26.凍てついた涙
セレナと悟飯の声、表情の一つ一つが高速で胸に浮かんでは消える。
「に、げろ……セレナ、悟飯……っ」
ずきずきと体の各所が尋常でない痛みを訴えると同時に、全身から力がゆっくりと抜けていく。やがて、背後にいるものを守ろうと力をこめた足にも限界が訪れ、どさりと地面に倒れ伏した。
「ぴ、ピッコロさん、どうしてボクを、助け、」
「にげ、ろと……言ったはずだ……はやくしないと……」
言葉を搾り出せば、いのちが流れ出る速度がまた増した。
「ピッコロさん、死なないで……! すぐにおとうさんが来て、やっつけてくれるよっ。だから……っ」
嗚咽交じりで近寄る悟飯の後ろには、目尻に大粒の涙をたたえたセレナがぺたりと座り込んでいる。限界まで溜まったそれは、きらりと光を反射して、血と泥で汚れた頬を音もなく滑り落ちていく。
綺麗だ、とピッコロは思った。これから死ぬというのに、わけのわからぬ満足感が胸を満たす。
「ピッ、コロ、さんっ……。どうしてっ。なんで……っ、」
──かばったの。
最後まで音になりきれず、吐息となったことばが耳をくすぐる。
動揺からか、しゃくりあげながら話すセレナの口調はどこか幼い。普段とはまるで違う、涙でぐちゃぐちゃになった顔を目にして、可笑しさがこみ上げてくる。
「なさけない話だぜ……ピッコロ大魔王ともあろうものが、ガキと女を庇っちまうなんてよ……最低だ……き、きさまら親子のせいだぞ、悟飯……。あ、甘さが……移っちまった……だが、オレと……まともに喋ってくれたのは……お前と、セレナだけだった……」
へへ、と力ない笑みを浮かべ、唇が弧を描く。セレナ、と名を呼べば、堪らなくなったのか、ひんやりとした手が縋りついてくる。
「セレナ、おまえは、」
「や、やだ、こんなのっ、最後みたいな……!」
力の入らない腕を気力で伸ばし、いやいやと首を振るセレナの頬に触れると、今だ流れ出る涙が自分の指を伝って落ちた。普段は聞き分けがいいくせに、こんなときばかり駄々っ子のような振る舞いをするセレナに、仕方のない奴だ、と苦笑が漏れる。
「きさまらと過ごした時間……わ、わるく、なかったぜ……。死ぬなよ、セレナ……悟、飯……」
そこまでが限界だった。視界が徐々に暗くなり、身体の隅々から力が抜け切り、感覚が消えていく。
(嗚呼、死ぬのか)
そんな漠然とした思いが浮かんだ。セレナが自分のためだけに流す、あのきれいな涙がもう見られないのは残念だが、死に向かう己の身体は待ってはくれない。
最後に残った聴覚が捉えたのは、死んじゃ嫌、と泣き叫ぶセレナの声だった。
ピッコロの名を呼びながら泣き声をあげ、肩を震わせるセレナ。
サイヤ人たちがこちらを見て何か言っているが何も耳に入らない。
ピッコロを失った悲しみ、サイヤ人への憎しみ、そして何の役にも立たなかった自分への怒りが思考を埋め尽くす。
(わたしは、一体なんのために修行をしてきたの……?)
──こたえは、ピッコロを失わないため。それなのに、これはいったいなんだ。
彼が悟飯と自分を庇ったせいで、命を落とした。
その事実だけが何度も何度も頭の中で反響し、その度に苦い後悔と、どろりと粘ついた憎しみが噴き上げてくる。
ぞくり、と肌があわ立った。それが過ぎれば、むずむずと身体の奥底からなにかが湧き上がってくるような感覚。それと同時に、身体を覆っていた薄皮が剥がされたような気がした。
徐々にその感覚は場所を変え、右腕のみに集中していく。
ふいに、視界の端が黄色く光るものを捉えた。
のろのろと振り向けば、怒りで最大限まで気を高め、魔閃光を放つ悟飯の姿が目に入った。迸るそれはナッパにまっすぐ向かい……怒声とともに、振りかぶった拳で弾き飛ばされた。とたんにがくんと小さくなる悟飯の気。
「はぁっ、はぁっ……。ピッコロさん、ごめんなさい。仇討てなかった、」
ピッコロの亡骸に向かって謝る悟飯の声に、ぴくり、とセレナの肩が跳ねた。
(カタキ……かたき。そうだ、)
視線を落とせば、変わり果てた己の右手が目に入る。びっしりと肘近くまで生えそろった硬い鱗と、鋭い爪が並ぶ異形の手。
どうしてこうなったのかはわからない。ただ、これならあの頑丈なサイヤ人の身体にも傷をつけることはできる、ということはわかった。
「……殺してやる」
まったく温度を感じさせない声音でそう呟いたセレナの目から涙が流れ落ちる。頬を伝って身体から離れた瞬間、それは硬く凍りつき、硬質な音を立てて地面に落ちた。
ざわり、と空気が変わった。
気を使い果たし、思うように動かない身を、ひやりとした冷風が撫でた気がして、悟飯は目を瞬かせた。
ぼんやりとする視界の中で、ふらりと立ち上がったセレナがピッコロの亡骸から離れ、ナッパに向かって歩いていく。その足取りはどこかふらふらとしていて、おぼつかない。
セレナが歩みを進めるたびに、からん、からん、と何かが落ちる音がしたが、それが何なのか気に留める余裕もなかった。
(セレナさん……!!)
