せば何でもできるのに』
その通り、俺はやる気になれば今この状況を脱することだってできる。何より、苗字との約束を守るためには一刻も早くこの状況を抜け出さなければならないのに、身体が動かない。
ああ、きっと、これはやる気の問題じゃないんだろうな。やっぱり誰か連れて来れば良かっただろうか。
せめて絆創膏の一つでも、と思ったが、俺は絆創膏を持ち歩いたりしない。何せ今回は特に、持つ必要がない任務だと感じたから、ツルハシと鎖以外の何も持っていないのだ。
「鎖……も駄目そうか」
左腕の中でじゃら、とわずかに錆びた鎖が音を鳴らすが、骨折した腕では上手く操作できないだろう。心配すんな、なんて言ったが、もし苗字がこの無様な光景を目にしてしまえば、どういう反応をするだろう。
だるいな。すっかり口癖になってしまったそれを、何気なく口にすると、再度瞑想に耽るかのように、瞼を閉じた。
「――っ!」
遠くで声が聞こえる。ぱたぱたと軽快な音までおまけでついてきている。それが怪異であれ人間であれ、悪いが目を開けてまで確かめる余裕なんて持ち合わせていない。
「――み! 田噛!!」
どこかで聞いたことある、いや、聞きすぎた声だな。この声を俺は知っている。知っている、なんて言ったら失礼なくらい。その声が近づいてきて、やがて、ぐしゃ、と音が聞こえた。大方シャンデリアの破片が潰れた音だろう。さらに粉々に、俺に刺さったらどうすんだよ。
目を開けなくても誰がいるかなんてわかる。何でここに来たんだよ、なんて思ったりもするが、あいつのことだ。俺のことを想って来てくれたんだろう。相変わらず、俺にベタ惚れの困ったやつだ。
「――落ち着け、苗字」
目を閉じたまま、おそらく目の前にいるであろう女を宥める。涙声なんだよ、苗字。無事に帰れてはいないが、そんなに泣かなくても俺は、俺たちは死なないんだ。俺の声を聞いたのか、苗字は軽く息をついて、破片が刺さるとかそういうのを気にせずに、多分膝をついてるんだろうな。近くに苗字を感じるから、きっと、そうだ。ほっとしたのか、俺の右手を柔く小さな両手で包んだ苗字は、大きく息を吐いた。ああ、これから苗字が起こす行動は考えなくともわかる。
三秒だ。三秒後に、俺の何より近くで鈍く大きい音が響いた。硝子が割れる音が、破片を足で踏んだときよりも大きく、鮮明に聞こえる。同時に、俺にのしかかっていた重さも消えた。相変わらずだ。平腹や俺、谷裂と違うんだから、こんな無茶はしなくていい。しかしまあ、俺を想っての、火事場の馬鹿力と言ったところか。普段の苗字からはとても想像できない力だ。
「は、強ぇな」
「田噛……」
思わず笑みすら零れてしまうのだが、そんな俺とは反対に、目の前の女は嗚咽を漏らしながら、俺の名前を呼んだ。きっと目を開けると、苗字の涙に濡れた眸を見ることができるのだろう。今の俺には、とても眩しい。だからあえて、それを見ないという選択をした。
俺の手をそっと包んで、それから俺の上に落ちてきたシャンデリアを除けたその手で、今度は俺の頬に手を添えた。
「待って、すぐに回復、そうだ、包帯持ってき――」
そんなものより俺は、苗字をもっと直に感じたかった。苗字が欲しかった。薄目を開ける必要もなく、添えられた手から腕、首、今度は苗字の頬を辿り、後頭部を押さえると、自身の方に引き寄せた。この段階で、やっと瞼を開けると、間抜け面。涙に濡れた頬に、大きく見開いた、お前が綺麗綺麗と褒めてくれる俺のものより余程綺麗な眸。
その驚いた表情も束の間、苗字は大人しく俺に倒れ込んできた。俺を気遣ったのか、やんわりと。構うな、といったように、さらに苗字を引き寄せる。苗字だって俺たち獄卒が手っ取り早く回復する条件はわかっているだろう。包帯や抹本の薬よりも、こうして口付けを交わして得られる興奮や快感の方が余程回復には役立つ。苗字の体重がかかるも、つい今しがたまでのしかかっていたものより甚だ上質だ。見開かれていた眸は、徐々に薄く、そしてついには睫毛を伏せ、俺の胸に手を置いた。金臭い味を共有することも厭わずに。心做しか、骨折した腕も、破片が刺さって出血していた腹も、痛みを感じなくなっていた。愛の力は偉大だな、なんて臭い台詞も、心の中なら許されるだろう。
音を鳴らして離れると、水を含んだ薔薇色の唇が妙に際立った。いつもと違う色だ。ああ、見覚えがあるな、この色は、
『この口紅はね、』
『あ?』
『田噛が似合うって言ってくれたから、特別な日につけるんだ』
苗字は俺が気づいていることに気づいているだろうか。俺がそんな些細な会話を覚えていることに、気がついているだろうか。適当な、ただの面倒臭がりの男だと思っていたら大間違いだな。もうすっかり痛みを感じなくなった上半身を起こすと、今度は苗字の背に手を回し、苗字と目線を、やっと合わせた。
「苗字」
「! なあに、田噛」
「似合ってる」
そう言うと驚いたようにまた、目を見開いて、せっかく起き上がった俺を、また押し倒す。
「もっと先に言うことがあるんじゃないの」
そう言いつつも嬉しさが隠しきれていないその表情に、愛らしさを覚えて、また彼女の頭を撫でた。痛みなんてものは心地良さに変わってしまっていて、大きな窓から覗いていた曙光は、彼女をより鮮麗に照らしていた。