大きな背中


「ふあ、おわった…」

目の前にあったソファになだれ込む。全身の力を抜いて体を預け、瞼を閉じる。あぁ、このまま寝たい。今日はもう帰りたい。

閉じた瞼に自然と力が入る。今日はダメな日だった。別段何をしたってわけではない。ただ、いつも通りと声が出なかったり、思い通りの音にならなかったり。集中力が続かなくていつもならしないような小さなミスを連発したり。久しぶりに何度も撮り直しをして、共演している先輩たちにはとっても迷惑をかけた。
ぐ、っとこぶしを握る。ソファに預けた体に力が入るのがわかる。

ぐるぐると思考が螺旋を描く。あの時こうしていれば、ああ出来ていたら。仕方のない考えばかりが頭の中を占拠する。あぁ、頭が重たい。体も怠い。


「藤じゃん。こんなとこで何してんの」

瞼の奥で聞こえた声につい、力が入る。なんだってこんな時に。出かかるため息を何とか押し込めて瞼を押し上げた。視界の先には思った通り、さっきまで同じ現場にいた一人の男が。

「なんでもない。少し休憩してただけ。今から帰るところだから」

すっと顔を横に向けて何でもないように立ち上がる。今だけは最高に会いたくない人ナンバーワンのこいつになんで今ここで会うのか。今日はとことんついてない。

「お前、今日はもう上がり?」

「…そうだけど」

それが何、と言おうとした言葉は遮られた。

「じゃあ今から飲みに行くぞ」

「…は?」

言われた言葉を理解するころにはもうすでに前を歩く鈴木の野郎に私のカバンと片手を取られていて。
…もう、なんでもいいか。今日はとことんていてない日だから。
吐き出したため息を前を歩く鈴木の背中にぶつかって消えた。





「だからね、私が悪いって全部わかってるの。調子が悪いって一言にするのは簡単だけど、そうじゃなくて、」

ぐい、と酒を呷ったそいつが口早にそう捲くし立てる。そうだよな、と相槌を打って隣にある華奢な背中をさすった。

飲み屋に来てから約1時間半。思いの外時間がかかったなと息を漏らす。けどまぁ、いつものコイツならこんな量でそうそうに酔うことは無い。その事を考えたは今日は本調子ではないのだろう。確かに現場でもそうだった。

今日は午後一からのとあるアニメのラジオCDの収録と、各週アニメの収録の現場がたまたま藤と重なっていた。コイツとは結構長い付き合いだからある程度のことはわかる。だから現場に入ったときに1人離れた席に座っていたあいつを見たときから違和感はあった。いつもなら仲のいい声優仲間と駄弁ったりしているはず。周りにはいつも人がいるタイプのやつで、この現場だと特に仲のいい福山潤やら井上麻里奈などと喋っているはずなのに。おかしいと首を捻るも、まぁそういうこともあるかと自分を納得させ席に着いた。

そうして始まった本番。素直に言うなら、あいつどうした。これに尽きる。

根が真面目なこいつは、事前に台本をこれでもかと読み込んで来る。自分のところも、それ以外も。だからこいつがミスをすること自体あまり無い方だ。それなのに。
ざっと数えただけでも5回。またも音響監督からリテイクが入る。付き合ってくれる先輩に何度も頭を下げたそいつが台本を握ったのが見える。


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