天蓋の鏡

■ ■ ■

漢字ふりがな「あ?」

 目の前の男が私を一目見てその夕焼けを映した眸をわずかながらではあるが丸くしたのは、この髪のせいだろう。とは言え、この男のことだ。そのまま素通り。そんなこと私がさせるわけない、というように、男が私の横を通りすぎるより先に口を開いた。

「あやこちゃんがくれた」
「あっそ」
「いいでしょ」

 いつもは下ろした髪をひとまとめにしている。田噛が一瞬硬直してしまったのは、紛れもなくこの簪のせいだ。あやこちゃんに貰ったのは、空色をしたとんぼ玉が先に付いたもの。本当に青空みたいで、透き通っていて綺麗な硝子。いつも下ろしてたけど、戦闘ともなるとたまに邪魔になるので、そう考えればこうしてまとめるのもいいな、なんて思うのだ。

「お前今日任務は」
「非番。困ったら呼んでよ」

 いいでしょ、という私の言葉なんて無視して、相変わらずの無表情でそう言う。まあ田噛のことだし、私のことなんか頼らないでしょうし、頼る前に片付けるか、その場にいる誰かにやらせるでしょうに。非番は非番だけど、なんとなく、着る服を考えるのが面倒なのもあって、海松色をした制服に身を包んでいる。まあ、やることがないので、報告書を見直させてもらうか、キリカさんの手伝いをするか、獄都をぶらぶらするか、そんなところだ。田噛は今日もまたあのうるさい平腹と任務らしいので、お疲れ様、と声を出さずに伝える。
 けれど、様子がおかしい。いつもなら「だるい」の一つくらい、そのへの字口から零して、ツルハシ片手に任務に出るはずなのに、今日はそんな素振りなんてない。何故だか、田噛に見られている。もしかすると朝食の鯖の味噌煮の味噌が口にでもついているかしら、なんて思ったけれど、先程鏡でしっかりとチェック済みだし、そんな考えはすぐに宙に消えた。しかしまあ、いくら考えても佐疫や目の前の田噛のように頭が回らない私では答えが導けそうになかった。降参だ。

「何? 任務行かないの?」
「……」
「田噛」
「……うぜぇ」

 だるい、じゃなくて、うざい。どうしたことかと考えを巡らせる前に、田噛の腕が私の顔――否、髪に伸びて来たかと思えば、綺麗にまとめていた髪がしゅるり、と解けた。どうやらまとめ髪は田噛のお気に召さなかったのか、空色をした簪は彼の手元にあった。

「やだ、返してよ」
「……」
「似合わなかった?」
「似合わねぇ」

 おかしいな。さっき食堂で皆に会ったときは、結構好評だったのに。佐疫や木舌はもちろん、斬島ですら「似合ってる」の一言をくれたのに、何がそんなに気に入らないんだか。それとも単に、朝から平腹に叩き起こされてご機嫌斜めなだけなのか。まあ、それは日常茶飯事だとは思うけれど。とは言うものの、田噛一人の機嫌ごときでせっかくの綺麗な簪を取り上げられる私の身にもなってほしい。

「返しなさい」
「知るか」
「知るかじゃないの」
「あー、はいはい」

 目の前の男は小さく舌打ちをして、館を後にした。私が行ってらっしゃい、という前に。田噛に解かれてしまった髪を手櫛で整えると、再度私の手元に無事に戻ってきた簪でひとまとめにした。しかしまあ、一体何が気に入らなかったのだろうか。私は何を隠そう、田噛に好意を抱いているので、「似合ってる」、あわよくば「可愛い」なんて言う言葉を淡く期待していた。まあ、田噛にそんなに気の利いたことは言えないのは百も承知であったが、まさか直球に「似合わない」なんて飛んでくるとは思わなかった。そんなことで悩んでいても、仕方がないので、両頬を軽く叩いて、自室に戻って報告書の見直しをすることにした。

 ☓☓☓

「ねえ苗字」
「ん、どうしたの?」

 今日はどうやら平和なようで、することなくチェス盤を眺めていた私は、同じく非番の佐疫と一局お手合わせしていると、ポーンを二マス進めた目の前の男に不意に声をかけられた。

「田噛まだ帰ってこないの?」
「私に聞かないで……って、もうそんな時間か」

 そういえばちらほら、谷裂やら斬島やらが帰ってきたのを見たような気がする。気がするというか、平腹まで姿を現したのだから、間違いないだろう。確かに、平腹が帰ってきていて田噛が帰っていないのは妙だ。任務が一緒になったことが度々あるが、亡者を冥府に送り次第、あの男は真っ先に帰ってしまうのだから。何かあったのかしらと心配するのは、好意を抱いているのもあるけれど、仲間の安否は気になるものであるからだ。もしかしたら死んでるんじゃないか。回復に時間がかかってるんじゃないか。そうして考え込んでいた私を見た佐疫は、私を数秒見つめると、「チェックメイト」と。

「あ、……もう、本当に佐疫には勝てない」
「いや、いいゲームだったよ。……それより、」

 佐疫は私の横に回り込むと、人差し指で静かに髪を留めている硝子の部分に触れた。田噛と違って、決して解くことはしなかった。

「これ、田噛は何て?」
「えっ、なんで田噛、」
「んー、苗字って自分が思うよりわかりやすいんだよ」

 そう言うと佐疫は眉を下げて柔らかく笑った。斬島や平腹は気がついてないだろうけど、なんて付け加えて。なるほど、つまり隠していたつもりの今日の私の感情の起伏とか、今までの田噛への好意とか、全部全部目の前の佐疫にはお見通しだったのだろう。それもそのはず、誤ってビショップを前に進めた時点で察することはできただろう。

