小さな華

「わ、やっぱりかあ……」

 朝起きて身だしなみを整えるため、洗面所の鏡を覗き込めば、首に赤い痕がついていた。なんだか痒いと思っていたけれど、案の定寝ている間に蚊に刺されてしまっていたみたいだ。薬を塗って痒みを抑えよう。あとは……確か虫刺されって空気に触れるとさらに痒くなるんだっけ。絆創膏貼ったりラップ巻いたりするのがいいらしいけど、今から学校だしラップを首にぐるぐる巻きにして行くのはただの変な人だ。やっぱり薬だけ塗ってどうにかしよう。

「……ん? あれ?」

 刺された位置は鎖骨あたり。そこまで酷い腫れではなくて、小さくて赤い痕。……これはよく見るとキスマークに見えなくもないのでは? 少女漫画なんかでありがちな虫刺されとキスマークを間違えるパターンでは? 恋人の環くんをモヤモヤさせることができるのでは!? そう考えると自然と気味の悪い笑いが口から漏れる。今日は環くんを一日翻弄して、指摘されたときにばらそう! 私の小さなドッキリ作戦は、今決行されるのです。

 ◇

 ――とは言っても。あのネガティブ星人環くんだ。本当に浮気を疑われてどんどん落ちていっては私の罪悪感もすごいし、環くんも可哀想だ。環くんに「誰にやられたの?」とか言われたら秒速でネタばらしをしよう。ふふ、環くんの反応が楽しみだこと。
 制服のボタンを上まで留めて、痕が見えないようにしてから共同スペースに向かう。ランチラッシュ先生の作った美味しそうな朝食はいつも通り既に用意されている。そしていつも通り端っこに座っている猫背の彼が、私の恋人の環くんだ。

「あっ、苗字、さん。おはよう」
「環くん、おはよー!」

 付き合って数ヶ月が経つのに、苗字さん、だなんて呼ぶ彼が好きだ。彼らしくて可愛いもの。名前で呼んでほしくないこともないけれど、そんな贅沢は言わないぞ。
 隣に座って私も朝食をとる。いつ気づいてくれるかな、なんてそわそわしていたけれど、ボタンを留めたまま忘れていたみたい。今はクラスの皆がいるし、環くんと二人のときに外そう。……もしかしてビッチみたい? いや、好きな人に気にしてほしいならこんなことだって普通! なはず!

 お箸を置いてごちそうさま、と手を合わせる。環くんとよく一緒にいるクラスの男子はいつものように、私と環くんに気を遣って先に登校する。いつもなら二人とも親友だからそんなに気を遣わなくていいのに、と思うところだけれど、今日ばかりは本当に感謝しかない。リュックを背負って、ローファーを履いて、「いってきます!」と言ってドアを開けた。
 さあ、どうしようか。とりあえず環くんの視界に痕を入れなきゃ。

「今日、あ、暑いね」
「うん、夏だしね」
「えへへ、暑い暑い……」

 なんて下手な演技だ! 幼い頃はヒーロー兼女優にもなりたいなんて言っていたけれど、これでは到底無理だ。ヒーロー一直線にして良かったと心から思う。わざとらしく暑いと連呼しながらネクタイを緩め、上まで留めたシャツのボタンを一つ開けた。今が夏で本当に良かった。これがもし冬の極寒の中だったら「こいつは何を言っているんだ?」と思われざるを得ない。さあ、環くんは気づくかな? ちらりと環くんの方を見れば、彼もまた私の方をちらりと見てすぐに目を逸らした。……そういえば環くん、こういうの直視できないタイプだった。

「環くんも、ボタン開けたら? 涼しいよ、ほら」
「お、俺はいい……苗字さんにも閉めてほしいくらいだ……」

 うーん、ウブで可愛い。けれどこれでは目的を達成できない。もしかしたら視界に少しは入ってくれたかもしれないけれど、最後まで気づいてくれなかったら私のドッキリ作戦は虚しく終わってしまうことになる。今日彼と二人になれるチャンスは、最大でも授業間の休み時間とお昼休み、放課後……となる。その間に絶対にこの虫刺されの痕を彼の視界に入れたい。入れる。心の中で強く拳を突き上げて、強く意気込んだ。

