Jun.12.2005

「うわ、最悪」

誰かのそんな声に顔を上げると、少し前まで明るかった空はどんよりと雲に覆われていた。
雨が降るなんて予報はなかったけど、時期的に仕方の無いことだ。

読みかけの本を閉じてカウンターに持っていき貸し出し処理を済ませて図書館の出口へと急ぐ。
どうか雨が降る前に、そう思って重たい扉を開けると既に少しづつ地面は色を変えていた。

バス停はすぐそこだ。
降り始めた雨を避けるように借りたばかりの本を抱えてバス停まで走った。

バス停のベンチには既に先客がいて、少し間を開けて腰掛けた。
屋根が跳ね返す雨音と通り過ぎる車の音だけが響く。
どこか心地よくて読みかけの本を開いて物語の中へと飛び込んだ。

どれくらい経っただろうか。
ふと顔を上げてバスはまだかと横を見れば、先客の彼と目が合った。

「え」

驚いて出た声に彼は慌てた様子を見せる。

「あ、ごめんなさい。その、何の本を読んでるのか気になって」

分かりやすく慌てて謝る彼。
首を横に振って表紙を見せる。

「ジョン・ファウルズ」
「コレクター…」

著者の名前を言えば彼はまじまじと表紙を見た。

「1963年の作品だ。ファウルズのデビュー作だけど、心理サスペンスとしては異例の構造。前半の誘拐犯クレッグの独白と、後半の被害者ミランダの日記。同じ出来事を二つの視点から描くことで、読者に双方の心理的プロファイルを同時に行わせる仕掛けになっている。クレッグの異常な所有欲は、実際のシリアルキラーに見られる『対象の記号化』と全く同じプロセスで…あ、いや、精神医学的な観点から見ると、彼はミランダを愛しているのではなく、自分の無力感を支配欲で満たそうとしているだけで――」

なにかプログラムでもされているかのように彼は口を動かした。
それも早口で話し始めるものだから、彼の言葉に頷くことしかできなくて相槌も打てずに聞いていると目が合った瞬間彼はハッとして口を閉じた。

「…すみません。つい…」
「全然。私も読むの三度目だし、周りで読んでる人なんていないからこうして他の人の話を聞けるのはうれしいですよ。」

肩を竦めて謝った彼に首を振って笑えば彼はまた先程の明るい表情に戻った。

「今日は図書館に?」
「はい。ただ目当てのものは貸出中で、今度また借りに来ないと。」
「そうなんですね。」

彼はどこか落ち着かなさそうにベンチに座り直した。

「あ、バス…」

強くなり始めた雨の向こうからバスのライトがさす。
乗り込んだバスは雨のせいか混みあっていて、ふたつ並んで空いていた席に彼と座る。

「そうだ。さっき実際のシリアルキラーって言ってたけど、そういう事件に詳しいんですか?」

私の問いに彼は気まずそうな顔をした。

「詳しいって言うか、その」

言葉を濁す彼に首を振った。

「言いたくなかったら言わなくていいんですよ。私たち名前も知らないんだし」

そう告げると黙ってしまった彼に、気まずさを誤魔化すために雨の打ち付ける窓を眺めた。

自分の降りるバス停に着く頃には雨の雲からは逃れていて、綺麗な夕焼けがさしていた。

「じゃあ、またどこかで」

彼にそう告げてバスを降りる。
友達出来るかと思ったのになぁ、なんて薄ら虹のかかった空を見上げると進んだはずのバスがまた停車した。

「スペンサー・リード!」
「え?」
「あ、えっと、僕の名前はスペンサー・リードで、その」
「あぁ…あはは、なんで降りたの?」

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