汝、永遠とわの愛をここに誓え

――大蛇のようにのたうつ炎が、月も星も隠れた夜空を焦がしたせいで、その島は昼間とさほど変わらぬほど明るかった。
 ゆえに、ぬかるんだ地面に残った足跡を辿ることは造作もない。そもそも、この森を抜けた先にはあるのは断崖絶壁。そして、そこには何体もの兵士・・が待ち構えている。空に飛んで逃げぬ限りこの島から出て行く術はないが、目当ての相手にそんな手段は逆立ちしても選べない。

 逃げ場などどこにもない。
 あったとしても逃がさない。
 逃げることも許さない。
 死を選ぶなどもってのほかだ。


 島のあちこちから響く悲鳴と叫び声を背に、男は真っ直ぐ歩き続ける。一歩前へ進む度、気分はどんどん高まってゆく。今にも笑い声を上げたいところだ。

 やっと、…やっとだ!
 物心ついた時から欲しかったモノが、ようやく手に入る。こんなにも嬉しいことはない!


 また一段と足取りが軽くなる。
 足跡の主はふらふらと逃げ惑いながら、断崖へと追い詰められている。当然だ。決して逃げられぬよう、忠実な兵士達で追い込んだのだから。屈強な兵士に囲まれた哀れな獲物は、きっと恐怖に震えて泣いていることだろう。早く慰めてやらなければ。

――…やがて、森を抜けたところで、男は己の兵士達の姿を見た。海に背を向け、無感情に佇むその人形の群れの前には、地面に座り込んでうちひしがれる姿。…ようやく見つけた。


「また海へ逃げるつもりだったのか?」

 発した声は、8年ぶりの再会に感極まっていた。びくりと、その肩が揺れる。男が一歩一歩土を踏みしめる度に、遠目にもわかるほど震えが大きくなってゆく。

「海へ出れば、おれ達から逃れられるとでも?」

 海に嫌われた男は海には入れない。家族の大半がそうだ。が、海ごときに阻まれるほど、この気持ちは浅くはない。

「弟の力を、姉のあんたが見誤るとはねェ…離れていた8年の歳月は、思いの外長かったらしい」

「とても寂しかったよ」と付け足したところで、男はとうとう、地に崩れ落ちる人の真横に立った。見下ろせど、そのかんばせは見えない。それに僅かな苛立ちを覚え、男は手にしていた剣を地面に放った。音を立てて転がったそれを追って、微かに顔が動いた。そして、今度は硬直したように体が動かなくなった。一体どうしたのかと思案するが、答えはすぐにわかった。剣を見ているのだ。剣と、そこから滴る鮮血を。


「盗人の血で汚れたおれの剣が気になるか、姉さん?」
「……盗人…?」

 ようやく姉が口を開いた。掠れた小さな声だ。押し寄せて砕ける波や、冷たい風、燃え盛る炎、逆巻く悲鳴にかき消されてしまいそうだ。が、夢に見るほどに焦がれた声を聞き逃しはしない。

「あぁ。盗人だろう?おれ達の大切なモノを盗んだ。姉さんを惑わし、奪い去った。こんな“楽園”にまで連れてきて…これのどこが、盗人ではないと?」
「…惑わされてなんか……私は、自分の意思で…」
「おれ達を捨てることが、あんたの望みだったとでも言うつもりか…!?」

 怒声と共に男は姉の目の前に回り、しゃがみこんだ。俯く顔を掴んで自分の方へ向けさせる。愛しい青と視線が絡む。そこには己以外何も映っていない。それに、えもいわれぬ満足感を覚えた男…クラッカーはうっそりと微笑む。そして、姉の頬を優しく撫でた。


「しかし…相変わらず美しいな、カヌレ姉。いっそ憎らしいほどに」

 もう30も間近なのに、記憶にある少女の頃と何ら変わるところがない。これから先、いくつ歳を重ねようとも、この美貌が損なわれることはないのだろう。それを思うだけでも、やはりあの盗人は姉には相応しくない。殺して正解だった。


「…お前も、…変わらないのね…クラッカー」

 名前を呼ばれたのも8年ぶりだ。こんな状況であっても変わらぬ優しい声だ。知っているとも。カヌレは優しいのだ。その優しさこそが、兄弟姉妹がカヌレを欲する理由だった。

「会いたかったよ、カヌレ姉。8年前、姉さんがおれ達を捨てたあの日から、毎日夢に見続けた」
それが今、やっと叶った。
あの島・・・に出向いた兄や姉達は、カヌレ姉は死んだと…だからおれも他の兄弟達も、ママでさえ姉さんの死を信じた」
「…なら、なぜ……?」