 ◇

「……あれ?」

 おかしいぞ。まるでどこかの小さな探偵のような口調で呟いてから、トイレの鏡に映る自分とにらめっこする。窓から差し込む光はオレンジ色。この虫刺され、もしかして私にしか見えない幻覚? こんなにアピールしているのに指摘の一つもされないなんて。さては幻覚だったな。そう思って痕のように見えるそこをなぞると、思い出したかのように痒みが襲ってきた。うん、幻覚じゃなかったみたい。やっぱり環くんがウブすぎる故に気づいてなかったのかな。そうだとしたら私の努力って一体……。

「はあ……」
「どうしたの? 何か悩んでるの!?」
「わあ! ねじれちゃん!」
「ねえねえ何悩んでるの? やっぱり天喰くんのことだよね、知ってる!」

 突然鏡に映り込んできた美少女――というかねじれちゃんにとても驚いてしまい身体が跳ねたので、彼女にくすくすと笑われてしまった。それに彼女は環くんのことで悩んでるってお見通しだった。なかなかに鋭いんだよね、ねじれちゃん。彼女は鏡越しに私の顔と鎖骨あたりの痕を見た。な、なんか恥ずかしい……。ねじれちゃんは数回視線を往復させた後、笑顔のまま口を開いた。

「それ、もしかして天喰く」
「ち、違う! 虫刺され!」
「あれれ? なんか今日落ち着きがなかったからそれが原因かと思ってた」

 今日落ち着きがなかった? そんなに!? 確かに休み時間になるごとに環くんの席に行ってアピールしてみたり、授業中もひたすらそのことについて考えたりしていたけれど。もしかしてクラスの皆にこの痕見られてる? それはまずい。それは非常にまずい! 恥ずかしくないけど恥ずかしい! クラスの皆に勘違いされるのが一番辛い!

「ね、ねねねねじれちゃん、もしかしてこの痕気づいてた?」
「“ね”が多いね! 気づいてないよー、様子が変だなあって思ってたの!」
「た、環くんにもそう思われてたかな、ね、この痕見られたかな!?」

 思わずとんでもない勢いでねじれちゃんに詰め寄って壁まで追い込んでしまった。驚いた顔も可愛い。けどそれどころではない。もし気づいてもらえたなら好都合だけど、様子が変だなんて思われたら恥ずかしい。むしろ環くんは心の中で私をとてもとても疑っているのかもしれない。

「天喰くんのことはわかんないけど、名前ちゃんのことよく見てるから気づいてるんじゃないかな? 私そう思うの」
「そ、そっか……」

 環くんの前だけでボタンを外したりしていたから、気づいてもらえてたらいいんだけど……。ひと息ついて落ち着きを取り戻すと、ねじれちゃんが何か思い出したように「あっ」と言った。今度はなんだろう、と身構える。

「もう放課後だけどいつもみたいに天喰くんと帰らなくて大丈夫なの? 待ってるんじゃない?」
「あっ!!」

 そうだった。最後のチャンス。泣いても笑ってもこれが最後のチャンス。スマホを確認すると、『教室で待ってる』『一緒に帰れなさそうなら言ってほしい』とメッセージが来ていた。寮までという短い時間ではあるけれど、二人で過ごせる大切な時間だ。慌てて『遅くなってごめん! 今から向かうね』と返信を入れた。

