朝ぼらけ

 別に眠れなかったわけじゃない。なんとなく寝たくなかっただけ。寝る気分じゃないだけ。何か嫌なことがあるわけでもない。けど、心のどこかで不安を感じてた。
 暗い部屋で、時計の針は二時半を指す。眠気はあるものの、私は一人ソファで座っていた。
 なんとなくグラスに注いで少しずつ飲んでいたペットボトルの水はあと一杯分もなくて、それを最後の一滴まで飲みきるように注ぐ。次の日のために充電器に繋げたスマホも、ロック画面で充電完了通知を鳴らした。
 寝る準備をしてから現在まで何をしていたかと言うと、特に何もしていない。ただ得体の知れない不安に膝を抱えて過ごしていただけだった。日中のことを考慮しても、寝た方がいいっていうのはわかっているんだけど。

 夜もすっかり更けた。月明かりと遠くのテーブルランプしかその部屋に明かりはなくて、そんな暗さにも目はとっくに慣れてきた。暗闇の中の壁掛け時計にもう一度目を移してみる。長針が丁度8に重なったとき、扉が開く音がした。

「苗字、さん……?」
「……環くん」

 扉の開く音とほぼ同時に発せられた声の方を振り向くと、私の大好きな恋人がいた。乱れた髪や、眠そうな声からするに、どうやら私と同じように起きていたわけではなさそう。

「どうしたの?」
「いや、喉が渇いたから水を飲もうと思って」
「あー……新しいのとってくるね」

 私たち二人の視線は同じように空っぽになったボトルに向けられたので、それをシンクの方に持って行ってから冷蔵庫を開けた。もう小さな手のひらサイズのペットボトルに入ったミネラルウォーターしかなかったから、「ごめんね」と手渡せば「大丈夫だ」と言って私からそれを受け取った。
 彼が蓋を開けるのを横目にソファの端っこへと戻った。そしてまた膝を抱えて丸まる。環くんが数回喉を鳴らしながら飲んだ水はあっという間に半分を切る。彼が蓋を閉めてそれをテーブルに置いたのを見て、再度小さいサイズしかなかったことに申し訳なさを感じた。
 部屋に戻るのかと思いきや、もちろんあの環くんが大人しく寝床に就くわけもなく。いつも私と隣にするときは私から近づかないと端っこと端っこで距離があるのに、今日ばかりは私のすぐ隣に腰を下ろした。

「眠れない?」
「……寝たくないの」

 自分勝手な返答をしてしまったことはわかっているけれど、眠れないわけじゃなくて、なんとなく寝たくないだけだから。

「でも、早く寝ないと」

 そう言って私なんかよりよっぽど不安そうな顔をしている環くんが私の顔を覗き込んだ。

「俺と一緒に寝るの、やっぱり嫌?」

 そうやってまたネガティブモードに走る。そんな環くんは今まで何度も見てきたから、大丈夫だよと言うように頭を撫でた。

「環くんのことは大好きだから、全然嫌じゃないよ。むしろ嬉しい」

 そう言うと安心した表情を見せた。最近一緒のベッドで寝るようになった。最初の頃は環くんが壁と一体化するんじゃないかってくらい壁に寄って寝ていたけれど、近頃ではお互い向き合って、近づいて寝られるようになった。今だってそうだ。前まで「好き」なんて言うと決まって顔を赤くしていたのに、最近では嬉しそうな顔をしてくれるようになった。
 そんな安心したような顔もすぐに元に戻る。結局どうして私は寝たくないのか、ということがわからないだろうから。

「……眠れないんじゃなくてね。寝たら、朝が来るから」

 別に寝なくたって朝は来るけれど、寝れば空は明るくなってその日が始まってしまう。なぜかそれに不安を抱いていた。私のいつもより小さな声を聞いた環くんは、私の背中をさする。優しくて、温かくて、私より大きなその手で。

「嫌なことでもあった?」

 心配そうで、でも落ち着いた声色に対して首を横に振る。私の背中を撫でる手は止まらない。もう片方の手で私の横髪を耳にかけた。

「嫌なことはね、ないよ。けど、どこか不安なの」

 きっと朝になればなんとも思わずいつも通り。だけど、夜の間は何かが心の奥につっかえてる。漢字ふりがな
 時計の針はまもなく三時を知らせる。環くんの仕事に支障をきたすから、早く寝てもらわないと。すると、環くんの手が膝を抱えている私の右手をとり、軽く握った。

「苗字さん、一緒に寝よう」
「……寝たい。でも、寝たくないの。環くんは仕事でしょう? 戻ってて」
「苗字さんだって、仕事だ。とりあえずベッドに行こう」

 環くんは立ち上がってテーブルランプの明かりを落とし、少し残った水はそのままに私の手を引いて部屋へと戻った。

 環くんが布団に入ると、つられて私も吸い込まれる。こんなの、寝たくなくても眠気が勝って寝てしまうだろう。私はなぜか溢れる涙をごまかすように環くんの胸に顔を埋めた。環くんは私の髪を丁寧に梳く。

「苗字さん、眠りたくない?」
「……ない」

 そう言うと彼は私を抱きしめた。優しいけれど、いつもより力強く。

「……目が覚めたら朝かもしれない。けど、そのとき隣に俺がいるから」
「……」
「一応、苗字さんの恋人、だから。不安なときとかは甘えてほしい」

 “一応”という保険をかけたその言葉に雰囲気を壊すようだけれど、少し笑ってしまった。寝たら朝が来る。けれど、起きたら横には環くんがいる。その言葉と包まれている温かさに、私も彼の背中に手を回して応えた。
 涙で彼の服を濡らしているのを気にする前に、小鳥のさえずりが聞こえた。