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この季節の好きな所を挙げようとすればひとつ目から躓くくせに、嫌いな所を挙げ出せば空調の効いた部屋から一歩出て味わうじっとりとした暑さや歩き出せば止まる事を知らない汗、国籍を変える勢いで狙いを定める紫外線や何処に転がっているか分からない地上に出て1週間の短い生命を全うした其れなどキリがない。何かしらの良心が働いて振り出しに戻るように定番どころの行事を思い浮かべてもあまりピンとくるものは無くて、考えながらも進めていた書類作業をも止めてしまった。開いたままのパソコンを再起動し検索ボタンを押してみても出て来るのは誰にでも想像出来るようなものばかりで、結局皆同じような夏を過ごしているのかと冷めた事を考える。
長く長く心身を休める事が出来るのは所詮学生達の特権で、変わらず働きに出る立場になって仕舞えばこんな作業も意味の無い事かとため息を吐き、暫く直角に開いたままだったそれを閉じた。
気分転換にと窓際に立ち寄れば夏の雲が出ていてこれが有ったかと思い直す。学生時代、握ったペンを動かすことも忘れて青をくり抜くように浮かんだ白の、次々と変化する様を夢中になって追い掛けていた。
それはずっと近くにいて此方の様子を伺っていて、ふと視線を向け確認した筈なのに気付いた頃にはまた別のなにかへと変わっているから、目を離すことなど出来なかったのだ。
「あつはなついなあ、って言うんだって」
「うわびっくりした、ノック!」
白衣に両の手を入れ瞬きも忘れてぼんやりと見上げ眺めていれば、突然聞こえた背後からの声に大きく肩を揺らしてしまう。振り返れば本日一人目の来客は思ったより近いところに立っていて遊ぶように笑いながら並び空を見上げた。
「俺たちの間にはもう必要無いかなって思ってさ」
悪戯を仕掛ける前のような企んだような笑みを浮かべながら視線を落とし此方を見る。何の話をしているかなど考える事も無くすぐに理解して、余裕綽々といった彼の姿に眉を寄せ足を踏みつけようとすれば簡単に避けられて鼻で笑われる。
「…謝ってきたら、許そうと思ったのに」
「謝んないよ。俺もう我慢するのやめたんだもん」
あの日の夜考えて考えて出した結論は結局彼の出方を伺うという何とも情けないもので、しかし此方からは動きようが無いのだからと言い訳をするように自身を納得させた。彼がそれを無かったことにと望むのなら一時の気の迷いだと信じそれに付き合おうと思っていたし、あれで繋がりごと切れてしまうのなら其れもまた縁だと受け入れようとしていた。気付かなかったとか、分からなかったとか言うほど鈍感では無くて、ただ一線を越えてしまわぬ様にと何処かで確かに作っていた壁も今この瞬間に崩れてしまったのだと理解する。
だからどうなんだと、散々頭を悩ませたこの場合の対処法も確かにあるはずなのに、いざとなると口を開くことが出来ない。
すっかり目線は足元に向かっていて、彼の靴は此方を真っ直ぐとして向かっているのに履き慣れた自分の靴の先は逃げるように未だ窓に向かう、別方向にあるのが分かった。
「…俺を甘やかし過ぎたのは、名前ちゃんだよ」
「甘やかしてなんか、」
ない、と言おうとしたところで修学旅行の夜の件が頭をよぎる。今と同じように正面から向かってくる彼を避け作るように貼り付けたお面で目を瞑ったのは紛れもない自分でけれどそれは彼でなく、壊したくない何かを守るように自分をどろどろに甘やかした結果だった。彼が我慢をやめるというのならば自分がすべき行動などひとつで客観的に見ても紛れもなくそれが最善の策だというのに、外から穴を開けるように壊された壁の前に立ち動こうとしない足は自分の意思でどうこう出来るものなのかと問いたくなる程に重い。結局大人になったのは年齢や立場だけでそれに見合う程の物など手に入れては居なかったのだと目を伏せた。
「大体名前ちゃんが先生なんかやってるからこうなったんじゃん」
「…理不尽」
そうでなければよかったと言うような拗ねた台詞のくせに、実際はそうでも無いような、振り切ったように笑っていた先程とは打って変わって悲しさと何かが入り混じった様な弱々しさは隠せていなくて、顔を上げてみれば堪えるように眉を寄せ無理やりに口角を上げる姿があって、その目に映る自分の姿も彼と良い勝負の酷い顔をしていた。
見ていられなくてまた、視線を落とす。
「赤羽くん、私は」
「やだ」
「…まだ何も言ってないじゃない」
両頬に触れられ、半ば無理やりに顔を上げさせられると、逸らすことなど許さないというような目が此方を真っ直ぐに見つめていた。その立場は何時も私だったのに、いつの間にか立ち止まることをやめ進み始めた赤は目に痛いほどに映った。
「もう面倒くさいこと考えんのやめたんだよね。俺はまだ誰かさんが羨ましがるほど若いからさ」
名前ちゃんもあんまり考え込んでるとシワが増えるよ、と勝ち誇った表情で笑う彼の未だ両頬に触れる手を力の限り抓り離れると、本日2度目の来客を知らせるノック音に返事をした。
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