覆水盆に返らず



薄暗い部屋に、一筋の光が射しこんだ。
扉を開く音と共に、軋んだ床を鳴らさぬようにと慎重に足を踏み出す足音。息を潜めた気配が、ゆっくりと近づいてくる。
そして、その人影は部屋の中心に横たわっている人物へと手を伸ばし―

「……おい、何してる」
「…なんだ先生、起きてたんだ?」

部屋の主である尾環煙によって、その手を掴まれた。
その途端、周りがふわりと明るくなる。
埃っぽい天井と床に、積み上がった魔術所の類。散らかった用途すら分からない魔法道具。本や床にはあちらこちらに得体の知れない薬品の紙魚がついている。
その本の山に埋もれたソファの上で目を閉じていたのは、この部屋の主であり、この研究室がある学校の教師でもある、尾環煙である。
彼はいつもの不機嫌そうな表情をさらに曇らせ、目の前の人物へと視線を向けていた。

「先生の寝顔を見てただけだよ」

そう言ってくすくすと楽しそうに笑うのは、彼の教え子でありこの学校の生徒の一人である織部千歳だ。
艶のある黒髪はゆるく肩の辺りで結ばれており、白い肌に透き通るような織部色の瞳には長く伏せた睫毛によって薄らと影が出来ている。
少し高めの声と相まって、少女とも見紛うような中世的な容姿をした彼は、しかしれっきとした男性であり少年である。
千歳は顔を顰めている煙とは対照的に酷く楽しげだった。彼が指をパチン、と鳴らすとソファの上にあったいくつものクッションの中から、ふわりと一つが浮き上がり彼の腕の中に納まる。
それを見ていた煙はというと、険しい表情のまま深く溜息をついて千歳の手を離し、ソファからのっそりと立ち上がった。

「見てただけ、なら手を伸ばす必要はないと思うが」

どうせ大方寝ている煙に悪戯のひとつでもしてやろうと思っていたのだろう。と、そんなことを考える。
皮肉のつもりで言ったその言葉だったが、千歳は笑うでもなく煙から少し目を背けた。
彼のその行動に、煙は少しの違和感を覚える。いつもの彼ならば、笑ってばれちゃった、とでも言いそうなものだが。
しかし煙が視線を向けていることに気が付くと、千歳はいつも通りの笑みを浮かべ煙が先ほどまで座っていたソファへと腰かけた。

「だって先生が僕の定位置で寝てるから」

そこに居たら僕が寝れないじゃん。彼はそう言いながらクッションを両手でぎゅっと抱きしめると、まるで猫のようにソファへと寝転がり煙を上目づかいで見上げる。今ここに女子生徒や教員が居ようものならたちどころに彼に心を奪われてしまっていることだろう。

「ここは俺の部屋だしそこはお前の場所じゃない」

しかし相手は成人男性の煙である。その上、幸か不幸かこうやって千歳がねだるような仕草をするのはすっかり慣れてしまっているのだ。
煙は呆れた目で千歳を見下ろすと、彼が手にしているクッションへと目を遣った。

思えば、随分とこの部屋にも千歳の私物が増えた。彼が今手にしているクッションもその一つだ。緑色のそれは、ソファに転がっている他のクッションよりもいくらか綺麗で、まだふかふかとした綿の感触を残している。
最初は、彼が勝手に持ち込んだマグカップだった。いつの間にか煙の研究室へと入り浸るようになった彼は、煙がある日気まぐれで出した紅茶の味がいたく気に入ったらしく、それから来るたびに煙に飲み物をねだるようになった。
勿論煙も最初は相手にしていなかったのだが、紅茶の代わりに他の授業に出ることをチラつかされ、渋々出したのが間違いだった。
煙が淹れる所を見ていたのか、いつの間にか千歳は自分で紅茶を準備し、我が物顔で飲むようになった。
隠しておいたとっておきの紅茶を飲まれた時は頭を抱えたものだ。

それから、彼は煙の研究室に色んなものを持ち込むようになった。
紅茶と共に食べるお菓子、暇つぶしの本、クッション、ブランケット、…挙げるとキリがない。
最初は持ち込まれる度に苦言を呈していた煙だったが、その内諦めて絶対に部屋を汚すなという条件付きで好きにさせることにした。
置かれた当初こそ違和感のあったそれらだったが、千歳が卒業を控えた今、それらもすっかりこの部屋に馴染んでしまっている。

(…馴染んだ、といってももうすぐ無くなるんだが)

