「夏季休暇にアパートの契約が切れるので、次はどこに引っ越そうか迷ってるんですよねえ」 
 
栖原さんが外の景色を眺めながらぼんやりと呟いた。 
なんとなく栖原さんの横顔を見ていたのだが、本当に恋人がいないのか不安になるくらい綺麗だった。 
高校の時以来彼氏はいないと嘆いていたが、本人が鈍感なだけなのではないだろうかと思うぐらいには魅力的だ。 
俺なんかが休日に独占していいのだろうかと言う謎の申し訳なさを感じつつ、話を広げた。 
 
「どこがいいとか決まってます?」 
「会社まで徒歩で屋根続きの、雨が降ってもパンプスが濡れず、スーパーまで徒歩10分内」 
「それめちゃくちゃ良い立地じゃないですか……。でもここらへんの家賃って高いですよ」 
「そうなんですよ、ワンケーで安くて15万。安くてですよ」 
 
便利で高価を取るか、安くて満員電車を取るかのどっちかかぁ、栖原さんは溜息のついで、コーヒーカップを片手に目を細めた。 
会社周辺は都市開発が凄まじく、大手企業までオフィスを建て初めて以来、それまではそこそこ良心的だった駅の周辺マンションの家賃が手のひらを返したように跳ね上がった。 
ここの会社に所属した時、自身も栖原さんのように周囲に引っ越そうかと思ったが賃貸サイトを見た瞬間に諦めた。 
それでも栖原さんは諦め切れなさそうに外を眺め続けている。 
そっかぁと言いつつコーヒーカップを口につける。ちょっと苦い。 
 
 
前から行きたかったがなかなか入れずじまいであった、椿屋珈琲店のブラックコーヒーは、想像より濃厚で渋く、砂糖を3つ入れなければ飲める甘さにならなかった。 
見栄を張るのもなんだから、遠慮せずにシュガーポットから角砂糖をどばどば入れていたら、栖原さんはくすりと笑う。 
 
「意外に甘党なんですね、サングラス掛けてる人って甘い物摂取しないのかと思ってた」 
「はは、なんだそりゃ。仕事のときはブラックなんですけどね」 
「私もブラックです。絶対寝ちゃうんで気休めカフェイン摂取してるんですけどね、寝ちゃいますね」 
「あの会社空調良いし、響くキーボード音で眠たくなっちゃいますよねえ」 
「仁部さんのとこ、部署柄的にも静かでさらに眠くなりそう」 
「そりゃもう毎日睡魔との戦いですよ」 
 
栖原さんとは奇跡的に同じ会社だった。詳しく言えば、俺は一応客先常駐だけどもシステム部。栖原さんは総務部。 
ビル内の他の会社と思っていたが、案外近い存在で探す羽目が省けたというかなんというか。とにかくこうして“ピザトーストを譲ってくれたお礼”という名目のナンパは無事に有言実行されたのである。 
 
 
しばらくした後、ウェイターさんがフォンダンショコラを運んできて、迷いなく栖原さんの前に置いた。 
「まあそうなりますよね」去った後、栖原さんは皿を押して俺の前に置いてくれた。 
 
「スイーツ好きなんですか?」 
 
栖原さんが肘をついた右手の甲に顎を乗せて、ナイフで切り分けた中から艶やかに流れるクリームを眺めながら言う。 
 
「とんでもなく好きです。甘ければ甘いほどってわけではないんですけど、まあこのくらいの甘苦い感じなら何個でも」 
 
少し高いだけあって、チョコレートの苦味は上品で甘すぎず美味しい。思わず目を細めてしまった。 
これでコーヒー飲むのも最高なんだよなあ、そう思いフォンダンショコラをゆっくり味わいつつコーヒーに手を伸ばした時に栖原さんと目があった。心なしか彼女の口元が緩んでいる。 
 
「なんかすいません、俺だけ」 
「仁部さんってなんでも美味しそうに飲み食いしますよね」 
「好き嫌いはないですから」 
 
栖原さんは俺と一緒のタイミングでコーヒーを飲みつつ、いいことだと頷いた。 
このまま俺の甘いもの好きの話になるのがなんだか恥ずかしくなり、引越しの話を続ける。 
 
「それより、いつ引っ越すんですか?」 
「んー……、できるならもうすぐにでも引っ越したいです」 
「家賃と光熱費次第……ですか」 
「何もかも半分で済むから、仁部さんが同棲してくれるならいいんですけどね」 
 
この提案は冗談であろうか。そう考える前に、考えるより行動を先にしてしまう悪い癖が出てしまった。 
俺は深く考えもせず、じゃあしますか、と微笑んでいた。 





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