夢と現実の狭間で燐光を見る

 八月二十八日。私は夜の校舎を一人で歩いていた。どうして、夏休みだというのにわざわざ学校に行って、いや、そこは百歩譲って提出物やら先生への用事やらという考えがあるが、何故夜に一人で歩く羽目になっているのだろう。私には思い出せなくて、リュックサックにつけた、中学のときに親友に貰ったお土産のキーホルダーの音と、上履きと廊下の床が擦れる音だけが響いている。

「何、ここ……」

 空間が歪む。ぐるぐる回って、歪んで、溶けきらない。この廊下って、こんなに長かったっけ。階段って、どこだっけ。非常口の緑の人も、そこにいない。こんなところ、私の知っている学校じゃない。私の知っている場所じゃない。だって、あれ、さっきまで外ってこんなに暗かった? そもそもさっきっていつ? 気がつけば、私は廊下を歩いてて、今に至る。頭は恐怖に支配されているのに、身体は恐怖の通り動いてくれない。ゆっくり、一歩一歩を踏みしめるかのようにして、歩き続ける。

「…………ちゃん」
「……?」

 音の少なかった世界に、新たな音が足された。いや、音というか、声だ。どこから聞こえてくるのだろう、と左右を見渡すが、相変わらずの歪んだ空間だけが広がっていた。誰か、いるの? 私以外に、誰か。

「名前ちゃん」

 一回目よりも明確に、声が聞こえた。私の名前だ。私の名前を知っている人。けれど、聞いたことのない声だ。子供みたいな、大人みたいな、そんな声の主は、明らかに後ろにいる。その私を呼ぶ声に釣られて、私は後ろを

 ☓☓☓

「……っはあ、」

 目覚まし時計が五畳の部屋に響き渡る。毎日飽きるほど聞いている音だ。もう聞き慣れてしまっているから、あまり意味を成さない音。冷房をつけているにもかかわらず、汗で額や首元なんかがべたつくのは、布団をすっぽり被って寝ていたせいだろうか。
 デジタル仕様の時計から鳴る、電子音を止めると、今日の日付を寝ぼけ眼のぼやけた視界の中で確認した。

 八月二十八日。どこかで見たような、聞いたような、そう、つい今さっきの話だ。今日の日付を表す、何ともないはずの数字に思わず顔を顰めた。例年の今日なら、もうすぐ夏休みが終わってしまう、だとか、提出物の進捗だとか、そういったことに顔を顰めていただろうが、今年はどうやら違うみたいだった。
 何だ、あの夢は。とても現実味を帯びてはいなかったが、夢の中の日付と、今日の日付がリンクしてしまっていることに、どこか不気味さを感じてしまう。あの夢の終着点はわからない。何があって学校にいたのか、とか、結局私を呼ぶ人は誰だったのか、とか。けれどまあ、夢なんてそんなものだ。現実との対義語に位置するであろうものなのだ、夢なんて。

「嫌な夢……」

 寝返りをうって、もう一度目を閉じる。課題は終わっているし、特に予定もない。それにまだ起きるには早い。小学生がラジオ体操をしに公園に行くのだろうか、自転車のベルを鳴らす音と、活発な声が窓の外から聞こえる。朝の空気って、昼や、涼しくなった夜よりも、澄んでいる気がする。特にこの時期だと、この時間帯が。そんな声を、音を、清々しい空気を遠くに、また夢に落ちた。

 夢に、落ちたかった。

 見た夢が、頭の中にちらついて、どうもその気になれない。こんなの初めてだ。大体嫌な夢を見たあとは、また眠りについて、忘れて、すっきりとした状態で目覚めを迎える。けれど、ああ、こんなの初めてだ。眠れない。忘れられない。
 そうしているうちに、ベッドでただ寝転んで頭を空っぽにしようとしているうちに、消えていった子供たちの声が、再び耳に飛び込んで、カーテンの隙間から差し込む光は、いっそう強くなって、それが思ったよりも強烈だったから、布団を頭まで被った。

