一度きりの無音

 いや、まさかこんなにしつこいなんて思わないじゃん。

「お姉さん! 今から飲み行こうよー!」
「結構ですって」
「いいから!」

 何回目だ、このやりとり。残業終わりにさっさと帰ってベッドに飛び込んで明日の休みは寝る。ひたすら寝る。そんな予定を自分の中で立てていたのだが、どうもそう容易いことではないらしい。それは私の前にいる私より上か同じくらいの、二人のちゃらんぽらんの男たちのせい、所謂ナンパのせいである。私がうっきうきで定時で帰っていたらこの誘いも考えなくはなかったよ? なかったけど、今は酒とか男より睡眠に決まってるじゃん。三大欲求で一番大切なの、睡眠欲に決まってるじゃん。

「あのー、通してくれません?」
「ねー! 一軒だけでいいから! 一杯だけでいいし!」
「しつこいな」

 思わず口走ってしまったけれど、まあそんなこともある。普段の金曜日の夜に声をかけてくる人って、大体二回か三回くらい断れば引き下がってくれるのだけれど、こうも通せんぼされてまで抜けることができないのは初めてだ。貴重な経験すぎる。ていうか、タバコとアルコールの匂い、きつ……。ついでに男がめちゃくちゃ好きそうな香水の匂いが鼻を刺す。女引っかけるならもうちょっとナチュラルな香りがいいと思うな、私。

「えー……私早く帰りたいんですけど」
「そこをなんとか! 俺ら一目惚れしちゃって!」
「やっす……」
「せめて名前と連絡先だけでも!」

 俺ら二人とも一目惚れって、なかなかない現象だと思うんだけど。せめてのお願いも強欲すぎる。このあたりでのナンパ師が成功しているのを見たことがないし、共通点と言えば皆髪が派手でピアスとネックレスもじゃらじゃらつけて、見るからに軽そうってことかな。今もワンチャン狙いのこと、バレてますよお兄さんたち〜。普段ならもう少し押せ押せに弱い節もあるけれど、今日は本当に疲れているから。でもここでもしイケメンとか好青年とかが助けにきてくれたら軽率に好きになっちゃうな〜、なんて、そんな空想だけを巡らせる。もちろん無理なのは、この駅までの道中はいつ見ても治安が悪いから。モンエナをマンホールの近くで飲んでるカップルとか、同じようなちゃらんぽらんの男が大声で騒ぎ立ててるとか、ホストやら風俗への勧誘とか、まあそんな道だから。次からはルートを変えよう。切実に。

「ほんと急いでるんで……じゃ、」

 まともに返答する気力がどこかで削がれてしまったらしく、どちらかと言えば背の低い方の男の横を風のように抜けようとしたのだけれど、どこまで執着されているのだか、私の手首を掴まれる感触があった。あーあ、どうせ今日は定時で帰れないからって気合いを入れて新しくしたブラウスが汚れちゃう。
 しつこすぎる男を睨めつけて、手首をぐぐっと力を入れて引いてみるけれど、やはりこういうところに男女の差が出るのだ。もちろん、私の手首を片手で簡単に一周してしまっているその私より大きい手を剥がすことなんてできなかった。

「いい加減にしろよ、お前」
「……こっちのセリフなんだけど」
「ちょっと来い」
「きゃっ」

 さっきまでの態度と一変、どうやら好かれようとする低姿勢はやめたらしい。ぐっ、と手首をそのまま引っ張られると、ヒールで躓くことにも気なんて留めず、どこかに私を連れていくつもりらしかった。逃げようにも、男が二人もいる。片方は私がどうにか逃げないような監視らしかった。多分、これホテルだな。このパターン、襲われるやつだ。あー、どうしよう。抵抗しなきゃいけないのにそれすら面倒くさくなってきた。しかも最近はめっきり男と出会いのない社畜女を好いてくれるなんて、もしかして滅多にないことかもしれない。
 ついには力が抜けてしまった私に、男たちはにんまり笑う。誰でも良いにしろ、求めてくれるだけありがたいのかな、なんて。

