ぺトリコールに焦がれる

■ ■ ■

 雨の中に君を見つけた。袖笠雨は君を狙わず、君を濡らす。毛先から滴り落ちる水滴は、君のものか、収まりきらなかった雨か。
 君は雨がよく似合う。今日のような、さらさらとした雨がよく似合う。傘を差さないのは、忘れてきたからなのか、わざとなのか。

「……環先輩」

 柔らかな雨に打たれる君をもう少し眺めていたかったけれど、風邪を引いてしまっては元も子もない。君の背後から大きめの傘を差し出せば、こちらを振り向くのとほとんど同時に俺の名前を呼んだ。

「風邪、引くよ」

 情けないことに、絞り出した声は僅かに震えていた。君は何も言わずに俺を見る。雨の音だけが聞こえる。
 前髪から下りた雫が君の額を、瞼を、頬を、迷いなく伝う。思わず目を逸らしたくなってしまったが、菫色をした双眸がそれを許さなかった。
 まるでこの世界には俺と君しかいないのではないかと錯覚した。雨の音の中に、君の息遣いが聞こえる。
 君は小さなその手で俺の手を掴んで、近くに見える丸い屋根の建物へと誘導する。君を濡らさないための傘は、いつの間にか俺のためのものに逆戻りだ。

 君は雨がよく似合う。

 俺が傘を閉じれば、君は身体に張り付くスカートの裾を持った。首筋まで下りていた水滴は、制服の中に落ちる前に君の取り出した薄いレースのハンカチによって吸収された。そのときちらりと見えた鞄の中には、刺繍が施された折り畳み傘がひとつ。

「雨、好きですか?」

 一際鮮やかな君の唇から、久しぶりに声を聞いた。その問いは他の誰でもない、もちろん俺に対して投げかけられたもの。突然の言葉に戸惑いを隠せず、君の横顔をただ見つめる。君は俺の答えを聞く前に、長い睫毛を伏せた。

「雨の匂いが、する」

 君の言葉に、俺は余すことなくその匂いを肺に取り込んだ。君の言う通り、雨の匂いがする。独特な匂いが鼻をつくが、不快感はまるでない。むしろいつもより心地よく感じるのに、隣に君がいるのは関係あるだろうか。
 雨は止むことを知らない。屋根から落ちる雨だれに手を伸ばして、先刻俺に向けた問いに対して自答した。

「私は、好き」

 今もまだ降り続ける雨に向けられた言葉を、俺に向けられたものとして都合良く解釈する。君の紅潮した頬が、目に焼き付いて離れない。
 君は解けかけていたネクタイを結び直す。不器用な手つきが愛おしい。上手くいかなくて諦めた君は、普段は上まで留めたシャツの第一ボタンを外した。思わず目を逸らした先で、紫陽花の葉がまた別の紫陽花の萼に雨粒を落としていた。短い間隔を空けて、何度も、何度も。

「俺も、好きだよ」

 自分が発したまるで恋愛ドラマの一場面のようなセリフに、つい恥ずかしさがこみ上げる。君はそんなこと微塵も考えていないだろう。横目で君を見ると、君もまた俺を横目で見ていた。視線が絡めば、今度は君が目を逸らした。先程よりも赤く見える頬を誤魔化すかのように、耳に柔らかそうな横髪をかけた。しかしそのせいで君の耳まで染まっている様子が目に飛び込む。これは気のせいか、そうでないのか。
 君は俺から視線を外したまま、水を含んだ朱色の唇をゆっくりと開く。

「雨が好き、なんですよね」

 髪の隙間から覗く君の瞳は俺を見ていた。雨は好きだ。普段見れない君の姿を見ることができるから。思いがけず、君と過ごす時間が生まれたから。
 君の言葉は正しい。けれど一つ訂正をするなら――

「雨も、好きなんだ」

 髪を弄る君の手が止まった。俺はまた視線を逸らして、紫陽花が落とす雨滴を追う。

 お互いに目を合わせることなく、雨の音だけがいつまでも聞こえる。


2022.07.22