幽香に絆される
いつもと違う香りがした。
ごく薄い香水のような、決して執拗で重い香りではなくて、上手い具合に鼻翼をくすぐる香りだ。思わず、俺の横をすり抜けていく芳香に誘惑されるように振り返ると、いつもと同じように髪を揺らす彼女がいた。昨日と何ら変わりない後ろ姿だ。彼女が廊下の角を曲がって、姿が見えなくなってもなお、その残り香が漂って、幻に魅せられてしまったように、しばらくその場から動けなくなった。
☓☓☓
週に一度あるかないかのレッスンで、俺は練習した通りに、時折揺らして、楽譜に忠実に演奏していた。最初の頃に比べると随分と腕が上がり、迷うことなく動くようになった指先を止めたのは、俺の先生だった。
「おや佐疫。今日は少し調子が悪いのかな」
「? いえ、そんなはずは」
俺の右側に置かれた椅子に座っていた、俺の先生――災藤さんは、いつも変わらない穏やかな笑顔を保ったまま、顎に手を添えて小首を傾げた。俺はと言えば、その言葉が甚だ疑問に感じた。確かにピアノを習い始めた頃は、災藤さんとは言え人前で演奏するのにも緊張して練習通りの力は発揮できないでいたが、今はもうすっかりと慣れて、昔よりも楽しく弾くことができるし、練習してきたことがそのまま出せているはずだ。そんなに下手だったのだろうかと、ピアノの鍵盤に置いていた手を下げると、災藤さんが息だけの笑みを零した。
「調子が悪いなんて言い方が悪かったかな。いつもより浮かれている、とか」
「それは……余計傷つくような……」
「ふふ、すまないね」
そう言いながらも、悪びれる素振りもない災藤さんに、俺もつい苦笑を洩らしてしまう。それにしても浮かれている? いつもより落ち着きがないとか、そういうことだろうか。一人で考え込み、結論が出ない、出ないふりをしている俺を気遣ったのか、災藤さんはゆっくりと椅子から立ち上がると、指を揃えてソファの方を指した。
「さあ、レッスンは中断。佐疫の話を聞こう」
「そんな。申し訳ないです」
「いいんだよ。恐らくだけど、多少の原因はわかるからね」
そうしてまた、柔らかい微笑みを向ける。相変わらず優しいというか、自由人というか。さあさあ、とピアノから少し離れたソファに案内されると、どうせならクッキーもあった方がいいね、と何やら上機嫌で食堂へと向かっていった。
ジャムクッキーを盛った皿を手に持ち帰ってきた災藤さんにお礼を言うと、礼なんていいんだよ、とそれをローテーブルに置いた。やはり今日は機嫌が良さそうだ。機嫌が悪いときなんていうのもそうそうないが、俺の調子が悪かったらしいにもかかわらず、確実に今日はいつもよりご機嫌だったのだ。向かい合う形で座ろうとした災藤さんは、喉が渇くから珈琲も必要だったかな、と言ったけれど、大丈夫ですよ、と返せば、それじゃあいいか、と腰掛けた。
「それで佐疫。佐疫は今日何か変わったことはなかったの?」
「はい。特に思い当たることは……」
「そう。私はてっきり苗字関連かと思ったけれど」
その名前を聞いて、気のせいではないだろう、心臓がわずかながら高鳴ったのを感じた。それが表情に出ていたのか、俺の目と真っ直ぐに合っていた、灰青色をした目を愉しそうに細めた。ああ、これはたまに災藤さんが見せる、良からぬことを考えている表情だ。災藤さんは白の手袋によく映える真っ赤な苺のジャムの乗ったクッキーを口に運ぶと、美味しいね、とだけ言った。きっとこれは、俺からの言葉を待っているそれだ。自然と溢れ落ちる溜息を抑えることもせずに、それから口を開いた。
「今朝、苗字とすれ違って」
「うん」
「そのときに、こう、……いつもと違う香りがして」
「ふふ、うん」
「それがどうも、忘れられなくて……」
この気持ちの正体なんて、前から気がついている。気づかないふりをして、過ごしてきた。けれど、今日のいつもと違う苗字の香りが、頭から離れない香りが、この気持ちを気のせいで終わらせてくれなかったのだ。あらためて自覚してしまうと、いつもと違うのは香りだけなのに、ああ、自覚していながらもこの感情を無視していたときは軽症だと思っていたけれど、どうやら重症みたいだ。
「うん、私が言わなくても大丈夫そうだね」
「……はい」
そのお得意の柔らかい笑みからは、やはり怒ったときの形相がとても想像つかない。自身の感情の正体と向き合うことができた俺は、けれど恥ずかしくて、皿に乗ったクッキーを口に放り込んで、それから噎せた。
☓☓☓
