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「以上で養護からの修学旅行中の保健上の注意を終わります」
一歩下がり頭を下げて壇上から降りる。何度もシミュレーションした一連の動作を終え、何も見ずにとも言えるまでになった数分に渡る簡潔に作られた文章は生徒の列から外れた、壁沿い並ぶ教師達に混じると安堵の胸をなで下ろすように大きく息をつくと共に頭の中から消えた。人前に立つという行為は学生時代実習で何度か経験したといえども社会人としてどうだろうか慣れる事はない。
昼休み終了後3年だけが集められた学年集会では迫るイベントについての話が中心となっているが、心構えや意識といった単語から何時ものように学業の話題へと繋がる。勉強で他より優越し他を蔑む事で獲得した地位と人間関係は思うより簡単に崩れてしまう。それを避ける術を知っている彼等は"他"であるE組をいつも頭の片隅に置き得意げに、されど何処か怯えるようにペンを握るのだ。
壇上には挨拶程度の会話しか交わしたことのない教員が耳にも入らない、跡にも残らないような教えを説いている。それを聞き流しながら口元に手を当て欠伸を噛み殺しふと生徒の列を見渡すと見知った赤色が此方を向き口を開け歯を食いしばり目をぎゅっと閉じるのが目に入る。そんなに酷い顔をしていたかと睨み付ければ目を逸らし両手を挙げ戯けたように舌を出す。
不審に思ったのか彼の後ろに並ぶ小柄な少年が此方を向く。保健室に直接来たことは無いが見覚えのある水色に目を合わせ微笑むと慌てたように頭を下げた。
「名前ちゃんって緊張するとほんと表情筋飛ぶよね。怖いで有名の先生と話す時もそう」
「当たり前のように此処に帰って来ないの。教室に戻りなさい」
最早定位置となった木製の長椅子に浅く腰掛け机に上半身を倒しけらけらと笑い転げる業の頭をバインダーで軽く叩く。
1時間近くに渡る長話を漸く終え、次からは忙しいからと理由をつけて途中で帰って来てしまおうかと考えながら開けた扉の先には既に先客が居た。呆れたように小さくため息をつき白衣のポケットに両の手を入れそれに気付く。
「…鍵を閉めてた筈だけど」
まさかと思い嫌な予感が的中していない事を願っていると部屋に3度軽い音が響き此方の返事を聞いてからゆっくりと扉が開く。少し緊張した様子で入って来たのは先ほどの水色で、思った通りにそこにいたクラスメイトの、見たことの無い笑い方をする業を見て驚いたように目を開く。顔色も良く怪我をした様子も無さそうな新たな客人の様子から、未だ笑い続ける業の頭に再びバインダーを落としお迎えが来たよ、と声を掛ける。
「あれ、どうしたの渚くん。具合でも悪いの?」
「いや殺、…先生が業くんが居ないのに気付いて、迎えに行って来いって」
漸く自分達以外の新たな人間の存在に気付いた業は渚を見て向かいの席に座るように促す。迎えに来たというのに自分を誘おうとする業に手を振りやんわりと断りを入れる渚は片方の眉だけを器用に下げ困ったように笑っている。
先生が気付いたというのがどの地点かにもよるが本校舎から隔離された校舎へと戻る途中の決して短くはない道のりを自分の為に戻って来てくれたにも関わらず面倒くさいなあと机にへばり付く業を引っ剥がす。
「そうだ、私明日出張で居ないから。1日真面目に授業を受けること」
仕方なくのろのろと立ち上がる業を横目に確認してから自身の仕事用の机へと戻る。保健室が珍しいのか一面を見渡すように落ち着かない様子の渚の視線は一つの掲示物によって止められる。良く言えば手作り感が溢れる生活習慣病予防のポスターと、その横に付け足すように貼られたそれによく似た小さな絵。お世辞にも上手いとは言えないがこの部屋の空気には似合うものがある。いつの間にやら扉を開けすっかり帰る準備を済ませた業が渚を呼ぶ。
「大丈夫。俺鍵持ってるから」
「やっぱり合鍵作ってた!返しなさい!」
後ろ手で扉に手を当て悪戯が成功したように笑う業は逃げるように扉を閉める。慌てて追いかけようと立ち上がるが慌ただしく遠ざかっていく二つの足音がどんどん小さくなっていくのが分かり小さく溜め息をつき諦めたように座り直す。特別扱いと言われれば其れ迄だが他の生徒よりも長い時間を過ごした彼の人間性は理解して居るつもりだ。ぐるぐると捻じ曲がったような性格をしているが疑うつもりは無い為次に来た時にでも取り返そうと考える。名前程度しか知らない同僚によって渡された教員用にと作られた栞をぱらぱらと捲りながら、出る前に淹れたすっかり冷め切ってしまった珈琲を一口飲んだ。
「それにしてもよく俺が此処にいるって分かったね」
「分かるよ。よかった」
遠くなった本校舎を横目に渚は小さく笑った。
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