舌先から染み込む凪

 学校の近くの踏切は、危ないから一人で渡らないようにしましょう。
 学校の近くの踏切は、夜には渡らないようにしましょう。

 高校に入って、第一に担任に言われたのは、この言葉。入学式で校長に言われたのも、この言葉。口頭だけでなくて、昇降口にも、長年の間書き直された気配がない貼り紙があるので、昔から変わらず生徒の安全に配慮しているのだな、と考えると同時に、高校生にもなって、馬鹿にされてる? そう、強く思った。そう思うのが、普通の高校生ならば、普通の感覚だろう。

 四月の上旬は、登下校の度にそれが目に入り、ああ、馬鹿らしい。そう考えるのが日課となりつつあった。もしかすると、入る高校のレベルを間違えてしまったんじゃないかって、そう思うほど。私ら舐められてんのかな。友人にそう言うと、笑いながら聞き流されるだけで、でもまあ、この学校の生徒の大半がそう思っているはずだ。
 四月も下旬に差しかかると、目に入ってくるそれは当たり前の光景となり、昇降口という風景に馴染みすぎていた。馴染みすぎていて、微塵も気にならなくなるくらいには。ボロボロの紙に書かれたそれが、去年改修されたばかりの校舎に溶け込んでしまうくらいには。それでも、

『あの踏切は誰かと一緒に渡るように』

 毎日のホームルームで二度も聞かされるそれは、相変わらずだった。もはや、おはようとさようならの挨拶代わりのようになりつつあった。
 呆れてもいいはずであるが、同級生も、先輩たちも、律儀にそれを守ってなのか無意識的になのか、一人で渡っている人を見たことがない。一人で渡っている人もいないではないが、決まって周りに人がいる時間なので、一人かと問われれば、完全に一人ではない、といるのが解になる。昇降口の貼り紙の具合を見ると、この学校の決まり文句のようになっているのだろうか。完全下校の時間も設けられているし、大抵は部活の友達なんかと下校するから、一人になることがない。一人になることがなかった。

 ☓☓☓

「苗字さん、ごめんなさいね。こんな時間まで」
「いえ、私もわからないとこあったんで良かったです」

 貼り紙を鼻で笑っていた時期から早半年、いや、半年以上が経ってしまって、日も短い。六時ともなるとすっかり暗がりで、夏場はまだまだ明るかったのが信じられないな、とこの時期になると毎年のように感じるのだ。
 柄にもなく後期のクラス委員長になってしまった私は、体調不良の男子委員長の分の話も先生に聞くことになり、現在職員室にいるということになる。この学校では不真面目な方に分類される私が、どうして委員長になってしまったのかは私も疑問であるが、まあ選ばれてしまったものは仕方がない。

「お友達とか待ってる?」
「は、……あー、はい。一応待たせてます」
「なら良かった。一人で帰らないようにね」

 もちろん、嘘ですけど。一応完全下校の時間まで、あと五分くらいはあるけれど、一応にも程があるほど、一応だ。そんなの友達なんてもうとっくに帰ってしまっているし、けれどこの学校の徹底ぶりだ。もし「一人で帰ります!」なんて言ってしまった場合には、小うるさく注意されたり、もしかすると先生が家の近くやバス停まで送ってくれる、なんてこともあるかもしれない。それに、今日は週末だから、決まってバス停近くのコンビニに寄ってアイスを食べる、これは譲れない。あとは単純に面倒なのが大部分で、咄嗟に嘘をついてしまったのだ。

 外への扉を開けると、一気に空気が冷たくなり、さっむ、なんてつい声に出してしまうほどである。マフラーを巻き直して、ああ、耳あても欲しいくらいだけど、それは流石に学校で浮いてしまうかもしれないから、手を白く曇る息で温めてから耳に当てた。

 周りに人がいない状態で帰るのって、初めてだ。

 等間隔に配置された街灯が、コンクリートの地面を照らす。それに合わせて、私も姿を現したり、消したり、現したり、繰り返す。なんだか、誰もいない、たった一人だけの帰路にテンションが上がってしまっているみたいだ。ついつい軽い足取りで、校門を出て、いつものように右に曲がる。どうしてあんなに学校では、一人で帰ることに対して圧力をかけるのか、とかより、すっかり寒くなった今日食べるアイスは何味にしようかな、そんなことが頭を支配するのだ。今の時期は、チョコレート系とかボンボン系が美味しい時期だし、とスマホの画面で行きつけのコンビニ限定アイスのページを眺めながら歩いていると、目の前で赤い光が点滅した。