レッスンが終わると、いや、具体的にはレッスンは一〇分程度で終了してしまったのだが、俺は食堂へと向かった。お皿を返しにきたのと、あとは他の皆が任務から帰っている時間だろうから、そろそろ朝食の準備ができているだろうと踏んだのだ。苗字も、任務から無事に帰っているだろうか。
未だに俺の前から消えない気配と共に食堂の扉を開けると、苗字と平腹、あとは田噛が帰っているようだった。
「なー苗字! メシ食ったらゲームしようぜ!」
「うーん、私は調べ物があるし……田噛じゃ駄目なのかな」
「俺は寝る」
食器を並べている苗字と、椅子に座って待っている田噛、それから、苗字にぴったりくっついている平腹。早く離れろよ、なんて、一瞬でも平腹に抱いてしまった感情に自分でも驚いた。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。そんな俺を見つけたらしい苗字が、困って下げていた眉をぱっと上げた。そんな表情されたら、勘違いしてしまうじゃないか。
「佐疫! レッスン終わったんだね」
「あ、ああ。俺も手伝うよ」
「ふふ、相変わらず優しいね」
持っていた皿を流し台に置いて、人数分の箸を並べる。まだ帰っていない者たちの箸も一応並べておいて、確か斬島と谷裂は同じ任務だったはずだから、帰ってくるタイミングも同じだろう、と考えて。キリカさんからのメモには、買い出しに行ってくるとあるので、帰ってきていないメンバーのものはそのままラップにかけておけば良いだろう。慣れたように配膳をする苗字から、それを受け取っては食卓に並べる。平腹と田噛は見ているだけで、ああ、今任務に出払っている三人ならば手伝ったりするのに。
「ありがとう、助かるよ」
「ううん。いつもありがとう、苗字」
あまりにも自然に礼が言えたことに調子に乗ってしまって、つい綺麗な髪に手が伸びてしまうところだったが、理性がなんとかそれを抑えた。どうしよう、俺ってこんなに自制が効かない男だっただろうか。
そして髪を触れようとしてしまった今、気がついた。髪に意識を移したおかげで気がついたのが、鼻腔を掠める香りの原因は苗字の髪だということだ。確か大浴場のシャンプーは全員共通で一つしかない、緑茶成分の入ったものだったと思うけれど、今の苗字から漂う香りはとても俺が毎日使っているものとは違った。
配膳が終わり、苗字髪を揺らして食卓に座ると、しつこすぎない甘い香りがまた、テーブルを挟んだ俺の前に広がる。きっと、隣に座っている田噛も気がついているだろう。そう、その予感はおそらく的中してしまった。
「おい苗字」
「ん?」
「お前なんかいつもと――」
「田噛」
つい遮ってしまったのは、俺の口から無意識に出た言葉だった。決して語気が強いわけではない。けれど、こんなの柄じゃないはずなのに。いきなり声をかけられた田噛は、その三白眼を一瞬だけ丸くしたが、すぐにいつもの目つきに戻った。ああ、でもこの目は、なんとなくわかる。田噛は、なるほど、とだけ呟いてから、俺に向かって控えめに手招きした。
回り込んで座っている田噛の隣に立つと、さらに顔を近づけるように言われたので、おそらく耳打ちだろうと考えた俺は、田噛に耳を貸した。
「苗字のこと好きなのか」
「えっ」
「案外わかりやすいなお前」
それだけ言うと田噛は食事に取り掛かり、苗字と平腹は何が起こったのやら、と言った表情で俺と田噛を見ていた。平腹は、まあいいか、と茶碗にがっつき始めて、苗字も箸を動かし始めた。
「田噛、何か言いかけてた?」
「あー、なんもねえ」
「? そうなの」
田噛は空気が読めるやつだ。勘が良いけれど、そういう部分は感謝できるかもしれない。仮に田噛が平腹のような性格かつ勘が冴えている、ともなると、それはもう公開処刑のようになってしまっただろうから。俺もその様子に安堵しつつ、苗字の向かいに座った。今日の俺は、変だ。自覚して、認めてしまってから、とても落ち着いて苗字のことを見ることができない。
食事が終わると、各々食器を運び始める。平腹は昔は運ばず食卓に放置という形だったが、最近では流し台まで持っていくようになった。しかしそれもまあ、平腹の気分ではあるが。
「苗字、オレの部屋来いよ! ゲームすんだろ!」
「う、うーん……わかった」
苗字が、平腹と、部屋で、二人っきり? 平腹が相手とは言え、仮にも男女が二人っきり? 思わず硬直してしまい、手に持っていた茶碗を落としてしまいそうであった。けれど決定権は苗字にあるんだし、と自身を冷静に戻そうと、緩みかけていた茶碗を持つ力を込め直した。本来ならば、苗字は忙しいんだ、なんて止めていただろうが、どうも思考が正常に働かないらしい。しかしなんと、予想外にもここで救世主田噛だ。
