愛も不安も綯い交ぜに

 筋金入りの面倒臭がり。でも、やるときはやる。私の恋人は、そういう男だ。

 初めて会ったときの印象は、三白眼で目つきが悪くて怖かった。任務が一緒になったときは、任せる、とだけ言っていつも手を抜いていたので、とても良い印象は抱かなかった。むしろ、悪い方だ。けれど、そんな男に先に惚れてしまったのは私だ。死なないとは言え、身体がボロボロ、身動きが取れないときに助けてくれたのは、印象的な夕焼け色をした男だったのだ。私はそれから、些細な優しさにまで気がつくようになって、いつしか彼のすべてに惹かれ始めていた。長い、長い年月だった。数十年、それどころか数百年という間、獄卒として一緒に過ごした大半は、彼のことを想っていたのだから。

 もうすぐ付き合って二ヶ月が経とうとしている。私と彼との進展はというと、軽く手を握ったり、気分次第で同じ布団で寝たり、その程度だ。口付けは交わしているので、その程度と言えば嘘になるだろうか。けれど、恋人らしいことと言えばそのくらいで、歳頃の男女――ああ、というのも外見だけであるが、そんな私たちはそれ以上、触れ合ったことがない。さらに言うならば、彼が私に「好き」と言ったのは数える程もないくらいである。

「はあ……」

 わざとらしく深い溜息を零した私は、難しそうな化学の本を黙々と読み進める男――田噛の背中にほんのわずか体重を預ける。そんな私を気にも留めず、ぱらぱらと頁を捲る音が静かな部屋に残る。今日はお互いに非番だから、と一緒にゆっくりしようという考えで、任務を終えてお風呂まで済ませた私は、田噛の部屋に訪れたのだ。私の溜息に気づいているはずの田噛は、それに構わず頁を捲る手を止めなかった。

「ねえ、田噛」
「どうした」
「……好き」
「知ってる」

 いつもこうだ。私がわざと意識させるように名前を呼んで、どれほどの勇気を有して「好き」の一つを言っているのか、そんなことも知らないで、お決まりの返事を返すのだ。そうするとまたいつもと同じ、私は一人で田噛との関係について悩み、田噛は自分の世界に浸る。
 田噛はもしかすると、好きでもない女に平気で口付けたりできる男なのだろうか、と考えるけれど、私と田噛が付き合った頃のことを思い出すと、どちらともなく告白らしきものをした。らしきもの、と言えば語弊があるだろうか。確かな言葉ではなかったけれど、お互い顔を見合わせて、表情を見て、ああ、これは両想いだ、なんて確信をしたのだ。それから自然な流れで付き合って、今に至る。
 せっかく休暇が被ったのだし、いつもなら田噛が寝る時間であるが、今日はそういうわけでもなさそうなので、私から行動を起こすこととした。

 後ろ手に田噛の服の裾を引っ張ると、それにつられるように田噛は右手を本から離して、ベッドについた。そのまま振り向かずに、田噛の私よりも体温を持つ親指に、自身の小指を絡める。いつもなら起こさない行動に、田噛よりも体温が低いはずの私の手は瞬く間に熱を持った。身の丈に合わないことはするものではない。心臓が、激しく高鳴っていて、背中を合わせている田噛にまで共鳴しているのではないかと不安になるのだ。
 十秒、数十秒、体温を共有したままで、次のことを考えていなかった私は、羞恥で顔に熱が一気に集まった。反対側にいる彼は、急な私の行動に困惑どころか、不快になっているのではないか、と。しかし背後からは、本を閉じた音が聞こえた。そのまま、私より大きな右手は、私の手の甲を柔く包んだかと思えば、親指で軽く撫でた。急なくすぐったさに、肩が跳ねる。今度は田噛から起こした行動に、つい後ろを振り向くと、初めて会ったときから変わらない印象的な夕焼けが、私を引き込んだ。いつもの冷めたような三白眼ではなくて、どこか熱を孕んだ眸だ。ああ、この目は、三回目だ。
 いつの間にやら背中合わせだった私たちは、正面から向かい合う形になっており、その眸から目を離したいのに、その眸が、とてもそうはさせてくれなかった。この目は、知ってる。