 カンカンカン。赤い光の点滅と同時に、不協和音が鳴り響く。いつの間にやら、目の前には毎日通る、‪学校でも毎日話を耳にする、踏切があった。でも、踏切に引っかかるのなんて、いつぶりだろう。田舎で電車が少ないからなのか、ここの踏切に足止めを食らうなんてことはそうそうない。
 カンカンカン。ああ、確かにこの暗い、線路沿いに置かれた街灯と踏切自身を照らす街灯、そして赤の光以外何もない、それからこの音は、一人で横断するには不気味だ。でもここから少し歩けば、田舎の中でも栄えた方に出るし、何ら問題はない。

 なかなか来ないな、と思って左右を確認したとき、右から電車の照灯が見えた。流石は田舎、二両編成。こちらへと向かってゆったりとした速度を保った電車を照らすはずの街灯は、ちかちかと明滅して、ついには切れてしまいそうなほど、頼りない光だった。私の前をゆっくりと通過する列車は、田舎だけど、この時間帯もあって、隣の高校の生徒たちだとか、会社員だとかが、座席に座っていた。あと二つ隣の駅で待ち合わせをしたら、左側からも列車が来るはずだ。まあ、その頃にはもうバスに乗っているだろう。
 耳を劈く、不気味な音が消えていくと同時に、遮断機が上へと上がっていく。やっとだ。そう思って、地面で汚れるとかを気にせずに、気にしていたら田舎でなんてやっていけない、地面に置いていたスクールバッグを肩に掛け直すと、踏切を渡った。渡ったのに。渡り始めた、のに。

「……は、」

 一歩、二歩踏み出して、この時期の寒さとは違う、全然違う、寒気だ。身の毛がよだつとは、このことだろう。足がすくんで動かない。この数メートルを渡って、それから、もうちょっと歩けば、アイスが待っているのに。バスだって、あと十五分もすれば、到着するはずなのに。いつもと同じ、帰り道なのに。私の意思と反して、動かない。
 その中で、気配を感じなかった。足音なんてなかった。でも、誰かいた。誰か、いた。いや、“何か”だ。私の右側に、“何か”いる。
 足は、身体は、動かないのに、目線だけは、動かせる。視線を右側に移すと、それがいた。それが、いた。

「ひっ……」

 明滅して、今にも消えそうだった街灯は、タイミングを見計らっていたかのように、バチン、と音を立てて消える。その中でも、それの姿はよく見える。
 首から上が、ない。首から上がないのに、まるで見えているかのように、こちらへと真っ直ぐ向かってくる。私の姿を捉えたかのように、真っ直ぐ、ゆっくりと、着実に。

 どうしよう、逃げなきゃ。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ。頭の中はそればかりが支配する。後退りすると、当然そこは線路だった。しまった、選択を誤った。本来冷静に考えれば、そのまま踏切を横断して、走って、コンビニやドラッグストアに助けを求めればいいだけの話だ。いや、でも、こんなこと誰も信じてくれないか。
 危機的状況に追い込まれたときこそ、思考がよく働く。よく回る。すべてがスローモーションに感じる。なのに、腰が抜けて動けない。私の目の前にいる化け物は、首のない化け物は、両腕を伸ばして歩み寄ってくる。

「あ、あげない!」

 目の前の化け物が、首のない男の姿を見た化け物が手を伸ばしているのはきっと、首が欲しいからだと推測した、首を両手で押さえた私の口から出たのは、駄々っ子のようなそれだった。もちろんそんなことで止まってくれるはずなんてなく、少し離れたところにいた化け物は、私の目の前にいた。地面に座り込んで動けない私を見下ろすように、その首があるはずの部分から、血が滴り落ちる。生温い液体が、私の頬に落ちる。

『あの踏切は誰かと一緒に渡るように』

 ああ、そういうこと。入学してからしつこいほどに言われていた言葉の意味を、この状況になってようやく理解した。なら、もっと早く言ってよ。でもまあ、このことを言われても信じなかっただろうな。きっと先生の中にも、意味もわからずに忠告していた人もいるんだろうな。アイス、食べれなかったな。