「気が変わった。平腹、俺が相手してやる」
「え! マジで!?」
「ああ、マジだ。どうせ今回も俺の勝ちだろうけどな」
淡々と話を進める田噛と、嬉しそうながらも挑発を買う平腹。苗字は助かった、というようなほっとした表情を見せた。その安心しきった顔も可愛い、なんて思う俺は重症どころか、もう後戻りできないのかもしれない。テンションの高くなった平腹に続いて、田噛も食堂の戸に手をかけると、それを開ける前に俺の方を向いた。
「次の任務は任せた」
ああ、そんなのお安い御用だ。任務から帰った田噛は真っ先に睡眠時間を確保するのに、おそらくそれを午後に移してくれたのだろうから。心の中で田噛に手を合わせて感謝する。これだけでも田噛の任務三回分くらいの価値はあるだろう。
苗字と二人取り残された俺は、緊張しながらも、いつも通りの対応をする。まずは、今日のピアノのレッスンの成果からだ。見栄を張ることなく、正直に、今日の進捗はいまいちだったよ、なんて言えば、佐疫でもそんなことあるんだね、と珍しそうに笑った。この笑顔も、俺だけに見せてほしい。なんて独占欲が強いんだろう。すると苗字の艶やかな髪から、またしても良い香りがしたので、今だ、と満を持して口を開いた。
「苗字、今日はいつもと髪の香りが違うように感じるんだけど……香水でも使ってる?」
「あ、気がついた?」
したり顔で自身の髪を軽く触ると、これまた機嫌が良さそうに俺の方を見た。それも、破顔させて。ああ、こんなに軽率にときめいてしまっていると、俺が人間だったら一週間経たずで死んでしまっていただろうな。そんな俺の気持ちなんて露知らず、苗字はのぼせ上がったように言葉を続ける。
「これね、昨日この世に行って立ち寄ったお店で買ったシャンプーなの。大浴場のシャンプーにマンネリ化しちゃって」
「ああ、そうだったんだね」
いつも苗字は最初か最後に入っているけれど、なるほど、昨日は最後に入ったのか。俺が入ったときはそれらしいシャンプーのボトルなんて見なかったから、きっとそういうことだろう。それにしても、何の香りだろうか。何の香りだろうと、これは俺の好きな香りだ。苗字から漂うから好きなのかは、不明であるが。
今だ慣れない馨香を肺に満たしていると、苗字が不思議そうに首を傾げた。どうしたの? そう聞くと、今度は不安そうに自身の髪を梳いて、俺を見上げる。
「いや、……変な匂いじゃない? 大丈夫かな」
「変だなんてそんな。俺は好き……だな」
そう、好きという言葉は、この香りに対して向けたものだ。苗字だって、そう認識しているはずなのに。“好き”と口にしてしまった事実が、まるで苗字自身に告白をしてしまったような感覚に襲われて、つい言葉に詰まった。いつか苗字に勧められて読んだ恋愛小説のヒロインが言うような、まるで顔に一気に熱が集まるような感覚とはこのことだろう。そんな感覚が俺を襲った。
「良かったあ、私だけが気に入ってたらどうしようかと思った」
そうしてまた、苗字は顔を綻ばせる。ああ、駄目だ。あまりにも可愛い。思わず口元に手を当てて、けれどこの行動は流石にわかりやすい、と俯瞰して自分を見た俺は、すぐに何もなかったかのように微笑み返した。きっと、上手く笑えているだろう。苗字を好きだって認めた今の方が、幸せな気持ちが顔に出てしまっているだろう。けれどそれもまた、悪くないな。
二人で洗い物をしていると、キリカさんや斬島たちが帰ってきたので、おかえり、と声をかける。それから、苗字はこれからの調べ物のために図書室に行くらしいので、惜しいけれど食堂の前で一旦お別れ、ということになった。じゃあ、頑張ってね。そう声をかけて、一度自室に戻ろうとすると、俺の外套の裾が引っ張られたので、それに釣られるように振り返ると、苗字の他の獄卒たちとは違う細い指が、俺の外套を掴んでいた。
「あのね、もし気に入ったらなんだけど、……佐疫も私のシャンプー、使っていいよ」
「……え?」
「新しい香りって気持ちが上がるし、女性用だけどね。それにほら、お揃い」
お揃い。その俺を殺しにでも来ているとしか考えられない言葉に呆気に取られていると、嫌ならいいんだよ、と手を軽く振って、軽快な音を鳴らして図書室の方に向かっていった。俺の気持ちを知ってか知らずか。ああ、きっと後者だ。まあどちらにせよ、小悪魔のような苗字にこれからも振り回されるのだろう、と覚悟をした。