「ありがとうねじれちゃん!」
「何もしてないよー! 頑張って! よくわかんないけど私応援してる!」

 ◇

 走って走って、息を切らせながら教室のドアを開けると、夕日が環くんを照らしていた。今度こそ本当に暑くて、ネクタイを緩めてボタンを一つ開ける。

「ご、ごめ、おまたせ……!」
「いや、全然大丈夫、だけど……」

 息を整えて、環くんの隣に立つ。なんだか放課後に教室で二人って、告白されたあの日を思い出しちゃったりして。環くんは「帰ろっか」と言ったので、リュックを背負って教室を後にした。

 普段は弾む会話も、私のせいでどこかぎこちなくて。でも環くんは気づく様子もなくて、なんてしょうもないドッキリを仕掛けようとしたのだろう、ともうすぐ今日が終わりそうな今、やっと後悔をした。恥ずかしさも一気にこみ上げてきて、身体中の熱が顔に集まっていく感覚だ。比喩とか抜きにして、本当に私の顔はりんごのようになっているだろう。
 もうすぐ寮に着いちゃうなあ。本当に意味のない一日を過ごしてしまったなあ。半分諦めムードで遠目からハイツアライアンスを見ていたときだ。私と同じスピードで歩いていた足音は消え、隣にいたはずの気配もなくなった。環くんが立ち止まったのだ。なんだろう、と思って振り返ると、ショルダーバッグのストラップを握りしめて下を向いていた。

「環くん……?」
「あ、あの……その……」
「な、なに?」

 なかなかに重い空気に、虫刺されのことなんて忘れて別れ話を切り出されるのかと思ってしまって、思わず身構える。環くんは口をきゅっと結んでから、覚悟を決めたように私の方を見た。心臓がうるさい。環くんが口を開く。心臓が破裂しそうだ。息を吸う音が聞こえた。

「苗字さんの、首の痕って――」
「虫刺されなの!!」
「……えっ」
「あっ」

 しまった。環くんに「誰につけられたんだ」なんて言われる前に、気づいてもらえてたことが嬉しくて勢いよく、しかも、おそらく超絶笑顔でネタばらしをしてしまった。口角がとんでもなくつり上がっている。やってしまったと思っていると、環くんは力が一気に抜け落ちたように膝から崩れ落ちた。

「よ、よかった……」
「えっ、も、もしかしてずっと気づいてた?」
「ああ……朝からちらっと見えて見間違いかと思ってたけど、何回も見えるし……」
「えへへへへ」

 気味の悪い笑い方をしてしまったけれど、そんなことを気にしている場合ではない。環くんが一日気にしていてくれた、それだけで今日の夜はいつもの五倍はご飯が進む気がする。環くんは大きく息をついてから、私を見上げた。

「それに、様子もおかしかったし、その……」
「その?」
「お、俺が……寝ぼけてつけてしまったのかと思って……」
「……あれ?」

 思っていたのと違った。環くんはとてつもなく顔を赤くしていて、きっとさっきまでの私と比べ物にならないくらい赤い。でも予想外。てっきり浮気を疑われているのだと思ったからこそ早く訂正したのに。嘘、それ以上に嬉しかったからだけど。

「浮気……とか、考えなかったの?」
「! そういう考えもあったのか……」
「えっ」

 普通その考えすると思うんだけど、もしかして環くんって聖人だったのかな。ネガティブ星人じゃなくてネガティブ聖人だったのか。私だったら環くんが首に痕なんてつけてたらすぐに問い詰めちゃうのに。

「だって、君が浮気なんてするはずがない……。君は俺のことが、す、すき、だから……」

 後半になるにつれて声が小さくなっていき、顔から湯気が出そうなくらいに、耳まで赤くしている。ああ、本当に可愛い。可愛くて、素敵な恋人。私は未だ崩れ落ちたまま立てない環くんの腕を引いて、思いっきり抱きついた。

「私、環くん大好き!」
「て、照れるからそんなに言わないでくれないか……」

 そう言いつつも環くんは私の背中に手を回している。ぎこちない手つきが愛おしくてたまらない。
 最高の恋人に仕掛けたドッキリ作戦は見事大成功を収めたのです!