 そのとき、私の背後から影が差した。夜とはいえ十分に明るい建物たちに照らされた私の視界が、暗くなった。後ろから影が伸びてきたのだ。なんだろう、と思って、脱力しながらも振り返ると、カーキ色っぽい制服に身を包んだ、男の人がいた。私と同じくらいか、少し下か、そんなところだろう。その目はカラコンだろうか、それでも不自然でない青色をしていて、腰には日本刀。……え、コスプレ? 仮装? 確かにハロウィンは近いけど、流石に早すぎるというか、浮かれすぎじゃない? そんな私の困惑を他所に、その男の人は口を潔く開いた。

「困っているだろう。離してやったらどうだ」
「はあ? どう見てもお姉さん、誘いに乗る気満々だっただろ」

 乗る気満々、ではなかったけれど。どちらかと言うと今困惑してるのはあなたの服装の方ではある。それに、夜の暗さだからか、肌が青白い。体調が悪いだとか、肌が白くて綺麗というより、人間離れしたような、そんな白さだ。
 するとそのコスプレの男の子から、低く硬質な声がまた、私の頭上に降ってきた。

「そうなのか。お前はこいつらの誘いに乗ったのか」
「あ、いや、……」
「はっきりした方がいい」
「……正直、全然行きたくない」

 危ない。このコスプレくんのおかげで正気を取り戻した。軽率に自分の身体を蔑ろにするところだった。日々に疲れてこうもなってしまうなんて、もっと自分を大切にしないといけないな。

「だそうだ。お前たちがまだ懲りないようなら警察に――」
「わ、悪かったよ! 行こうぜ!」
「ええ……チンピラ……」

 警察、というコスプレくんの言葉に戦慄したのか、そちらも正気に戻ったのか、アニメや漫画でよく見る雑魚敵さながらの決まり文句を吐き捨てては二人揃って逃げていってしまった。うわあ、私あんなのに身体を許すところだったのか。危なすぎる。
 するとコスプレくんが私の肩を掴んで、けれども視線は合わせようとせずに、青い目でこちらを見つめてきた。やっぱり、カラコンだとは思えない。綺麗すぎるもの。

「お前、怪我はないか」
「へ、平気! 酷いことされる前にあなたが助けてくれたし。ね?」
「それなら良かった」

 というか、よく見たら結構顔立ちが良いというか、さっきのチンピラ二人を見た後だから余計だろうか。これ、新手のナンパとかじゃないなら、私が勝手に妄想してた助けてくれるイケメン、なんかに値するのではないだろうか。ナンパとか、こちらも味方のふりをしたワンチャン狙いじゃない限り、だ。

「駅まで送ってやろう」
「あ、……ありがと」

 いや、これはただのいい人だ。服装こそ変だけど、相当な常識人だ。服装は変だけど。いや、もしかすると自衛隊とかそういう職種の人かもしれないから、一概に偏見を持つのも良くない。そう思いつつ、すたすたと足を進めるコスプレくんに、遅れを取らないように、もうすっかり慣れてしまったヒールで着いていった。

 ☓☓☓

「ここか」
「そう、ここ。……ありがとう」
「ああ。気をつけて帰れ」

 そう言ってコスプレくんは、私が駅の中へと入るのを待っているのか、ただ私を見ている。どうしよう、きっと出会いがなさすぎる故にフィルターとかもあると思うのだけれど、このコスプレくんがめちゃくちゃかっこよく見える。もはや好きかもしれない。好きだ。好きすぎる。こんな恋への落ち方は初めてだけれど、好きなものは好きだ。好き!

「あ、あのさ、私、苗字名前っていうんだけど……あなたの名前は?」
「俺か。俺は斬島だ」
「切島、さん」

 私は名前も教えたのに苗字だけなんて不公平だ! なんて思いつつ、一時のものかもしれないが、自覚してしまえばそんなお堅いところも好き、なんてふうに変換できてしまうので、恐ろしいものだと思う。切島、なんていうんだろう、下の名前は。そうだ、どうせなら、せっかくなら、

「切島さん、……連絡先、交換しませんか」

 これ、さっきのチンピラたちとほとんど同類じゃない? でも、この先会えなかったら困る。もし毎週金曜日にこの服装でこの辺りを徘徊していようものならば流石に気がつくのだが、私は帰り道を変える予定もあるし、切島さんと会うためにそんなリスクを背負う気にもならない。
 断られたら、それまでだ。すると切島さんは、ポケットから何やらスマホを取り出した。え、これってまさか!

