海にそよぐ柔らかな風

 高校のときからそうだった。いや、違う。高校のときに自覚しただけだ。そう、俺は人並み以上に汗をかく体質だということ。体質なら仕方ないと思う反面、好きなあの子に「汗臭い」なんて嫌われたらどうしよう、もう嫌われてるかな、なんて考えたりした。演習の後は背中にスプレータイプの制汗剤を思いっきりかけたりしていた。逆に変な匂いがしたかもしれない。
 それでも晴れて名前と付き合うことができて、ありがたいことに就職した今でも関係は続いている。なんで俺なんかが彼女と付き合えているんだろうか。未だに疑問ではあるが、彼女にそう言うと「ネガティブ発言は駄目!」と怒られるので控えている。怒った彼女も可愛いのだが。

 ◇

 今日は仕事が長引いてしまっていつもより二時間ほど遅い時間に帰宅をすることとなった。厄介なヴィランに遭遇してしまって、夜とはいえ夏のこの暑い中に、まして俺のコスチュームはマントがあったり、まあ色々あってさらに暑い。
 もう名前は寝てしまっているだろうか。油断をして制汗剤を持っていかなかった俺は、事務所に戻って滴り落ちた汗をタオルで拭うもののこのベタついた感覚と消えない汗の匂いが気持ち悪くて、さっさとシャワーを浴びたい一心で家へと向かった。名前に幻滅される前にさっさと。

 早くすべて洗い流したいという心のまま、エレベーターでボタンを押す。鏡の中の俺はいつも通りの猫背。変に汗を拭ったせいで前髪が変な形になっている……辛い……!
 目的の階に到着したことを知らせる音を聞くや否や、慌ててエレベーターを出た。誰も乗っていない上誰も待っていないのに。鞄の中から手探りで鍵を探して、彼女と学生時代にお揃いで買ったキーホルダーの付いた鍵を手に掴む。ちりん、と鈴の音が鳴った。鍵を勢いよく鞄から出したとほとんど同時に俺たちの部屋番号が目に入る。頼む名前……寝ていてくれ……いや、その前に俺が浴室に駆け込めばいいだけの話だ。ドアを開けて数歩歩けば目的地に着くじゃないか。何を焦っていたのだ。急に先程までの焦りは消え、一気に穏やかな気持ちになった。心拍数がいきなり六○近く下がったくらいに。
 鍵を回し、ドアノブに手をかける。ガチャリという音と同時に「ただいま」と小さく言って、荷物を下ろして浴室へと駆け込む――はずだった。

「え」
「おかえり! 遅かったね」

 彼女は寝ているどころか、玄関に待機していた。なんなら俺に抱きついてくる始末だ。か、可愛い……! けど、そうじゃない。一気に俺の心拍数は上昇、血の気が引いた。彼女が可愛くてドキドキしているのか、それとも別の要因なのかわからない。
 それにしても、どうして名前は俺から離れないんだろう……彼女の嗅覚が壊滅的に悪いとか、鈍感とかそういうことだろうか。またまた心拍数は落ち着く。今日は心臓がいつにも増して忙しい日だ。名前に倣って背中に手を回すと、彼女は俺の肩口に顔を埋めて、数秒後に顔を上げた。

「環くん、汗臭い」

 ガーン! 本当にガーン! という効果音が似合うくらい、綺麗に膝から崩れ落ちた。ああ、俺はもう駄目だ……せめて最後は笑顔が見たかった、な……。
 崩れ落ちてどうしようもない俺に彼女は侮蔑の目を向けているのだろうか……。恐る恐る顔を上げようとしたが、彼女は俺を見下ろしていたわけでなく、俺と同じ目線にいた。つまり何故か彼女まで俺と一緒に崩れ落ちたというわけだ。さらには笑顔で、その上どういうわけか俺から離れない。またもやサーッと血の気が引いていく気がした。彼女は何を考えているんだ……!

「な、なんで離れないんだ、……頼むから離れてくれないか」
「どうして?」
「どうしてって……汗臭いんだろう、嫌われたくない……」

 消え入るようにそう言うと、彼女は目を丸くさせてから俺がおかしいかのように笑った。いや、俺がおかしいのか。砂になりそうな気分だ。彼女は目に涙が溜まるくらい笑っている。ここまで来ると彼女がおかしいんじゃないか。いや、彼女はおかしくない。

「どうして嫌われると思ったの」
「エッ、……だって、汗臭いし、……汗臭いし……」
「そんなことで嫌うと思う?」
「えっ」
「私の愛は環くんにとってその程度にしか伝わってなかったってこと?」

 名前は可愛らしく頬を膨らませて、俺の頬を小さな両手で挟んだ。彼女の可愛さに自分の悩みなんてどうでも良くなってきてしまった。なんて単純な男だろう。彼女の問いに対して横に首を振ると、彼女は柔らかい笑顔を見せてから俺の顔から手を離した。そしてまた、おかしそうに笑うのだ。

「私、環くんが汗っかきなことは知ってたよ。人一倍気にしてるのも知ってた」
「!? い、いつから……!?」
「うーん……高校生のときから……っていうか付き合う前から」

 ……なんてことだ。今までの努力は一体、何のためにしていたのだろう。俺は虚空を見つめた。すると視界に名前が入ってきて、一瞬にして意識が戻ってきた。しかも彼女が言うには、「背中にスプレーめちゃくちゃかけてたの見てたよ」なんて。未だおかしそうに笑う彼女とは対象的に、もはや乾いた笑いしか出なかった。彼女に対してではなく、自分に対するものだ。

「気にしてる環くん、可愛くて可愛くてさ」
「……やめてくれ…………!」
「えへへ」

 えへへじゃない! いや、可愛いけど……すごく可愛いけど…………! 気づいているなら早く言ってほしかった、という気持ちとともに、まあわざわざ言うものでもないしな、と冷静な考えまでできた。あれほど気になっていた汗の匂いなんてすっかり忘れてしまっていた。
 再び名前は俺に抱きつき、今度は胸に顔を埋める。不意にこちらを向いた彼女の表情は、とても柔らかくて可愛らしい笑顔で。俺もぎこちない手つきで彼女を抱きしめた。

「好きだよ」
「……俺の方が好きだ」
「ううん、私の方が。私は環くんが汗臭くても好き」
「……俺だって」

 これ以上ない幸せだ。世界一好きな可愛い彼女が、俺のことを好いていてくれて。幸せすぎて今死んでもいい。いや、まだ死ねない。まだまだ彼女としたいことだって、たくさんあるのだから。
 これでもかと言うほど強く名前を抱きしめていると、抗議するように胸を押した。嫌だったかと思ったが、その後に見せたふわりとした笑顔が嫌ではなかったと俺に伝える。すると彼女から予想外の爆弾が投下された。

「環くん、高校生のとき私がシートで汗拭いてるの見てたでしょ。知ってるよ」
「えっ」
「環くんのえっち」
「ゔっ……ごもっとも……」

 俺の頬をむに、と摘むと、またおかしそうに笑った。ああ、名前は世界一可愛いし、そんな名前といられて、俺は今世界一幸せな人間だ。