「たが、……ん、」

 お互いに引き寄せられるように、唇が合わさる。ごくあっさりと触れた唇は、今にも離れそうなのに、目の前の男がすかさず舌を割り入れてきたので、決して離れることはなく、思わず身体が硬直した。私の大好きな田噛の匂いが、一筋に身体中を駆ける。今度こそ耐えられなくなって、つい瞼を閉じてしまったのは、田噛の夕焼けに魅入られたからではなく、単に羞恥心に支配されたからだ。そんな私に気がついているであろう田噛は、きっと瞼の奥で、私から目を逸らさないでいるだろう。息継ぎの合間に声が堪らず漏れるけれど、そんなことは構わないというふうに、舌を伸ばす。まだ、慣れない。私からも求めたいけれど、気恥ずかしさもあれば、やはり慣れていないのが大部分だった。
 田噛の寝間着の襟元を掴むと、田噛はまたしても上から手を重ねて、軽く指の腹で撫でたかと思いきや、そのまま私の耳を塞ぐ。二度目の接吻でされたことと同じだ。きっと前回、味をしめたのだろう。この方法は、身体がつい震えてしまい、主導権が握られているような心地がする。水音と、息遣いと、唇が離れてしまったときに我慢できずに零れる私自身の声が、より鮮明に耳に注がれていくのだ。たまったものじゃないというのに、薄い皮膚を一枚隔てた向こうにいる田噛は、その様子を愉しんでいるのだろう。丁寧に、丁寧に、体温を吸い取られていく。上顎を舌先でなぞられると、そのままくずおれそうになるのだが、田噛が耳に当てていた手を抜いて私の腰を支えた。
 私にとっては長い、長すぎる時間だった。やっとのことで、至近距離にいた私たちはお互いに離れると、どちらのものでもない細い糸が、重力に従って落ちていった。やっとのことで目を開けると、今までに見たことのない眸をしている田噛がいて、そのまま私を比較的弱い力で押し倒してきたので、力の抜けきった私はそれに逆らうこともできず、ベッドに沈んだ。

「……田噛?」
「我慢できなくなるだろ」
「……ん、」
「……苗字が悪い」

 そう言いながら、私の両手を片手で掴み、頭上で固定すると、首筋に顔を埋められて、音を立てながら吸う。その瞬間熱くなる感覚に、またしても声が漏れ出た。そのまま、私の服に手をかけようとした。
 手をかけようとしたのだが、つい私が身体を捻って拘束から逃れようとしたことで、彼の動きは止まった。

「……あ、」
「嫌だったか」
「ちが……」

 決して、嫌なわけではない。むしろ求められて嬉しいし、今までそういうことも何度も考えてきた。いつこういうことが起きてもいいように、この世で流行の下着を何着か買って、田噛と二人になるときには身に着けるようにしていたくらいである。
 こんなに準備万端だったのだが、私は田噛に言っていないことがある。言わなくてはいけないことがある。離れようとした、緩められた田噛の手を掴むと、押し倒されていた身体を起こした。それから、心を整えるために、準備のために、息を吸って、吐いた。

「私、……」
「ああ」
「…………初めて、なの」
「…………は?」

 田噛は、綺麗な眸を丸く丸くした。引かれてしまっただろうか。何十年どころか、何百年と獄卒として過ごしてきたのに、前世を含め、経験が一度もないのだ。田噛の眸を見られなくなったのは、今度は羞恥とかでなくて、次に田噛が見せるであろう反応が怖かったからだ。呆れられるか、見放されるか、覚悟ができないまま下を向いていると、顔上げろ、とだけ声が降ってきたので、肩を跳ねさせると、恐る恐る上を向いた。