「田噛、さ」
「うん」
「似合わないって言った。皆褒めてくれたのに、一番褒めてほしかったのに」
「あー、まあ、ね……」

 一緒に原因を考えてくれるかと思った目の前の男は、あたかもその原因がわかっているかのように苦笑い。もしかして本当は似合ってなかったんじゃないかって、そう思ったから、棒を引こうとした。けれど、佐疫の訂正によりその手は止められた。

「あ、違うよ。似合ってないとかじゃなくて」
「いいよ気遣わなくて」
「いや、……うーん、やっぱり直接聞く方がいいかもね」

 直接聞く。私に? 誰に? そう思っていると、佐疫は目を扉の方に遣った。誰がいる、というわけでもなかったけれど、間違いなく気配がした。誰かいる気配、というか、誰かいた気配。長く想っていた私にはそんなのすぐに誰だかわかってしまったので、佐疫の方を振り返って頷き一つ、佐疫も合わせて頷いて、それを確認するや否や私は扉に手をかけた。

 ☓☓☓

 扉を開けると、誰の姿もない、ことはなくて、少し先で壁に身体を預けている男を目にした。

「田噛、」

 私に視線を向けてから、少し逸らして、また合わせる。私は壁にもたれかかる田噛のもとに駆け寄った。

「おそ、かったね。心配した」
「アホか。そんなヘマしねえ」
「うん、知ってる」

 本当は、少し不安だった。今すぐに田噛に抱きついてしまいたいくらいに。けれど、恋仲なんかではない私には、そんなことする資格もないし、もし仮に恋仲だったとするならば、田噛はそういうのは鬱陶しがるだろうから。
 それから、沈黙。時計の秒針の音だけが、この廊下に響き渡って、それが一層静けさを強調しているような。しかし、田噛が任務から帰ってきて、自室に行かず、食堂に行かず、お風呂に入らず、この廊下でしゃがみこんでいたのは何か理由があるのだろう。現に彼は、どこかに行こうともしない。どうしたの、なんて聞こうとしたけれど、また面倒臭がられるかな、とか、そういう消極的な考えが巡って口を噤む。
 さて、この沈黙をどのように破ろうか。何なら私が自室に戻ろうか。そうすればより気まずくなるだけだろう。では、何を話すべきか。意外にも、先に口を開いたのは目の前の男だった。

「苗字」
「……え?」
「それ、似合わねぇっつったろ」
「……ああ、これ」

 そんなに似合わないんだったら、もう明日から着けないようにするか。やっぱり、佐疫や木舌の言葉はお世辞だったのか。斬島もお世辞が言えるようになったなんて、まさかの成長だ。そんなことに感心している場合ではなく、どうしようもなく涙というものは溢れてくるものだ。また、鬱陶しがられる、なんて思って必死にそれを飲み込む。ああ、私、思ってるよりショックを受けていたんだ。あやこちゃんに貰った、綺麗な綺麗な簪。今度は私からそれを引いて解くと、胸ポケットにしまった。

「あー、……悪い」

 下を向いて、涙が零れないようにしていると、頭上から声が降ってくる。まさか謝られるなんて思わなかった。謝らなくていいのに。似合っていないのなら、何もつけない方がいいだろうに。それに、田噛が私に謝るなんて。滲む視界をわずかに上に向けると、夕焼け色をした眸――ではなく、硝子玉がそこにあった。よく見慣れた夕焼け色ではなく、人工物であろう夕焼け色だ。夕焼けを映した硝子が控えめに主張をした、簪。

「なに、これ……どうしたの」
「悪かった」
「何が……」

 少しずつ涙がおさまって、鮮明になってきた視界。下を向けていた顔を上に向けると、髪をがしがしと掻いて、またしてもお得意の舌打ちをした田噛はそれをさらに差し出した。

「……くれるの、これ」
「……ああ」
「似合わないって……言ってたのは」
「あの色だよ。気に食わねぇ」
「あの色って、」

 空色。はっとして、ぼやけた思考を巡らせる。空色、と言えば。空色の眸をした佐疫を連想させるから、なのかしら。都合良く解釈さえすれば、この夕焼け色って、目の前の。

「田噛、嫉妬したの?」
「あ? ……うるせぇな」
「田噛って、嫉妬す」
「うぜぇっつってんだろ。早くしろ」
「ごめんって」

 早く、と催促された私は、田噛と同じ、夕焼けの色をしたその簪を受け取ると、手早くひとまとめにした。そういえば、キリカさんが何か言っていた気がする。何だっけ。思い出せない。

「器用なもんだ」
「田噛もできるよ。……似合う?」
「ああ、まあ、可愛い」
「か、わ!?」

 田噛の口から、可愛い。聞き間違いなんかじゃない。気のせいか、彼の頬が染まっている。もう一回、と強請ろうとしたとき、ある会話が記憶の底から思い起こされた。


『苗字ちゃんは、男の人から女の人に簪を送る意味って、わかる?』
『意味なんてあるんですか?』
『あら、現代っ子ね。ふふ、意味あるのよ。それはね――』


 顔に熱が集まる。いや、まさか田噛がそんなこと考えるわけない。何の音も発さずに口を動かす私を見て、田噛は「何してんだ」なんて言った。もしかすると、田噛は意図していないかもしれない。でも、私にはいっぱいいっぱいだから。やられっぱなしは堪らないので、私は一度胸ポケットに入れた簪を田噛に差し出した。

 ☓☓☓


『おや兄ちゃん。プレゼントかい』
『あー、まあ』
『若いっていいねぇ。上手くいくといいねぇ』
『……あ?』
『兄ちゃん、簪を贈る意味知らないのかい。男が女に簪を贈るのはね、―――。』
『……は? …………あー、じゃあそれで』


2023.08.10