耳障りな音が、部屋の静寂を遮る。
煙_尾環煙は、気怠げな表情を浮かべながら手に持っていたフラスコを置いた。
目線の先は、音の原因である_ピイピイと甲高い音を立てている薬缶である。
薬缶が音を立てる原因など、一つしかない。お湯が沸騰したのだろうとは分かっていたが、煙は薬缶を火にかけた覚えは無かった。
となると、それをしたのはこの部屋に居る、もう一人しか考えられないだろう。
「……おい」
ボソリと低い声で呟く。いつから咥えていたのかも忘れてしまった煙草から、ポロリと灰が落ちて床を汚した。
返事は無い。ただ、薬缶がけたたましく鳴り続けている。
煩い音は好きではない。それならば最新型のケトルでも買えば済む話なのだが、赴任当初から使い続けている錆びついた薬缶には愛着がある。
この部屋には、そんなものばかりだ。雑然としているが、一つ一つがあるべき場所に存在しているのだ。
ただ、今煙の頭を悩ませているのは、この部屋にはそぐわない_少年の存在だった。
「………織部」
もう一度、呼んでみる。
またもや返事は無かった。しかし、煙の耳に微かな音が届く。くすくすと楽しそうな、息を漏らす音。
煙は溜息を吐きながらぐしゃぐしゃと自身の頭をかく。そちらを向くのは彼の思うツボだと分かっていていたが、そうする以外ないのだろう。
音は止まない。
眉間に皺を寄せながら煙がゆっくりと振り返ると、そこにはやはり楽しそうに笑う彼_織部千歳が、座っていた。
綺麗な織部色の瞳が、悪戯な光を含んで弧を描いている。
「お前な、」
煙が吐きだした言葉は、続けられなかった。
それを遮るように、少年特有の少し高い千歳の声が返される。
「先生、人を呼ぶ時はちゃんと名前で呼んでよ。可愛い生徒でしょ?」
「……お前は可愛くないから呼ばん」
呆れた顔(煙がこの顔をすると十中八九他の生徒は怖がる)で煙が彼を見ると、千歳はちぇっ、と唇を尖らせた。
ついと横を向いた顔に、窓からの日差しが当たる。彼の黒髪は元々白いであろう肌を更に際立たせて、光を反射する瞳はまるで宝石の様に美しかった。
_千歳がここにやって来るようになったのは、いつからだったか。
つい最近の事の様であるし、もう随分昔からのようにも感じる。
最初はすぐに飽きるだろうと思っていたのに、いつしか彼はまるで自室に帰ってくるかのようにこの部屋にやってくるようになった。
一番下は何年前のものかもしれない研究資料に、机に染みついた薬品の汚れ。換気しても消えない薬と煙草の香り。
部屋のあちこちに張られた蜘蛛の巣。その他、人が寄り付かない原因多数。
その部屋に相応しいのは、草臥れた白衣に、履き潰された革靴。ぼさぼさの髪型に、深く刻まれた隈。まさに、煙のような存在だろう。
それ故に、目の前の整った顔立ちをした千歳は_余りに対称的で、釣り合わなかった。
チラリと彼が座っていた机の傍を見てみると、そこに積み上げられていた研究資料の上に、本棚に突っ込んでいた筈の変身術の本が乗せられている。
「火、止めとけよ。茶が飲みたいなら勝手に飲め」
「えぇ、先生が淹れてくれたお茶がいいなあ」
ね、と小首を傾げる姿はそれはそれはもう計算された可愛らしさで。女生徒であれば何でもしてあげたいという気持ちになるのかもしれない、が。
残念ながら煙は教師であるし男である。おまけに普段から悪戯という名の迷惑行為をされまくっている彼にはデコピンの一つでもしてやりたいという感情くらいしか沸かない。
本当にデコピンでもしてやろうかと煙が画策していると、ふと耳障りな薬缶の音が止んだことに気付いた。
「あ、先生が隠してたこの紅茶使うね」
再び目の焦点を彼に合わせれば、目の前の千歳の元へふわりふわりと紅茶の缶がゆるやかに浮かんで向かっていく。
その紅茶は、煙が少し前に奮発して買ったものだった。戸棚ではなく、机の抽斗の奥にしまっておいた筈のそれが、千歳の手に収まる。
「……どっから見つけてきたんだ…」
煙が思い切り苦々しい表情をすると、千歳は嬉しそうに笑った。…デコピンじゃなくて、精霊術で今すぐこの部屋からコイツを叩きだしたい。
「紅茶はちゃんとした所に保管しとかないとダメだよ先生。先生の机なんかにしまってたらキノコ生えちゃうよ」
「余計な御世話だ」
そう言いながら、煙は口に咥えていた煙草を手近にあった灰皿に押しつける。積み上げられた吸殻の上に、それは綺麗に収まった。
それから、千歳の手にある紅茶の缶に指を向けると、すくいあげるように指を折り曲げる。再びふわりと浮いたそれを、煙は手に掴んだ。
「……後な、こういう下らんことに魔法を使うなといつも言ってるだろ」
千歳が魔法で止めたのであろう薬缶へと足を向けようとすると、彼がつまらなそうに呟いた言葉が聞こえた。
「…先生は使ってる癖に」
「俺は大人だからいいんだよ。大人は覚えた近道を楽して使うんだ」
何それ、と不満げな千歳の声が背中に届く。彼は優秀だ。だから、子供扱いされるのが気に食わないのだろう。それは分かっていた。
(_ただ、お前にはまだ何でも出来る可能性があるんだから)
自分の力だけで覚えてほしいことが、沢山ある。
優秀であるが故の裏に潜む、諸刃の剣の様な危険性。それらから、少しでも彼を守ってやりたいと思う。
そんなことを言えば、彼はもちろん嫌がるのだろうけれど。自分も随分説教臭い大人になってしまったものだと、煙は煙草交じりの皮肉気な吐息を漏らした。
「茶飲んだらもう行けよ。次の授業、抜き打ち小テストするからな」
茶葉をティーポットに入れながら、千歳に声をかける。
千歳は煙が紅茶を淹れる準備をし始めたことに嬉しそうな表情を浮かべていたが、テストという言葉を聞くとほんの少しだけ苦笑いした。
「先生のテスト、難しすぎて全然小テストじゃないって皆言ってる」
「バーカ、簡単にしてどうすんだよ。困ってる生徒の顔を見るのが教師の務めだろ」
うわ、性格悪いなあ。
そんな千歳の言葉を無視して、煙は戸棚からティーカップを取り出した。
この部屋にある唯一の、彼のものではない物。けれど、それは不思議とこの部屋に昔からあった物の様な気がした。
(…いつか、コイツもこの部屋に在るべき存在に、なるんだろうか)
現実には、それはあり得ないのだろう。彼は生徒で、成長してこの学校を去ってゆく存在だ。
けれど、煙には何故か_その姿を、想像できなかった。何故なのかは、分からない。
「ねぇ、テストどこ出すの?教えてよ」
「誰が教えるか阿呆」
楽しそうに笑う千歳の姿は、やはりこの部屋には似合わない。煙の心のどこかで、煙草の煙の様に_何かが、ゆっくりと溜まってゆく。
揺り動かせば、零れてしまいそうな。
その感情に彼が気付くことは、未だ無い。