そう、そのことを考えると、最近どうにも落ち着かなくなるのだ。
それはやっと厄介な生徒から解放されるという安堵なのか、それとも。

「いいじゃん、僕がここに来るのも後ちょっとなんだから」

―彼が居なくなることが、寂しいのか。
その答えに辿り着きかけた煙は、慌てて頭からその考えを振り払い、額を抑える。

「……、お前、卒業試験の勉強はしてるのか」
「えぇ?僕が受かるのなんて分かってる癖に」

そう言って、千歳はまたくすくすと笑う。目を細めて笑うその仕草は、本当に少女のようだ。
煙はその返事には言葉を返さず、ただ呆れた表情を浮かべて部屋にある革張りのチェアへと腰かけた。
元々、千歳が来なければソファで仮眠を取るつもりだったのだ。卒業試験があるとなっては普段は授業以外の業務は断っている煙も何もしないわけにはいかず、いつもの数倍の業務をこなしている。
煙はデスクの上に置いてある動物の装飾がされた杖を手に取ると、ソファに向けて軽く振った。
するとすぐに煙が普段使っているブランケットが手元へとやってくる。すっかり煙草の匂いが染み付いてしまったそれを自分の身体に被せると、煙はもう一度千歳ヘと視線を移した。

「俺は寝る。起こすな」

それを聞いた千歳はと言うと、一瞬つまらない、とでも言いたげな表情になったものの、すぐににんまりとした悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「じゃあ先生が寝てる間に何しても―」
「いい訳ないだろ。したらお前の宿題だけ二倍にしてやる」

その言葉に、えーっと千歳は声を上げるが、きっと彼にとってはその程度の宿題など本当は簡単に終えられる量なのだろう。現に、未だに彼の瞳には何かを企むような光が揺れている。
しかし、千歳は煙が本当に嫌がることはしない。聡明な彼の事だから、超えてはいけないことも、きちんと分かっているのだろう。
煙は彼に振り回されてはいるが―その反面、彼の事を信頼してもいるのだ。

「勝手に茶でも飲んでろ、飽きたら帰れ」

そう言って、煙はチェアにもたれかかり、目を閉じる。
疲れていたのか、目を閉じるとすぐに眠気が襲ってきた。
部屋の中で千歳が動く気配を感じるが、すぐに思考が融けていく。彼が何かを言っているような気がしたが、煙には既にその言葉は届いていなかった。


*


せんせい、と呼ぶ声がした。
目は開けられないが、千歳のものなのだろう。いつもより柔らかく感じるその言葉に、酷く心地の良い気分になる。
夢でも見ているのだろうか。きっとそうだろう、彼がこんなふうに煙の名前を呼ぶことはまずない。
目の前に彼が居るような気がした。しかし、考えることもままならず、体も動かない。
頬に、何かが触れる。幼い子供のように温かいそれは、誰かの手だろうか。
少し遠慮しがちに撫でるような仕草をするそれに、思わず擦り寄りそうになる。それほどまでに、気が緩みきっていた。

やがて、手が離れていく。そして、その気配はゆっくりと近づいてきて―


*


再び煙が目を開くと、部屋の中は千歳が来る前と同じように薄暗かった。
一瞬、千歳が来たこと自体夢だったのだろうか、と思いそうになる。
しかし、煙がソファの方へと目を向けると、千歳が使ったブランケットが綺麗に畳んであり、ソファのすぐ傍にある机には一人分のマグカップが置いてあった。
確かに彼はここに居たようだ。外を見ればもう大分薄暗くなっている。大方煙が起きてこないのに飽きて、寮に帰ったのだろう。
そこまでは煙でも理解できた。しかし、どこまでが現実で―どこからが、夢だったのだろうか。

(…いや、……俺はなんて夢を、…)

あれが現実だったはずがないのだ。彼が、そんなことをするはずがない。
必死に抑えようとしても顔に熱が集まる。どうしようもない感情の行き場が、行く当てもなく、甘ったるくこの部屋を満たしているような気がした。
本当は、薄々気づいていたのだ。自身が千歳を生徒以上に特別に感じていることも、彼が居なくなるのが寂しいのが、教師と言う職務によるものではないことも。
しかし、そんなものは存在してはならない感情だ。あってはいけないことだ、と、煙は考えることを止めていた。
そうやって、そのまま千歳の卒業まで待って、そうして。
過去の事だと、過ぎてしまえば何の問題も無いのだと、自分に言い聞かせていたというのに。

深く、深く溜息をつく。それで少しは気持ちが落ちついたが、一度溢れてしまった感情は、どうすることも出来ず。煙は忙しない仕草で煙草へと手を伸ばす。
いつもは慣れた手つきで行えるはずの仕草が、酷くもどかしかった。咥えた煙草に火が灯ったのを見て、ようやく安心することが出来た。

「……、夢だ、早く忘れろ」

そう呟いて、煙は深く煙草の煙を吸うと、まるで彼への感情を全て吐き出すかのように、酷く長く息を吐いた。
煙が、ゆっくりと室内を満たしていく。行き場を無くした感情を掻き消すかのように、覆っていく。
その煙を見つめながら、煙は静かに目を伏せた。

…すっかり吸い慣れたはずの煙草の煙に噎せたのは、彼と、彼の精霊しか知らないことである。



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