運命と呼んだ




一昔から、動物が好きだった。

言葉は通じなくとも触れ合って意思疎通を量ることができるし、人間のように嘘を吐いたりすることもなければ、愛情を注げば自分のような見た目の男でも懐いてくれる。
それはどんな種類の動物においてもだったが、特に好んだのは自分よりも小さな生き物だった。
彼らの円らな瞳や暖かい体温、自分よりも小さな体躯を見ると、自分が守ってやらなければ、という身勝手な責任感に囚われていたものだ。
いつだったか、幼い頃に一度だけペットを飼ったことがあった。
遠い昔のことだが、よく覚えている。小さくて毛足の長いモルモットで、艶のある黒い毛並みだった。今思い返せばあれは実験用に育てられているような短命のものだったに違いないが、それでも当時の一家族を疑うことも知らなかった俺は、名前をつけてとても可愛がっていた。可愛がりすぎて、勉強が疎かになり叱られたほどだ。

ただ、あんなに可愛がっていたはずなのに、別れの時が思い出せない。一体、いつ、どこで別れたのだったか一

*

何かが落ちる音で目が覚めた。

(…何か、夢を見ていた気がするが…)

思い出せない。しかしあまりいい夢ではなかったように感じる。
覚醒しない靄がかった頭で起き上がれば、 そこはいつもの見慣れた研究室だった。
辺りを見回すと、 先程まで積み上がっていたはずの書類の山が雪崩を起こし、床に散らばっているのが見える。恐らくソファで眠っている間に倒してしまったのだろう。 煙は溜息を吐きながら立ち上がると、そちらへと足を向けた。
踏まないように、書類を拾い集める。恐らく中には不要なものもいくらかは混じっているはずだったが、それらを確認するのも面倒だった。
窓の外へと目を向けると、空はまだ明るい。寝過ごしたかと思っていたが、太陽の位置を見る限り恐らくまだ昼頃なのだろう。
午後の授業まではまだ時間があるはずだ。煙は手にした書類の山を適当に机の上に置くと、そのまま研究室の扉を開けた。

*

草木の間から差し込む光が敗しい。 煙は目を細めながらベンチへと腰かける。
煙しか立ち入らない中庭に設置されているこのベンチは、随分と長い年月を過ごしているのか、すっかり古くなってしまっている。ペンキの色は剥げ、蔦が絡まり、 座るとギシギシと軋んだ音を立てる。明日にでも壊れてしまいそうな古びたものだったが、煙はそれが気に入っていた。

日差しが暖かい。 煙草を吸いに来たはずだったが、春の陽気に当てられて思わずぼんやりとしてしまう。 新緑の香りが肺を満たしていくようだった。
よく見れば、この手入れされていない中庭にも、ちらほらと花が咲いているのが見える。煙はあまり植物には詳しくなかったが、眺めていて悪い気分になるものでもなかった。
どうせなら、精霊たちが過ごしやすくなるような植物でも育てた方がいいのだろうか。 ああいう生き物は、綺麗な環境の中でしか生きられないものだ。(勿論、例外も居るが)
そんなことを考えながら中庭を見渡していると、 植込みの内の一つがガサガサと音を立てて揺れていることに気付いた。

「……」

また、動物が迷い込んだのだろうか。 害のない生き物ならば問題は無いのだが、 稀に凶暴な魔法生物が抜けだしていることもある。

煙は音を立てて軋むベンチから立ち上がると、そちらへとゆっくりと近づく。 屈み込んで音のした辺りをじっと見つめていると、 暗闇の中光る双眸と目が合った。

にゃあ、と鳴き声を上げて、音の正体が姿を現す。そこには一匹の黒猫が佇んでいた。

その姿を見た途端、思わず自身の表情が緩むのを感じる。普段生徒や同僚には絶対に向けることがないであろう声でおいで、 と呼ぶと、警戒しているのか黒猫は戸惑った様子で煙を見上げた。
人に慣れていないのか、それとも自身の顔が怖かったのだろうか。煙はもう一度できる限りの優しい声と表情で呼びかける。すると、黒猫はおずおずとした様子で煙の方へと近寄ってきた。

手を伸ばすと、すり寄るように煙の手のひらへと類を寄せてくる。そっと触れると、さらさらとした整った毛並が煙の手のひらに触れた。そのまま優しく包み込むように頬を撫で、 顎の下へと手を滑らせる。ゴロゴロと喉を鳴らす仕草を見ていると、思わず笑みが零れた。
どうやら人に慣れていないというわけではなさそうだ。煙がそのまま暫く撫でていると、黒猫はますます気持ちよさそうに目を細めてすり寄ってくる。空いている方の手で背中を撫でてみるが、嫌がらない。野生の動物ならば、近づいては来ても撫でようとすると逃げてしまうものだが。

煙は少しの間逡巡すると、 両腕で包み込むように黒猫を抱き上げた。
抱き上げられた黒猫はと言えば、 少しの間固まってはいたものの、暴れて逃げ出すようなことはなく。再びにゃあ、という鳴き声を上げて煙へと顔を向ける。

「…どうした?」

返事がないのは分かっていたが、思わず声をかけてしまう。
抱きかかえたまま再び類を撫でると、 黒猫は甘えるように声を上げた。
改めて見てみると、 随分と毛艶のいい猫だ。首輪こそしていないが痩せ細ったり太りすぎてもいないし、黒い毛並は手触りが良くさらさらとしている。顔つきも随分愛らしく、 女子生徒が見ればそれこそ黄色い声を上げて可愛がりそうなタイプだ。 恐らくどこかの生徒か教師の飼っているペットが逃げ出したのだろう。
瞳も随分綺麗な色だ。 緑、と言ってしまえばそれで終わりだが、もっと独特の深みがある。この色は、何と言うのだったか、確か一

「……、織部色か」

思い出したその色の名前を口にすると、手の中の黒猫がピクリと反応した。煙も驚いて、 思わずそちらを見つめる。
まさか本当に、その名前で呼ばれているのだろうか。しかしもう一度呼んでみても、今度は反応することなく煙の腕の中に顔を埋めている。
ただ単に、声に反応しただけだったのかもしれない。 少し残念に思いながらも、煙は腕の中の小さな黒猫を愛おしげに撫でた。

(そういえば…、)

ふと、思い出す。確か研究室に、 猫用のおやつがあったはずだ。 この中庭に動物が紛れ込むことは珍しくない。そのため、煙は自身の研究室に様々な動物の餌を持ち込んでいた。
本来ならばあまり餌付けするのはよくないと分かっていたが、どうせ誰かのペットだ。ここに居つくわけでもないだろう。
煙は腕に抱きかかえた黒猫をそっと地面に下ろす。そしてもう一度だけ頭をひと撫ですると、 ちょっとここで待ってな、 と声をかけて踵を返した。

そうして煙がおやつを手に戻ってきた頃にはあの美しい織部色の瞳を持つ黒猫は居なくなってしまっていたのだが一、 それが彼と煙のはじめての出会いであり、その出会いが自身の運命を大きく変えることなど、その時の煙は知る由もなかった。

*

甘えるような、かわいらしい鳴き声が聞こえた。
ゆっくりと目を開けると、 煙の目に一匹の黒猫が映る。それは美しい織部色の瞳をしていて、煙の体の上に乗ったままにゃあにゃあと鳴き声を上げていた。

「…千歳、どうした?」


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