「あの、僭越ですが俺宛のバレンタインのチョコってあります?」
「え、ごめん無い」

後に“バレンタイン事変”と呼ばれるこの出来事は蒼時さんの心へ永遠に癒えぬ深い傷を刻んだ。あれから1年経過したが未だに根に持たれているし、当時数日間は生きているかさえ疑わしくなるくらい落ち込んでいたので、酷いことをしてしまったんだと流石の私でも分かった。
社会人になってからバレンタインなんて特に気にしていなかったのだが、逆に蒼時さんはそういったイベントに結構敏感だ。思えば初めてのクリスマスの日に朝帰りをした時も同じくらい落ち込んでいた気がする。あの時は本当にライブだったのだが、信じてくれたのかは今でも分からない。

そういう訳で、今年のバレンタインこそは何かをしようと、昨晩からなけなしのサプライズ脳を猛回転させて考えていた。それでもいい案は納得する程思い付かず、結局寝不足のまま出勤することになってしまった。
高島屋でいいとこのチョコレートを買えば満足してくれるだろうかとか、満員電車に押し潰された私は既に妥協思考になっている。


「告白すれば?」
コンビニおにぎりを口いっぱいに頬張る同期の遥菓が、当然でしょうといわんばかりの表情で言った。
対する私はろくに仕事も片付けられずに昼休みを迎えてしまい、エナジーゼリーを昼飯代わりに咥えてキーボードを叩いている。あのさあ、そうやって簡単に言うけどもねぇ。
「彼と同棲してもう1年じゃん。なーんにもないのも、そもそも付き合ってないのも彼に悪くない? ただのルームシェア要員と思われてそう。もうちょっと進展してもいいと思うんだけど」
「お互い同じこと何度も言ってると思うけど、両想いなんだろうなーってなあなあな状況で1年以上同棲してみなさいよ。告白しても今更感半端ないわ」
そもそも蒼時さんが私のことをどう思ってるのか、本当に両想いなのかもわからないし。
「まあ何言っても無駄そうだから勝手にすれば」
遥菓は呆れた顔を最後に、そっぽを向いてしまった。
私だってこのままで良いと思ってないのに。


そんなことばかり考えて大した仕事にならなかったが、今日やれる分の仕事は済ませたので珍しく定時でタイムカードを切った。遥菓の励ましの言葉を背に受け逃げるように退社をする。
オフィスビル街を抜け、眩しいショッピングウィンドウの高島屋の前を振り切るように通り過ぎて電車に乗った。ショッピングモールに明かりがついている時間に久々に帰ったなぁなんて嘲笑気味に口元を歪めた。いつもこの時間に帰れればいいのだが。

「ビールも買っとこ」
結局とりあえず料理をいつもより張り切るぐらいしか考えつかなかったので、いつも行くスーパーで買い物をした。いつもより多めにショッピングカートが埋まっていくのを見ると何故か緊張してくる。
こんなことをするなんて本当に柄でもないし、人生で始めてだ。もうこの歳で始めてとなると多分蒼時さんが最初で最後であろう。
「……何考えてるんだ私」
恋にうつつを抜かすのなんてこれっきりにしたい。

袋を2つにすればよかったと後悔する量の買い物をして、漸く我が部屋の玄関前についた。そんな距離はないのだが運動不足と緊張で息が切れている。
玄関から明かりが漏れている。買い物をしていた時間を入れても奴は定時きっかりに帰宅したと言うわけか。
意を決しカードキーを当て、ドアノブをゆっくり捻る。夏でもないのに手汗が滲む。
「ただいま」
然程大きくはない声だったのに、聞こえたらしい蒼時さんがまるで主人の帰りを待ちわびた忠犬のように奥のリビングから駆けつけてきた。尻尾がなくても気分が分かるのって凄い。
「け、蛍さんおかえり。俺のが早く帰ってきちゃったから部屋掃除と洗濯は済ませておいた。ので、風呂掃除と晩ご飯を当番通りお願いしたい」
いつも通りの当番報告なのだが、眼鏡の奥の細い目といつもより緩い口元で絶対期待していることは確然だ。
「好きです」
気が付けば告白の言葉が口をついた。言った私でも驚いて一瞬停止し、ややあって冷や汗がこめかみに滲むのが分かる。誤魔化せないのが分かると目を逸らすことしか出来なかった。
左手の荷物が凄く重くなったように思えて指先がちりちりする。
「普通初めての告白を玄関でする?」
期待してたけどさ、蒼時さんが棘がある言葉とは裏腹に朗らかに笑った。整った顔がくしゃっと崩れる程に笑う、この人の笑顔が大好きだ。
「俺も蛍さん好きです。今更だけど」
持っていた荷物が音を立てて落ちた。



ギブミー・チョコレイト
(ふつつかものですが……)
(いやもう同棲して1年は経つからその言葉はどうかと)





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