たった数ヶ月一緒にいただけの自分ですら、受けたショックと怒りは凄まじいものだったのだ。ましてや、それよりももっと長くピッコロに寄り添ってきた彼女の気持ちは計り知れない。
最悪の予想が悟飯の脳裏をよぎった。
「なんだぁ? あのナメック星人の次はお前が相手になるのか?」
嘲笑を顔に滲ませたナッパが、セレナを見下ろす。
次の瞬間。その顔をめがけて、目にもとまらぬスピードでセレナが握り締めた拳を思いっきり振りぬいた。ふらりとよろめくナッパの身体に、追い討ちをかけるようにしてセレナの蹴りが突き刺さる。
ごきゃりというなんともいえない音がして、ナッパの顔が歪んだ。
唐突なセレナの動きに、悟飯も、そしてクリリンまでもが目を見開き、吃驚した声を上げた。
頬骨が折れたのだろう、痛みに悶えるナッパの手を、どこからか出てきたきらきらと輝く氷の刃が貫き、ぐちゅ、と肉がえぐれる音がした。
生々しいその音に、思わず目を背ける悟飯。激痛にナッパの悲鳴が木霊する。
「……ピッコロさんが受けた痛みは、こんなものじゃない」
ふと、耳に入った低いセレナの声に、ぞっと背筋が寒くなった。この場に似つかわしくない、いたって冷静なその声には優しさの欠片も見受けられない。
冷たく研ぎ澄まされた殺気が空気を震わせた。
先ほど感じた冷風は気のせいではなかった。間違いなく、セレナを中心にして、明らかにそこだけ温度が下がっている。
(セレナさん、あいつを本気で殺すつもりなんだ……!)
今の彼女には、それができてしまう。それがなんだか恐ろしくて、止めようと身体を動かすも、セレナから発される冷えた気に圧倒され、ろくに近づくこともできない。
「このっ、クソアマ……ッ! 殺してやるッ」
傷を負っていないほうのナッパの手が宙を空振る。
「ころす? わたしを?」
ちがう、とセレナが冷たく微笑んだ。
「わたしが、殺すの」
言い終えるなり、すばやく前に移動し、顎を蹴り上げた。仰け反り、そのまま後ろに倒れたナッパにセレナの右手が翳される。
バチバチと火花が迸り、恐ろしいまでの気がみるみるうちに溜まっていく。
「っセレナさん……撃っちゃ、ダメだ……!」
途切れ途切れになりながらも、クリリンが声を張り上げた。その声にはっとした悟飯はクリリンの元へふらふらと急ぐ。
「く、クリリンさんっ」
「オレよりも、セレナさんを……止めてくれ! あ、あんなの撃てば……セレナさんだって、無事じゃすまない……っ!」
セレナに視線を戻せば、既にその手に溜まった気は危険な量に達しており、鮮血が腕を伝っているのが目に入った。
「セレナさんっ、やめ……っ!!!」
その叫びも虚しく、セレナの気がひときわ大きくなった。これから起こるであろう凄惨な光景が頭に浮かび、ぐっと唇を噛んだ。
どのくらいの時間がたっただろうか。
想定していた絶叫も、噎せ返るような血の匂いもない。すすり泣くような声と、今だ存在を主張する大きな気が、セレナもナッパも生きていることだけを知らしめる。
吹きすさんでいた冷たい風がやみ、セレナの気がどんどんもとの大きさに戻っていく。
ゆっくりと顔を上げれば、そこには泣きじゃくるセレナと……その腕を引っ張り上げる、筋斗雲に乗った悟空がいた。