 カヌレが訝しがって眉をひそめ、眉間に皺が寄った。

「ペロス兄が教えてくれたんだ。17歳になった日に、あんたが恋人と共に生き延びて、この海のどこかで暮らしていると」
それを聞かされた時の気持ちがわかるか?
「ようやく、姉さんの裏切りと死を受け入れ始めたところだったのに…」

 あの時の感情を表す言葉を、クラッカーは未だ見つけられないでいる。
 家族を裏切り、拒絶し、死んだ。それが、最愛の姉の、最悪の最期だと思っていた。しかし、実際に姉は生きていた。家族を裏切り、拒絶し、よその男とこの世界のどこかで生きている。家族がカヌレへの愛、憎しみ、淋しさ、悲しみがごちゃ混ぜになった感情で狂うその裏で、カヌレは愛と幸福に浸っている。その傍には家族の誰でもない男がいて、カヌレの愛を独占している――…それを知った弟の気持ちを、姉は一度でも想像したことがあるのだろうか。


「家族を欺き、裏切り、拒み、逃げた果てに得た生活は、幸せだったか?」

 カヌレは無言のまま目を伏せた。頬に睫毛の影が落ちる。そんな様さえ美しくて、心が乱れた。それがまた腹立たしくて、やり場のない思いに舌打ちを溢したクラッカーは、姉の顔から手を離した。そして、今度は膝の上で握り込まれた両手に触れる。固く結ばれた指先をほどきながら、「…幸せだったろうな」と続けた。

「認めるのは癪だが、…アイツはいい男だったよ。実に勇敢だった。おれの力を知っていただろうに、姉さんを庇っておれの前に立ち塞がった」
死の直前ですら、命乞いもしなかった。
「どれほど無惨に殺してやろうかと思っていたが…その勇気に免じて苦しめずに殺してやったよ。…まぁ、多少は痛かっただろうが」


 その言葉に嘘はない。確かに男は勇敢だった。決して敵わないクラッカーを前にしても、背を向けることもしなかった。それゆえに、痛めつけることも切り刻むこともしなかった。だが、男を切り捨てながら思った。

 こんな男でなければ、姉が家族を捨てるほど愛したりしなかったのに、と。

「だが、…全て過ぎたことだ。姉さんが家族を裏切ったことも、再びおれから逃げようとしたことも。起きてしまったことは、もう変えようがない」
「……」
「だから全部やり直そう、カヌレ姉。互いに全てを水に流して、昔のように家族として共に暮らそう」

 クラッカーを見上げた姉が、目を瞬かせた。そんな反応を尻目に、クラッカーはカヌレの左手を飾る指輪に触れた。近くで見ずとも、安っぽい品だとわかる。姉の引き立て役にすらならない。それが、カヌレとあの男の愛の証・・・なのだ。


「……そんなこと、お前が許しても、…ママが…」
「許さないだろうな。ママは8年経った今でも、何かにつけて思い出しては暴れ回るくらいに怒り狂っている」
「…えぇ私は、それだけのことを…」
「否定はしない。だが、おれ達は違う。姉さんを知る姉弟なら誰しも、もう一度生きて会いたいと思っている。だからみんな、あんたを探している」

 それを聞いた途端、カヌレの顔に初めて恐怖の色が窺えた。やっとわかったらしい。弟妹達が自分を追いかけていた理由と、己の未来を。

 母の為ではない。殺す為でもない。手に入れたいから、欲しいから、愛しているから追いかけているのだ。そして、海賊が手に入れたモノをどうするかは、海賊稼業を好まぬ姉でも知っていよう。


「おれは姉さんを傷つけたりしない。おれはただ、姉さんと家族・・でいたいだけだ」
「……私達は家族でしょう……血も繋がってる」
「血の繋がった家族を捨てて、血の繋がらぬ男を選んだ姉さんに言われたくはない」
「……」
「少なくとも、おれと姉さんの間においては、“血の繋がり”なんてものは信用できない。他ならぬあんたが、そう教えてくれた」

