大嫌いな冬が終わり、漸く桜色の季節になった。 
春になったからと言っても私の日常に大した変化はなく、あえて言うならばヒートテックを1枚脱いだとか、保湿ティッシュを買っただとか、そういったどうでもいいようなことばかりで、新入社員だ新学期だと慌ただしくも華やかに賑わう世間とは、まるで隔離されているかのような無縁の日々を送っている。 
生きる糧と信じて追いかけていたバンドが解散してから3年。10年もの長い追っかけで残ったものといえば、左肩に入れたボーカルと同じ梵字の刺青と、無駄に拡張した右耳のピアスホールだけだった。後先考えずに刺青を彫ったことや、ライブの遠征だのグッヅだのへ莫大なお金を費やしたこと等に後悔はしていないが、早々に解散して私の人生からいなくなってしまうことが分かっていたのなら、就活だってもうちょっと粘っていれたかもしれない、もう少し無理してライブ行く回数を増やしたのにとか、自分への矛盾した後悔は絶えない。そんな小さくて細かい後悔を背負って3年も生きてしまった。 
生きる糧を失ってもなお生きている生物なんて、微生物か私ぐらいだ。 
   
カセットテープだったらとっくに伸びているぐらい聴いている、そんな感じで大好きだったバンドの春の歌を口ずさみ、キーボードのエンターキーを景気よく叩いた。見計らったかのようにお昼休みのベルが鳴る。 
今ある仕事は充分に納期まで納まっているから、昼休みは長くゆっくりできるはずだ。久々に地下のカフェテリアでおしゃれな昼食をゆっくり楽しもうと、お気に入りのヴィヴィアンの財布を片手にエレベーターへ乗り込んだ。 
うちの会社が入っているビルは美容系が多く、すれ違う他の会社の人たちは若くて華やかな女性が多い。男性も華奢な人しかいない。 
そういえば少し前に先輩はひとつ下の階で、ふたつ上のバラの香りがする綺麗な人と付き合った。 
華々しい出会いを期待している訳ではないが、はちみつマーガリンをたっぷり塗った食パンをくわえた中性的な遅刻美青年と、曲がり角でぶつからないかなという淡い夢を抱いている自分がこっそり心の中にいるのだ。 
  

かつん、という金属音で現実に返った。 
音を立てたのは、飴色玉葱とトマトがたっぷり乗ったピザトーストへ向かう私のトングと他人のトング。 
お花畑の妄想で鈍った脳が何が起こったのか処理できずにいると、相手トングの持ち主がすみませんと低い声で謝った。 

「あ、こちらこそすみません」 

よかったらどうぞと譲り、笑顔で相手を見上げた、のは良かったのだが。 
相手の男の人はどう考えても180センチは優に超えていた。相手の顔を見るのに初めての首の角度で少々戸惑う。 
ヒール込みでやっと150センチの私には見上げるほど大きく、更にガタイも無駄に良い。その上、胸ポケットにサングラスを掛けているのにも関わらず、なぜか眼鏡をしているという謎で極まった、ただ“怖い人”という言葉がよく似合う男の人である。反射的に冷や汗がじわりと額に玉を作った。

「ど、どうぞ」

思わず一歩下がって譲ってしまった。

「そんじゃ、お言葉に甘えて」 

たじろいでしまった私に、彼は意外にも底抜けに朗らかな笑顔を向け、ピザトーストをさらっていく。 

「じゃあ譲ってくれたお礼に、今度お茶でもしませんか?」 

ついでのように言われたナンパ台詞に、正気かどうか思わず2度見してしまった。戸惑う私に構わず、彼は変わらずへらりと笑っている。 
  
彼との出会いは曲がり角ではなく、カフェテリアの角で奪い合ったピザトーストがきっかけだった。 








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