 すべてを諦めたように下を向いて、少しだけ呼吸を整えて、上を見た。化け物を見た。傍から見れば、死を覚悟したように見えるだろうか。実際、覚悟はしている。けれど、心臓は激しく動いて、手足も震えて、頭の奥でも死にたくないって言葉が響いて、覚悟なんてできていない。引きつる頬を、口角を、無理に上げて、そう、最期くらい笑わなきゃ。私は精一杯の笑顔を作って――

「鈍臭ぇ人間だな」

 少し遠くから聞こえたその声は、遠くのはずなのに、不思議と耳元に降ってきて、それが一体誰の声なのかを知る前に、目の前の首のない化け物の胸に何かが貫かれた。何ともグロテスクであるが、その上で化け物は、全身を鎖で巻かれて身動きが取れなくなった。その、とても私の身に起こっているとは思えない光景に、未だに立てずに腰を抜かしていると、私に言葉を放った者が、姿を現した。
 暗がりで見えにくいけれど、時代を感じさせるような制服に、化け物を貫いては抜かれたツルハシ。コスプレ? 田舎のヤンキー? そんなことを考えて、目の前の光景に呆然としていると、胸を貫かれた首のない化け物は、フィクションの世界みたいに粉々になっては、私の前から消えた。そのありえない、目前に広がる状況に、何度も何度も瞬きを繰り返していると、見覚えのない制服を身にまとった男が、こちらを振り返った。その顔は、帽子の下から覗く、前髪がかかった目は、こんなにも暗がりだというのに、自ら発しているかのように、オレンジ色に、妖しく光っていた。
 その男は、すっかり無理に作った笑顔なんて消えてしまった私の顔を見ると、あからさまに舌打ちをした。

「お前」
「な、なに?」
「鈍臭ぇな」

 何を言われるかと身構えていると、それはまさかの先程投げられた言葉と同じもので、思わず口が開いてしまった。それだけ放って、先程まで化け物に巻きついていた鎖を、袖の中にどういう仕組みだか収納すると、ツルハシを地面にコン、と音を立てて、自身の支えのようにした。その目には、相変わらず捉えられたままであった。私も不思議と、その目から視線を外すことができない。
 すると、男は、杖のようにしていたツルハシに沿って、未だ尻もちをついて動けない私と同じ目線に屈むと、手をこちらに伸ばしてきたので、咄嗟に目を瞑る。その手は、指先は、私の頬をなぞり、数分前に私に落ちてきた血液を拭ったのだと理解した。瞼を開けると、より近くに、妖しげな光を感じた。

「……助けてくれたの?」
「助けたつもりはない。怪異がいたから、掃除しただけだ」

 怪異。テレビの心霊特集や、小学生のときに図書館で一度は流行った本の中でしか聞かない言葉が、今、この状況になって現れる。男は、偶然俺が通りかからなかったら死んでたな、と呟いて、また舌打ちをわざとらしく鳴らすと、屈んでいた身体を起こした。夢の中や、作り話のような状況に、言葉のオンパレードであるが、普段なら信じられないことが、今なら何でも信じられるような気がした。それに、偶然この人が来たから良かったけれど、そうでなかったらきっと、いや、一度覚悟した通り、確実に死んでいた。今頃首なしの死体として放置され、後日ニュースにでもなっていただろう。

「……ありがと。助かった」

 偶然にしろ、助かったのは事実である。だから、この上ない感謝を、直接伝えるのはこの年齢になっても照れくさい感謝の言葉を伝えると、今度は舌打ちはしなかった。見たところこの男――ああ、助けてくれたのに、男なんて失礼だ。このお兄さんは、私より少し上くらいだろう。少年とは言えない、青年といったところだろうか。

「お兄さん、名前なんて言うの?」
「は? それ必要か?」
「態度悪……いや、一応、お礼とかもしたいし」
「いらねえ」

 この態度の悪さについ本音が漏れてしまったところであるが、助けてくれたので、指摘するほどでもないし、もともと指摘をするような性格でもない。しかし、お礼に関してはさせてほしいし、アイスのクーポンだってあるので、未だに踏切内に滞っていた私は、お兄さんのツルハシを持っていない方の腕を引いた。無理やり引っ張った。じゃら、とわずかに音が鳴り、尻目に見たオレンジ色の光は揺れていた。