 
 半分だけとは言え、クラッカーは確かにカヌレと同じ血を分け合っている。だが、カヌレは裏切った。裏切って、血縁でもない男と生きてきた。

 血縁もでない男がカヌレと生きることを許されて、血縁であるクラッカーが許されないのは何故だろうか。

 何が足りない。何が違う。血が結びつけたのではないのなら、一体何だ。何が、二人が共に生きることを許した。どうすれば、自分はカヌレと生きることができる。それは、どうすれば手に入る。


 そう何度も何度も問いかけた。そうしてついに、クラッカーは答えを見つけたのだ。


「誓いを立てよう、カヌレ姉」
「!」
「今この場で、これから先の人生を共に分かち合うことを誓う。…そうすれば、おれ達は“家族”だ。永遠に一緒にいられる」
「そ、んなことしなくても…私達は…家族…」
「ならば、なぜ捨てた…っ!?誓わずとも家族だと言うのなら、なぜおれ達を裏切った!なぜあの男を選んだ!!何の血の繋がりもないのにっ!!!」
「!…それは……」

 姉が口を開きかけた。だが、言い訳は聞きたくない。カヌレの指先に己のそれを絡めながら強く握りしめた。痛みを訴える悲鳴が上がったが、構うものか。

「アイツとは誓ったのだろう?お互いの命が果てるまで共に在る、と」
しかし、アイツは死んだ。
「姉さんはもう自由だ。誓いは果たされている。何にも縛られることはない。…そうだろう?」

 さらに力を強めた。瞳が潤んで、海のように揺らめく。…が、力を緩めるつもりはない。望む反応が返ってくるまで。
 そのまましばらく見守っていると、ようやく姉が頷いた。何度も首を動かすうちに、耐えきれなくなった涙が幾筋も落ちてゆく。体も、生まれたての小鹿のように震えていた。さすがに憐れになり、クラッカーは両手をほどいた。代わりに、溢れる涙を指で辿る。…かわいそうに。


「それならば、今ここで誓おう」と言えば、カヌレの顔が強張った。

「もちろん、強制はしない。何と答えようと姉さんの自由だ」

 強いられた言葉はいらない。カヌレの意思による言葉でなければ無意味だ。しかし、クラッカーは己の望む言葉以外は受け付けないし、それを引き出す為の手段もいくらでも持っている。なにせ、生まれた時から海賊なのだから。それに相手は姉。姉を脅すには何が効果的なのか、知りすぎる程に知っている。


「島が燃える様を見るのが好きなら、ぜひそう言ってくれ。幸い、この辺りの海には小さな島がいくつもある。おれは、姉さんを喜ばせるのが好きなんでね」
「!!……なぜ?…なぜ、そんなに簡単に人を殺せるの…?」
「愛の為だ、仕方がない。何人でも殺してやる。…いっそ、世界から家族以外の人間がいなくなれば、おれ達を阻む者はいなくなるな」


 カヌレは声もなく泣き続ける。まだ答えはない。それならばと、クラッカーは言葉を重ねた。

「おれが嫌なら、自ら命を絶ってもいいぞ?姉さんの人生だ、好きにすればいい」
「…!」
「だが、姉さんが死ねば、おれは後を追う。この世がダメなら、地獄の底で暮らすのも悪くなさそうだ。姉さんが手に入るのなら、場所なんぞどこでもいい」
「……そんなこと、…お前にできるの…?」
「疑うなら試してみればいい。死にたいのなら勝手にしろ」

「ただし、死ぬくらいでおれから逃げられると思うなよ?」と付け足して、クラッカーは口を閉ざした。そしてただ、その美しい泣き顔を目に焼きつけるように眺める。カヌレの答えは聞かずともわかっている。わかっているが、カヌレの口から直接聞きたい。



 カヌレは優しい。姉は、弟妹が傷つくことを許さないし、傷つけば我が事のように哀しむ。その優しさは美徳であり、弱みだ。だから、優しさで縛る。
 カヌレは優しさゆえに、自分のせいで誰かに危害を加えられることが耐えられない。弟が傷つく可能性が僅かでもあるかもしれないと思ってしまえば、死ぬこともできない。そんなこと決してあり得ないのに。クラッカーを拒めば、命を落とすのはカヌレだけなのに。

 そうだ、生かしておくわけがないのだ。
 ここで生かして見逃せば、いずれは他の兄弟に見つかるだろう。そうして、見つけた誰かのモノになる。…いくら大事な家族でも、そんなものは認められない。もう無理なのだ、自分のモノではない姉が生きているのは。この手に入らぬのなら、誰にも手に入れられぬように殺すしかない。