 そうこうしていると、あっという間に数時間。すっかり覚醒してしまった。
 仕方がないので、生活リズムが狂ってはいけないから、と自身に言い聞かせて、私をすっぽりと覆っていた布団を剥いで、お母さんが仕事に出てしまったであろうリビングへと降りていった。

「……マジ」

 口から無意識に零れた言葉の原因は、机の上に用意された朝食の隣に置かれた正方形の紙に、紛れもなくお母さんの字で書かれた内容だった。

『学校の先生から電話がありました。今日のお昼以降に原稿を持って来るように』

 原稿、というのは、夏休み明けにあるスピーチでの原稿だ。一度は見てもらっているものの、その発表の場が近いのもあり、私の練習も兼ねた最終確認といったところだろう。あんな夢を見たから、断りたい気持ちもあるが、そんな根拠のない夢一つで断るなんて、失礼なほかない。それに、私としても、せっかく提案してもらっているのだし、発表に向けての不安だってあるのだから、ぜひ行きたい所存ではある。
 きっと、何もない。これまでだって、危険なフラグを立ててしまってもそれを回収するようなことはなかった。だから今回も、きっと気のせい、悪い夢だった、ということだけで終わるに違いない。

 ☓☓☓

 ちょっと待ってよ。

 冷や汗がみるみるうちに噴き出てくる。廊下って、こんなに長かった? 確か私、先生とスピーチの練習をして、しかもそれだって小一時間で終わったはずだ。伝言通り、お昼過ぎに家を出て、空き教室を借りて練習して、水分補給を忘れずにね、という言葉を最後に先生と別れて、でもあのときはまだ夕焼けすら見えない、明るい時間帯だったのに。

「なんで、こんなに暗いの」

 辺りはもう、夜の帳に包まれてしまって、いや、夜と言うよりこれは、闇。窓の外に広がっていたのは、闇だった。昨日は半月だった、その影なんて存在しない。隣の校舎も、見えない。グラウンドや自転車庫を照らすはずの街灯も、姿なんて見当たらなかった。
 静寂だ。これまでに経験したことがない、これがきっと、本当に静寂なのだろう。強いて言うならば、リュックサックにつけたキーホルダーが揺れる音と、上履きが床と擦れる音。それと、緊張感溢れる息遣いの音。夏の終わりというには、不自然な程に生温すぎる空気が肌を撫ぜた。気持ち悪い。気持ちが、悪い。
 夢の中みたいに、空間がぐるぐると回って、歪むことはないし、非常口のピクトグラムだって、そこにいる。夢で見た光景とはわずかに異なっているものの、気味悪さは、夢の中に勝っている。

 夢の中では、この後何が起きたっけ。

 確か夢の中では、

「…………ちゃん」

 ひゅ、と息を呑む音が、聞こえた。聞こえた、というか、その音を鳴らしたのは、私だ。もしかすると、これも夢かもしれない。そうだ、そうだとしたら、合点がいく。それなら、次の言葉を待って、振り返れば、きっと目が覚める。また、現実に戻れる。うん、少し、安心した。
 一度目の呼びかけでは振り返らずに、新たに加わった足音と共に、私も前方へと進む、進む。目の前の空間は歪んでいないけれど、きっと、そうだ。

「名前ちゃん」

 朝の夢で聞いた声と、同じ声だった。子供みたいな無邪気な声と、それと反対に大人びた、それから、高音と低音が共存するような、そんな声。それの正体も、純粋に気になるものであるし、いずれにしても、この状況を脱することができる。大丈夫だ。もう一度呼ばれた声に、数拍置くと、私は後ろを振り返って――

「振り返るな」

 後ろを向いたはずの私の頭は、身体と同じ正面を向いていて、それより、眼前に広がるのは暗がりだ。先程までも、確かに闇が広がっていたが、それはこの校舎の外の話。かろうじて廊下を照らしていた緑の光も、消えてしまった。暗がりよりも、何よりも、この目元の違和感は、感触は、

