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今考えてみれば少女漫画やドラマのように言葉に出来るような具体的なきっかけなんて物は無くて、自販機の前に立ってジュースを選ぶように彼女の事を思い出しボタンを押すように自覚した。名前を付けて仕舞えばそれからはもう簡単で気付かぬ内に片脚を掬い取られるように嵌った沼にずるずると引き摺り込まれるように沈んでいった。其れはとても気持ちが良くて心地良くて脱け出す気になんか少しもなれなくて散々身を任せて甘やかせて、とっくに後戻りなど出来ない程深く深くまでおちていた事に今更になって気付く。
捻くれているとかそういう類の言葉はよく言われるし否定もしないが割と自分の欲求には素直な方で、近付けば近付く程に掴めなくなる距離感は一層の事考える事を放棄して何も分からない気付かない幼い子供の振りで全てをぶつけてしまおうかと出来もしない事を考える時もある。目一杯背伸びをして心だけは充分に大人に成ったつもりの癖に執心する程の何かを手に入れた経験は無くその術すら知らない事が大声を出したくなる程歯痒い。
「あれ、閉まってる。また出張かなあ」
横にスライドしようとした扉は何かに引っ掛かるように動きを止め確固として動こうとしない。磨りガラス越しに中の明かるさを確認しながら意味も無くまた数回扉を横に鳴らして右の制服のポケットに手を入れる。装飾品など一切の物を付けていない生まれたままのそれを鍵穴に差し込み手首を捻ると主の居ないその部屋が何時もとは違う空気で迎い入れる。人工的な灯りを点けずともカーテンを開けるだけで充分な光を得られるこの時間、内側から鍵をかけて仕舞えばもう、それでいい。
どうせならベッドを借りてしまおうと欠伸を一つ漏らし居心地の良い様にと枕元に置かれた縫いぐるみへと視線を一度当て横になる。この部屋は動物をモチーフにした縫いぐるみが多い。目を瞑り思い出すのは動物が好きだと言っていた彼女に猫の様だと言われた事。考えた事も無かった癖に彼女の古いタイプの携帯で揺れるストラップを見て前々からそう思っていたかのように肯定を示した。其処まで考えて気付くのは結局何時も自分の頭の中には彼女の存在が有って依存する様に続くこの関係が終わらなければ良いと思うのに何処かで終わらせてしまいたいと願う自分がいる事だった。
枕のように置いた腕を解き何度目かも分からない寝返りを打つ。外から入る音は何も無くて自分が布団を擦る音だけがやけに響く。回り始めた思考回路は壊れた歯車の様に止まることを知らなくて、ひとつひとつと繋がるように、噛み合うように、眠気を吹き飛ばして行く。諦めたように瞼をこじ開け布団から這い出るとすぐ側の整頓された彼女の机へと向かう。
「大体さあ、言うつもり無かったんだって。あんな所であのタイミングで」
拗ねたように呟く。誰にも聞こえないそれは人が一人入り込める隙間を開ける様に引いた椅子の音と重なった。閉じられた彼女の愛用するパソコンをひと撫でし自身の熱を冷ますように冷んやりとした机に頬を預ける。
喉を刺すように突かれて勢いで口にしてしまった言葉は初めこそこれで良かったのだと自分に言い聞かせるように無理やり納得させたが考えれば考える程に後悔の念が浮かび上がりあの夜に戻りたいとさえ思うようになる。
少し離れたところに立つ彼女の背後から足音を立てずに近付き外堀を埋め気付いた時には逃げる場所などとうの昔に無くなっていて視界には自分しか入らなくなっているように____
自身の念密と言い難い計画とは違う形になってしまった告白は想像していた中で一番最悪の結果へと収まった。
告げて仕舞えばある程度の距離を置かれる事は覚悟していた。だからこそ大きく動いて仕舞えば簡単に届きそうな一歩を何時までも踏み出せず、踏み出さず決して言葉にはせず、けれど言葉以上に全身で届くようにと接してきたのだ。彼女がはっきりと拒絶を示す事など無かったから。
擦るように付けた頬を上げ腕を枕のように入れ込めば背もたれには頼らず浅く座ったデスクワーク用に作られたセットの椅子がそれ独特の音を立てる。
「寧ろ何か言ってくれた方が楽なんだけど」
膨らませた風船の空気を徐々に抜くように深く深くため息を漏らす。誰に届く筈もない言葉は主の代わりにと返事を一つ鳴らした腰掛けるそれと被るように消えた。
連続するように続く毎日に放り出されるように無理やりに戻ってきてから、自分の言葉など届いていなかったかのように振る舞う彼女の心情は一切読めず次の一手も思い浮かばずに立ち止まり続ける現状を見れば一層の事もう関わるなとはっきり言われてしまった方が良かったのではないかとさえ思う。
例えば彼女からすればあの夜の事などさしたる問題では無くて取り上げて扱う台詞として認識すらされていなかったとしたら、彼女の中の自身の立ち位置は出会った当初や此処に大して出入りする事のない人間と変わりないという事ではないか。答えのない告白は頭がおかしくなりそうな程に味わった事のない感覚を身体に覚えさせる。
最後の力を振り絞るように薄く開けた瞼をゆっくりと下ろす。目下最大の難問は一先ず放棄し再び襲ってきたそれを逃さぬように追い掛けた。
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