「いいだろう。電話番号でいいか」
「へ、……あ、うん!」

 まさかのこのお堅い人が一発OKだなんて、私も相当運がいいのか、最近の忙しさに天が与えてくれたご褒美なのか、私は心の中で手を合わせつつもいそいそと自分のスマホを取り出した。SNSとかじゃなくて、電話番号というのもまた、切島さんのお堅さに合っているというか。よく見れば切島さんのスマホは見たことがない機種で、もしかすると海外製のものなのかもしれない。

「……よし。これで合ってるかな」
「ああ。問題ない……いや、漢字が間違っているな」
「へ!?」

『切島さん』という名前を登録したその下の、電話番号でなく、その『切島さん』が間違っているらしかった。うわあ、霧島とか桐島とか、もしかしたら島が違うのかな。まあ、それはまた聞けばいいや、と『キリシマさん』と登録し直した私は、誤魔化すようにスマホをバッグにしまい込んだ。でも、すごい。これがナンパだなんてキリシマさんはわかっていないだろうけれど、それでもこう、私の初ナンパが成功してしまうなんて。

「苗字のはこれで合っているか」
「……合ってる。ありがと、キリシマさん」
「ああ。何かあったらいつでも呼んでくれ。駆けつけられるときならいつでも行く」
「やった! あ、……と、とりあえず、家に着いたら連絡するね」

 わかりやすすぎるほどに喜んでしまったのを隠すように咳払いをしては、安否確認的な、と付け加えると、キリシマさんは私の下心なんて感じるはずもなく、変わらない真顔で、なるほど、といった表情をした。キリシマさんとスマホをしまうと、今度こそ、と私も後悔なく一度別れることができそうだ。連絡先をゲットできたのが、本当に大きい。それに、キリシマさんの「何かあったら呼んでくれ」というのは、きっとピンチのとき限定だろうけれど、それでもまだ会うことができるということだ。

「じゃあね、キリシマさん。今日はありがと!」
「ああ。無事に着いたら電話を頼む」
「わかってる!」

 こんなに気分が上がるのは久しぶりだ。今は睡眠欲より男を優先せざるを得ない。寝るのなんて後回し、キリシマさんが第一優先だ。そう思いながら、改札を小さくスキップしながら通り抜けた。

 ☓☓☓

『この電話番号は――』
「な、なんで繋がらないの!?」

 こんなに大きい独り言を言ったの、ほとんど初めてではなかろうか。仕事着のままベッドに飛び込むや否や、登録したキリシマさんの番号に電話をかけると、聞こえてきたのはキリシマさんの声ではなくてこの音声案内であった。いや、嘘を教えようにも現実味がありすぎる番号だし、まさかキリシマさんにそんな考えがあるなんてとても思えない。それともやっぱり、見た目の通りそういうプライバシー的なところもお堅い人だったのだろうか。でもキリシマさんはスマホとにらめっこしながら私に携帯番号を教えてくれたし、ともう一度『キリシマさん』の欄を叩く。

『この電話番号は――』
「うそ……」

 またしても聞こえてきたのは、先程と同じ無機質な声。今、電波悪いとか? でも、まさか、こんなの、繋がらないなんて。そんな、連絡できないなんて、もう二度と会えないってこと?

「……冷めるかなあ、これ」

 人を久しぶりにかっこいい、好きだ、なんて思ったこのほとぼりが冷めるまで、どのくらいの時間がかかるだろうか。

 ☓☓☓

「む……」
「どうしたの? 斬島。珍しいね、デバイスとにらめっこなんかして」

 斬島が館に帰ってきたかと思いきや、何度もデバイスを確認しては、顔を顰めている。珍しい、機械音痴だから何かに手こずっているに違いないと踏んだ俺は、斬島の手元を覗き込んだ。するとそこに表示されていたのは、『苗字』という、おそらく名前だ。

「丁度良かった。佐疫、今日現世で人間の女と連絡先を交換したのだが、どうも繋がらなくてな」
「いや、うーん……」

 斬島が女の子と連絡先を交換するなんて珍しい。館の獄卒や家政婦たちの連絡先しか入っていないはずなのに。ついに斬島にも春が来たのか、なんて思うけれど、そう思うからこそ、その原因を話しづらいところではある。人間の子も、斬島も、どちらも気の毒だ。

 だって、あの世とこの世は世界こそ繋がっているけれど、違う世界だ。使っているデバイス自体も違えば、次元が違うだなんて、連絡がつくはずなんてないのだから。