「振り返らず、真っ直ぐ走って」

 耳元で響く中低音。そこに匂いはなかった。きっと、この視界を塞いでいるのは、声の主の手だろう。温かいはずなのに、どこか冷たい手。穏やかな声色だけれど、どこか緊迫感も感じた。夢の中でも、聞いたことのない声だ。信じられないけれど、きっと何か普通じゃないことが起こっていて、名前も姿も知らない人に、逃げるように言われる事態なのだ。

 これは、夢じゃない。

 私は、私の目を塞いでいた知らない人の言葉に頷くと、その人はゆっくりと手を離した。次第に視界は明るくなっていくが、それでも暗い。そんなことを気にする余裕などなく、警鐘のように鳴り響く心臓の音と共に、私は走り出した。走っても走っても、廊下の突き当たりにも、階段にも到達することはできないけれど、それでも私は、走り続けた。息も絶え絶えに、早く止まって、振り返ってみたい。私に忠告をした人も、夢に出てきたものと同じものも、気になるから。だって、気にならない方がおかしいじゃない。それでも私は、走った。走り続けた。途中で聞こえた鈍い銃声のような音を気にも止めず、気に止める余裕なんてなく、私は、走り続けた。

 どのくらい走っただろう。きっと、体感よりも短い時間だ。数分、いや、もしかすると数十秒だったかもしれない。けれど、恐怖に駆られる私にすれば、長い。酷く長い時間に感じられたのだ。つい止まってしまったのが合図かのように、辺りが明るくなった。青空から、闇から、今度は夕焼けだ。ツクツクボウシの声が聞こえる。
 きっと、もう、大丈夫だ。全身の力が抜けて、膝から崩れ落ちる。リュックサックの肩紐が、するりと落ちて、音を立てて私と一緒に地面に崩れ落ちた。

「……はあ、……なんなの、一体」

 日が当たって、温い床に手をつくけれど、普段はうざったいはずのその温度がどうしてだろう、心地良かった。何より、安心した。私の知っている学校だ。私の知っている、世界だ。身体の後ろに手をついて、へたり込んだまま、呼吸を整える。吸って、吐いて、吸って――

「落ち着いた?」
「うわあっ!?」

 深呼吸をしている私を後ろから覗き込む影に、既に抜けている腰がさらに抜けた。けれど、その声の正体がわかると、少しだけ安心した。そもそも彼が敵か味方かも、わからないが。恐る恐るではあるが、優しく声をかけてくる、その影が伸びてきたのと逆方向を振り向くと、第一印象として強く根付いたのは、目だ。奇妙なことに、ターコイズブルーが不自然な程に光っている。
 目の前の男――青年の姿を、上から下までまじまじと観察してみる。カーキ色の帽子と、お揃いの制服。それから、この時期にはとても暑そうな外套。見ているだけで、汗が出てきてしまいそうだ。言うまでもなく、うちの学校の制服ではない。その帽子には、目のような形の金属の飾りがあしらわれている。じっくりと見られているのが珍しいのか、青年は人間離れした綺麗な目を丸くして、ぱちぱちと数回瞬きをした。

「ご、ごめんなさい。……まだ状況がいまいち、掴めてなくて」
「謝らなくていいよ。うん、そうだろうね」

 青年は微笑んで、座り込んでしまった私に、外套の中から手を差し出してくれたので、年頃の私には少し恥ずかしかったけれど、素直にその手を取った。

 ☓☓☓

 屋上までを繋ぐ、人通りの少ない階段の踊り場に腰かける。夏休みの今、人通りなど関係なく、ただただ階段は夕焼け色に染まっているだけであった。それが、今は落ち着く。

「夢を見たの、私」
「夢?」
「さっき起こったことと同じ夢」

 予知夢だろうか。それとも天からの忠告? 少し違うところはあったけれど、それでも、同じ内容だった。暗い校舎を彷徨うところも、なかなか出口に辿り着かないところも、知らない何かに声をかけられるところも、重要そうなところはすべて同じだ。今さっき会ったばかり、認識したばかりの人なのに、この青年には、何故だろうか、関連づいているかもわからない夢の内容を話してしまう。喉から自然と、出てきてしまっていた。
 少し時代を感じる制服に身を包んだ彼は、それを黙って、頷いて聞いて、終いには私を安心させるように、背中を軽く叩いた。