「苗字」
「……田噛」
「落ち着け、大丈夫だ」

 優しい声だった。他の獄卒たちは知らないであろう、時折私に向けてくれる、普段より幾分か柔らかな声色。そのまま田噛は私の背に手を回して、私の顔を田噛の胸元に埋めさせる形をとらせた。田噛の、私の大好きな匂いが、鼻腔を掠めては充満する。素直に身体を委ねると、田噛の手が後頭部に回り、軽く撫でられた。応えるように私も、田噛の胸にさらに顔を埋める。ただ、それだけだ。田噛は私を撫で、私は田噛に撫でられ、それだけの時間が、一分、二分と続いた。私が落ち着いて、次の言葉を紡ぐまで続いた。
 やっとのことで田噛の服を掴んでいた手を離すと、合図のように田噛の私を撫でる手もゆっくり止まった。それからまた、距離を保つと、少し逸らしてから、今度は田噛の眸を真っ直ぐと見るよう試みた。

「……引いてない?」
「そんなことで引くかよ。まあちょっと驚いたけどな」
「……私、ずっとずっと田噛だけが好きだったから、……だから、交際経験もないし、そういうこともしたことない」
「お前……」
「……でも、嫌じゃ、ないよ」

 目を瞑りたくなる気持ちを抑え、大好きな夕焼けに吸い込まれないように、私の少し恥ずかしい気持ちを率直に伝える。だから、と言葉をさらに続けようと、田噛に私の本心をより伝わるように、言葉を紡ごうとしたのだが、大きく大きく溜息をついた田噛は私を強く抱き締めて、そのまま倒れ込んだ。珍しい。田噛が、私を励ます以外で抱き締めてくれるのは。欲望のままのものだと思えるほど、強く抱き締めてくれるのは、初めてだ。先程と同じようにベッドに倒れた私の肩口に、今度は田噛が顔を埋めた。

「お前、そういうことは早く言え……」
「……ごめん」
「……いや、言うな」
「ふ、ふふ、どっち」

 顔を埋めているせいでくぐもった声ではあるが、しっかりと耳に届いた、矛盾の言葉に、つい重かった気持ちは笑いに変わった。今度は私が田噛の黒髪を控えめに撫でると、彼はむっとした表情を映した顔を上げた。不機嫌なときの表情と何ら変わりないように見えるが、初めて見る表情だ。いつもは余裕のある表情しか見せなかった田噛が、少しだけ頬を赤らめている。赤らめているというより、本当に少し、赤みが差している程度だ。田噛からすれば、私の言動が何かが予想外だったからか、こういった表情をしているのだろうが、私はこの田噛の表情が予想外で、思わず心臓が大きく跳ねた。そのまま田噛は私の鎖骨の辺りに濡れた唇を押し当て、小さく音を立てて吸った。熱い吐息を感じ、それからわずかな痛みを伴ったけれど、これからのことを考えると、快感になり得る痛みだった。

「苗字」
「ん、なに」
「……初めてって、痛ぇし苦しいもんだ」
「……うん」
「努力はする。苗字に合わせる。でも、どうしようもないときはある」
「……うん」
「……それでも、嫌じゃねぇか」

 田噛は、私を労わるように、頬を手背で撫ぜた。きっと、優しい田噛の最後の確認だ。もし今抵抗すれば、拒絶の言葉を伝えれば、田噛は次の行動を起こさないのだろう。けれど私に、そんなことをする理由なんてなかった。痛いのも苦しいのも、普段から死なない体で慣れているとは言え、少し怖い。それとこれとは、違った痛さだろうから。でも、田噛がいるなら大丈夫だ。田噛が目の前に、そばにいるから。田噛と触れ合っているから。何より、田噛と一緒になりたいから。
 緊張と不安と期待で高鳴る胸に軽く手を当てると、田噛の首に手を回して引き寄せた。返事の代わりにそのまま軽く唇を合わせる。

 触れるだけの接吻が終わると、田噛は私と視線を絡ませて、首肯を確認すると、そのまま私の服の釦に手をかけた。