 …とは言え、それも万が一にも起こらない。カヌレの返答はわかっている。そう答えるように仕向けたのだから。


 そして、長い沈黙の後。黙り込んでいたカヌレが頷いた。弾みにまた一筋の涙が光ったけれど、クラッカーは優しい笑みで応える。そうして、再度姉の両手を取った。



 誓いの言葉なら、母が結婚する度に何度も耳にしてきた。諳じることもできるし、それが意味するところもわかっている。
 母と過去の夫達。血の繋がらぬ二人が誓いによって結ばれて、1年だけとは言え同じ時間を生きていた。カヌレとあの男は、実に8年間“家族”だった。では、血の繋がった二人なら?…あぁ、永遠に一緒にいられるではないか。


「病める時も健やかなる時も、死が二人を別つまで、姉さんの傍で、姉さんだけを愛し続けると誓おう」

 そう言いながら、クラッカーは姉の指で光る指輪を抜き取った。そして、カヌレが声を上げるよりも前に放り投げる。これから永遠を誓うのに、他の男との愛の証は不要だ。そんなもの、アイツと共に炎に焼かれて砕けてしまえばいいのだ。


「病める時も健やかなる時も、死が二人を別つまで、おれの傍で、おれを愛し続けると誓うか?」

 問いかけながら、震える瞳を覗き込む。青を彩るのは恐怖か、絶望か、諦念か…答えを見つけるより先に、カヌレがこくりと頷くのが見えた。瞬間、小さな疑問は頭の中から吹き飛んだ。そんなもの、もうどうでもいいではないか。形はどうあれ、カヌレは了承したのだ。兄弟姉妹の誰もが独占したいと願い、でも決して叶わなかった姉が…家族を裏切った最愛の姉が、クラッカーと共に生きることを自らの意志で選んだのだ。これで二人は、何よりも大切で、何よりも愛する“家族”になったのだ。これ以上の絆があるだろうか。


「愛してるよ」

 込み上げてくる思いのままに、クラッカーはカヌレの頬に軽く口づけた。それに応えるようにカヌレの指先がクラッカーの顔に触れて、頬に口づけられる。クラッカーは満足気な笑みを浮かべた。
 誓いの言葉に、誓いの口づけ。結婚式さながらのそれ。だが、二人を結ぶのはそんなありふれた“愛”ではない。家族愛、だけではない。男女の愛では当然ない。名前はわからない。名前があるのかもわからない。それでも、骨の髄まで愛しているのだ。


「さぁ。帰ろう、カヌレ姉」

 そう言って、クラッカーはカヌレを抱き上げた。その腕が己の首に遠慮がちに回されたことを確かめてから、船の停泊する方へと歩き出す。脳裏に思い描くのは、これから二人で紡ぐ未来と、二人が生きる世界のこと。

 どんな世界にしようか。カヌレが望むものは何でも用意しよう。宝石でも花でも金でもお菓子でも。姉が望むものだけで彩られた世界で、己のだけを見て、愛してくれる姉。物心ついた時から欲しくて堪らなくて、でも決して手に入らなかった。それが今、この腕の中にある。


 もう誰も、何も邪魔しない。例え母にも奪わせない。なぜなら、二人はここに誓ったのだ。今日この日より最期の日まで、お互いのものであり続ける、と。



 最上の宝物を抱えて歩くクラッカーの周囲で、大蛇に呑まれた建物が次々と倒壊していく。逃げ惑う人々は炎と、クラッカーに従う兵士の手にかかって命を落としていった。赤い怪物は今や島全体を抱え込み、雄叫びを上げていた。人も動物も、森も町も、男の亡骸も愛の証も、何もかもが燃えていた。まるで、二人を祝福しているように美しい炎だった。


「   」


 カヌレの唇から囁きが零れ落ち、クラッカーの首を抱き締めていた手が、何かを掴むように宙へ伸ばされる。万華鏡のように複雑な色を映した青は、一体誰を映しているのだろうか。視線の先には瓦礫を貪る炎しかないのに。滴る涙は何を思って流れているのだろう。あなたには、永遠を誓った弟がいるというのに。

 どこまでも愚かな人だ。それゆえに愛おしいと、己から逃げる手を捕まえて、クラッカーは笑った。