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学生の本分はと問われれば恐らく半数以上が勉学と答え、しかしそれが将来何の役に立つのかと思春期に有りがちな問いを投げかけられると誰もが納得するような答えを示す事が出来る者は決して多くないのではないだろうか。
次に大切な物はと脳を働かせれば、それは集団の中で生活するからこそ起こる誰もがぶち当たり学生の大半の悩みである人間関係や部活動特有の上下関係、自立信条協調など学校全体の教育理念のようなものなどキリがない。それら全てを学べるのが当事者達にとっては長い、けれど終わって仕舞えば長い人生の内のほんの一部に過ぎない学校生活である。
1日の大半を其処で過ごすものだから学生達には学校というのが生活そのものであって全てと言っても過言ではない。其処にいる教員が彼らのインストラクターであって各々の教えを説き道を示し正すことを仕事としており同じ時間を共有する。思い返せば学生時代教員に好意を寄せはしゃぎ騒ぐ同級生など珍しくはなかったし、しかしそれもまた季節が移り変わる間に波が引くように収まっていた。時間を共に過ごして仕舞えば理屈では如何にも出来ない異性への感情はその年頃であれば余計に、立場の違いによって生み出された障害も応援して燃え上がるものだったのだろうと少しだけ歳を重ねた今、そう思う。
憧れからくる敬愛に気付かずまさにそれが真実の愛だというように語っていた友人の姿を思い出し、それと比べるようにずるいと言った彼を浮かべた。
此方の都合など知る由もない夏は既に何処かへ去る準備を始めようとしていて一足先に教員達の休みも終わりを告げていた。学校としての休みは続いていて訪ねてくるのは軽い怪我をした運動部や暇を持て余した教員だけで、とりわけ急ぎの仕事などない今、先ほどまでは確かに此処にいる意味など大して見当たら無かったのにとため息を吐いた。
数十分程前に静寂を崩すように鳴った携帯電話は見覚えのある、けれど登録した覚えなどない名前を表示していて戸惑いながらも早く出ろと言わんばかりに鳴り続ける其れを記憶を遡りつつ耳に当てた。定型文を言う前に思わず漏れた疑問の言葉も聞き慣れたその声に掻き消されて既に仕事中だと先に彼の問いに答えれば、了解を示す軽い言葉を発して一方的に切られた。繋ぐ相手のいなくなった無機質な電子音は眉間に皺を寄せる材料にしては十分過ぎて、行き場の無くなった其れと一緒に白衣のポケットに押し込めるように戻し、彼の我慢していたものとはこの強引さをも含まれるのかと宙を見上げた。
「旅行先で突如未確認ウイルスによる集団感染が発生した場合は?」
「…現場の状況によって詳しい対処法は変わるけど、まずは空気中の飛沫や接触感染の可能性を考え個室を用意し、患者を安静にさせる。触れることが多いドアやトイレは熱いお湯やアルコールによる消毒でウイルスを殺菌し、数の増加を防ぐ。後は症状を見て判断ね。発熱の場合熱を下げる為に水は大体2リットルを目安に飲ませる。ストローを付ければ量を調節しながら飲めるから飲料水はこれがおすすめ。内臓も弱っている場合通常の食事だと嘔吐や下痢で出してしまう場合があるから固形物を避け飲み込みやすい液体に近いものにする。おかゆやお湯に栄養価が高く、免疫力を高くする効果がある食物を混ぜたものがベスト。未確認ってことは治療薬もないって事よね?だったらあまり妙な事はせずに病院側の判断に任せるのが一番いいけれど」
気を使い戸を叩く事など最早選択肢に無いらしく、勢い良く扉を開けたかと思えば挨拶もなしに完全に養護教諭の許容範囲を超えた前例の無い問いを投げかけて来る。ほんとにせんせーだったんだ、とからかうように笑う姿を見れば先ほど浮かんだ憧れと敬愛の文字は即座に消えた。
彼の分の珈琲を出そうと立ち上がれば、俺にもキャラメル入れてと声が掛かる。
「甘いのは嫌いじゃなかったの?」
「んー、今さら大人ぶってもって感じだしね」
ほんとは大好きだったと呟く彼は何処となく以前よりも居心地の良さそうにしているように見える。それがやはり嬉しくて、けれどそうなった経緯は決して人に言えるような物ではなかったことを思い出して自然と上がった口角がしぼむように戻っていった。
「……そうだ、これ渡しに来たんだった」
「…かわいい!」
ただの気まぐれかはたまたA組の代わりに行った旅先で何か有ったのか、切り替えるように質問の意図を尋ねようとすれば胸ポケットから出された細身のペン。白を基調とした其れには肉球の模様が描かれていて、トップには猫のシルエットが施されていた。素直に嬉しくて礼を言い手に取り転がしていればお礼はちゅーね、とかなんとか聞こえた気がしたが無視をする。南国の島から帰ってきて暫くしてからの予想外の彼からの土産に、沖縄らしさがないとかそういうのはどうでも良くて胸元についた白衣のポケットに其れを引っ掛けた。
「名前ちゃんはさあ、悲しそうな顔より怒ってる顔の方がいいよ」
「普通ね、そこは笑ってる顔って言うの」
現状を見れば悲しそうな顔のきっかけも、怒ってる顔の原因も共通してひとつしかないのに、タイミングを計ったように差し出されたペンとその優しさから今はまだ抜け出したくないと確かに思った。
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