 ☓☓☓

 買ってくるから待っててね、とコンビニの陰でお兄さんに釘を刺すと、最初はだるい、と言って帰ろうとしていたが、必死な私に折れたのか、またしてもお得意の舌打ちをして、外壁にもたれかかった。それを見届けて、アイスを買いに行っている間にどこか行ってしまっていないことを願って、店内に入った。
 史上最速でコンビニから出てきた私は、お兄さんに二つあるアイスの片方を差し出した。なんとそれは、世間も羨む、私自身も余程のご褒美にしか買わない高級アイスだ。当のお兄さんが顔を顰めているのは、ああ、多分、

「この時期にこんな冷たいもん食わすかよ」
「美味しいよ、冬のアイス。それ高いやつ」
「外で食うもんじゃねえ」

 予想通りの言葉だった。私は冬に食べるアイスがすごく好きなんだけど、一般的には肉まんやピザまんの方がウケがいいんだろうな、と思いつつ、袋からアイスを出す。隣にいたお兄さんも、なんだかんだでお高いアイスの蓋を開けているので、どこか安心した。無言で冷たい冷たいアイスクリームを食べ進める。私もお兄さんが私より大きなひと口で食べているアイスを少しでも貰いたいところではあるが、お礼だし貰うわけにはいかない、と棒アイスを齧った。

「それで、お兄さんの名前」
「あ?」
「あ、そっか。私は名前。苗字名前」

 自己紹介は自分から、とは昔からおばあちゃんに言われていたから、その教えの通りに自分から自己紹介をすることにはしているが、今日はうっかり忘れていたみたいだ。こうすれば、相手方の緊張も解けるし、とはよく聞いたものである。
 カラコンなのか、しかしとてもカラコンとは思えない発色の瞳は、カップアイスを持った手元を見ていたと思うと、私の自己紹介からの数秒の沈黙。女の子にだけ名乗らせて、なんて意地の悪いお兄さんだ、と思ったら、アイスを口に運んでから、その口を開いた。

「田噛」
「……ふ、なんで苗字。しかも結構普通」

 どんな名前が来るのかな、なんて期待していたら、存外ありきたりな苗字が口にされたので、ついつい笑ってしまうと、何言ってんだ、といった目で見られてしまった。田上なのか、それとも田神なのか。まあどちらにしろ、きっと書面なんかに記すときは来ないから、そんなことはどうでもいい。文句を言っていた割にアイスを食べ進める、その様子に嬉しくなってなのか、つい視線が釘付けになってしまっていて、付属のスプーンを口に運びかけていたタガミさんは、今度は、何見てんだ、と言いたげに私を見下ろした。

「ふふ、ごめん、タガミさんがアイス食べてるの嬉しくて」
「馬鹿にしてんのか?」
「まさかまさか」

 先程までの怖すぎる体験なんて、とうに忘れてしまっているように会話をする。けれど、忘れてなんていない。タガミさんとの会話の間に作られる沈黙で、私はあの光景をつい思い出してしまう。もう現れないし、タガミさんが助けてくれたから安心なはずなのに。夢に、出てきそうだ。思い出そうとしなくても、脳裏に焼きついて、気がつけば脳内で何度も何度も再生されてしまいそうな。
 もしかすると顔に出てしまっていたのか、スプーンを握ったまま、私を横目に見ていたらしいタガミさんは、口を開いた。

「まあ、あんまり危なそうなとこは一人で近づくな」
「あ、……うん、わかった」
「次襲われても多分どうにもできないしな」
「今日も、たまたまだもんね」

 やっぱり、学校で何度も聞かされていた言葉だって聞くべきだったし、今後も何があるかわからない。タガミさんが言うには、私が住んでいるこの辺りは歴史があって、色々なことが起こるそうだった。怪異だとか、幽霊だとか、そういった類のものが。
 その十六年目の事実に不安しか覚えず、ついつい深く深く溜息をついてしまえば、タガミさんも小さい溜息を零して、アイスクリームを掬った。

「おい」
「な、なに」
「好きなんだろ、冬のアイス」
「……あ、」

 タガミさんは、バニラをひと掬いしたプラスチックのスプーンを私の前に差し出したかと思えば、混乱と困惑を浮かべているであろう私の顔を見て、それを口に押し込んだ。ああ、やっぱり高いのもあって、美味しい。けれどそれ以上に、前にご褒美で買ったときとか、お父さんが家に買って帰ってきてくれたときに食べたのよりも、甘い。甘かった。冷たいはずなのに、口の中に入ってしまったそれは、舌先に広がるそれは、温かさすら感じた。