「あれは怪異だ」
「怪異……」
「信じられないかもしれないけど、『くろづめ』と言ってね。八月二十八日に夜の校舎に現れる怪異だ。その標的が偶然にも君だった」

 信じられなかった。怪異とか幽霊とか、現実離れしすぎているから。けれど、信じざるを得なかった。さっき経験したことが、何より信じざるを得ない理由を作り出していた。
 どうやら先程の怪異は、声をかけられて後ろを振り向いてしまうと、死んでしまう。そんな怪異らしかった。だから目の前の青年、名をサエキさんと言うらしい、彼に目を塞がれていなければ、忠告を受けていなければ、私は今頃――

「……助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして。これが俺たちの仕事だ」

 震える私の背中をまたしても軽く叩いて、さすってくれる。不思議な感覚だ。お母さんや友達に触れられるのと、まるで違う。一体彼は、何なの。どうやって、その怪異を撒いたの? あの怪異はどうなったの? もしかして、倒したの?
 聞きたいことは山ほどあったけれど、今はとても聞く気にはなれなかった。恐怖心とか不安ももちろんあったけれど、それ以上に、まあいいか、なんて思ってしまったからだ。

「ねえ、名前」
「名前、……あ、何?」

 突然名前を呼ばれたことに驚いたのは、サエキさんには名乗ってもらったものの、私からは名乗っていないからであったが、先程の怪異が私のことを名前で呼んでいたために把握している、といったところであろう。

「落ち着いて聞いてほしいんだけど……君はきっと、これからも怪異をおびき寄せる」
「……えっ?」
「そういう何か、家系的なものだろうね。君からはそういったものを集める力を強く感じる」

 その、まったく予想していなかった言葉に心臓が跳ね上がる。また今日みたいなことがあったら、あろうものなら、耐えられない。今日は偶然サエキさんがいたからいいものの、今度はどうやって回避すればいいのだろう。サエキさんは、身体を震わせて、どうしようもなく涙を堪える私の手を優しく包み込んだ。これまた、安心させるように、優しく優しく。はっとして俯いていた顔を上げると、柔らかいサエキさんの表情だ。あまりの優しさに堪えていた涙が零れそうになるが、ぐっと飲み込んで我慢をした。

「大丈夫。きっとそのときは、今日みたいに夢の中で忠告があるだろう」
「あ、そ、……でも、それがわかっても対処なんてできっこない……」
「うん。だから、おまじない」

 サエキさんは私と顔を合わせると、手に四つ葉のクローバーの入った小瓶を握らせた。幼い頃に摘んだ四つ葉のクローバーと違って、萎れる気配もなく、みずみずしさを保っている。どうやら、そういう魔除けやら薬草の扱いやらに長けた知人がいるそうで、これを持っていると効果が高いのだという。気休めにしか見えないでもなかったが、それでも信じたかった。
 ありがとう、小さく呟くと、またサエキさんはお決まりのように柔らかく微笑んで、今度は私の髪を撫でると、額に軽く唇を寄せた。それの意味がわかった途端に、顔が沸騰しそうな程であったが、おまじないの延長だろう。不安や恐怖はほとんど消え去っており、勇気が湧いてくるほどであった。

「名前なら大丈夫」
「……うん」
「もしまた危ない目に会っても――」

 絶対に俺が助けに来るから。

 そう言うと、サエキさんは、印象的な青い光を残し、私の前から姿を消した。まるで夢だったのではないかと思うほど、不思議な時間だったけれど、私の手に握らされた小瓶が、今度こそ絶対に夢じゃないと教えてくれた。