「ん、美味しい……」
「そうか」
「助けてくれてありがとね」
「聞いた」

 二度目のお礼を言って、それを聞いたタガミさんは今度も舌打ちをすることはなく、私の願望の反映か、少しだけ口角が緩んでいるように見えた。
 その表情を見て私も表情を緩めている、場合ではなかった。よく考えたら、よく考えなくても、さっきのって、間接キス? それを意識した瞬間に、冬場にも、さらにアイスを食べているにもかかわらず、私の身体中が熱くなる。暑い、熱い。それを今しがたアイスを私の口に運んだ犯人はと言うと、何食わぬ顔で残りを平らげていたので、この人には羞恥心とかはないのか? なんて考えたけれど、私よりも少しではあるが歳上そうなので、その分人生経験が豊富なのだろうと考えたのだ。

「何アホみたいな顔してんだ」
「いや、間接キ、……なんでもない」
「あー、なるほど。ガキだな」
「うるっさいな」

 そうして鼻で私のことを笑うと、カップの中にスプーンを収めて蓋を閉じたので、口調の割に几帳面だな、と思いながら、私も木の棒を袋の中に入れた。この時間のバスは三○分に一本。本来乗る予定だったものは、もちろんのこと見送ることになったので、あと一○分程度でタガミさんともお別れということになる。寂しいし、どこの人かもわからないので、また会える保証もない。また会いたい、なんて、言葉にするには恥ずかしいから、代わりにまた、溜息をついた。
 それに、得体の知れないものがまた襲ってくるのが、やっぱり、怖い。間接キスで一瞬は忘れてしまっていたものの、私たち人間からしたら怖いものだろう。タガミさんは、平気な顔で怪異を退治していたけれど、よくあることなのだろうか。怖く、ないのだろうか。

「どうした」
「……やっぱりさ、人間じゃない、よくわからないものってちょっと怖いな」

 今度は表情にでなく、直接吐き出した弱気な発言に、タガミさんは小さく舌打ちをした。私に苛立ったのか、それとも、ただの癖か。ただの癖ならいいな。そんなことを考えている間に、タガミさんは私の頭に乱雑に手を置いた。

「まあ怖ぇかもしんねぇけど」
「……うん」
「とりあえず俺の言ったことだけでも聞いとけ。お前は鈍臭いけど、自分が思ってるほど弱くねえ」
「うん、……うん」

 ぐっ、と少し強めに頭を押さえられると、その手は私から離れる。傍から見れば、なんてことない励ましの言葉かもしれないけれど、今の私には十分すぎるほど心強かった。まるで形のないお守りのようだ。その言葉を胸に、脳に、刻み込むと、また同じ、三度目のお礼を言う。

「タガミさん」
「あ?」
「助けてくれて、ありがとう」

 オレンジ色の瞳を見上げて、はっきりとそう言うと、何回言うんだよ、とでもいうように、少し笑った。私もつられて、顔を綻ばせた。
 またしても沈黙の時間がやってきたけれど、今度は恐怖とか不安とかは、もうなくて、隣にタガミさんがいる。私の中にタガミさんの言葉がある。それだけで、安心した。ものすごく、安心したのだ。

 心地の良い沈黙を繰り返しているうちに、コンビニ前にバスが止まった。もうそんなに時間が経ってしまったのか、とやはりタガミさんを名残惜しく思っていると、今度はタガミさんが、への字に曲げているであろう口を開いた。

「冬に食べるのも悪くねぇな」

 その言葉を聞いて、バスの方に移していた視線を、タガミさんの方に向けたけれど、既にその姿はなかった。まるで今までのすべてが幻だったのではないかと思うほどに、タガミさんはその言葉を残して、私の隣から消えていた。その場にいた気配すら、なくなっていた。タガミさんが持っていたアイスのカップも、もちろんない。けれど、最後の言葉と、私の中の引き出しにしまい込まれた、何よりも安心できる言葉。舌先に残るバニラの香りに、頭の上に残った感触。それらすべてのおかげで、今日過ごした、不思議で特別な時間は、嘘や幻なんかではなく、 私の大切な思い出に、勇気に、変わっていったのだ。

 それから私は、アイスの袋を手に持ったまま、待たせているバスへと急いで乗り込んだ。