B


「だって、せんぱいに、ひどいこと言うから」
「それで殴ってどーすんの」

怒り狂ったあの教師のいる場から連れ出すようにひかれた手はすごく暖かくて、何時もなら泣きながら喜ぶ筈なのに今はそんな余裕すらも無かった。



いつもの如く勢いに任せて立ち上がったものの、響いたのは床と椅子とが擦れる音のみで机と椅子とがぶつかるような音は聞こえなかった。普段ならこのまま教室に残された者の事など気にせず振り返らずに駆け出すところだが、やはり違和感は拭えなくて一歩踏み出す前に後ろに首を回す。
前後左右の幅を均等に割り振られた教室内から外れるように大きく開いた空間は目測1メートル以上で、彼の後ろの席の迷惑そうな顔をする学友に目を移せばそちらの幅はゼロに近いものだった。勝ち誇ったように笑う顔と暫く見つめ合い、足を進め、抵抗するように掴む手を無視して隣と合わせるように其れを引き寄せ元の位置に戻す。学友からの賞賛の声と聞き慣れたブーイングを背中に受けすっかり時間を取ってしまったと廊下を駆け出した。





辿り着いた其処を幾ら見渡しても見慣れた赤は目に入らず、代わりに出てきた水色に行き先を告げられ、職員室デートも悪くないな、とか呑気な事を考えスキップする勢いで廊下を進んでいた数分前とは打って変わって、好きな人と共に歩いているというのに今はその足取りは酷く重い。
繋がれた左手とは反対の、ぶつけたように赤くなった拳を見て目を伏せた。

「しかもグーって。ほんと流石だわ」

お腹を抱えて笑うせんぱいなど初めて会話を交わしてからどころか見守り続けた半年間ですら目にしたことは無く、何時もなら写真に収めようと動く筈なのに右手は捉えられたように動かず、代わりというように目から涙が溢れる。気付いたように笑うのを止めたせんぱいは何も言わずただ黙って私の頭に手を置いた。
授業時間外の特別教室付近というのは静かなもので今いる廊下も同様に人の気配を感じず、静寂に溶け込むように涙だけを落とす。

「せんぱいが、悲しそうな顔をするから」
「してないよ。職員室に乗り込んできたかと思えば教師殴って右手腫らしてるバカ見て笑ってる」

それだけだよ、といつもよりも優しいトーンであやすように頭を撫でられれば止まることを知らない涙が堰を切ったように溢れ出る。

「なんで余計に泣くんだよ。3割増しブサイク」
「…もっと優しく拭いてください」

当てられた袖で乱暴に拭われる。溢れる涙を止めるように行われるその作業を繰り返していればいつの間にか涙は止まっていた。
憎まれ口を叩けばぐにっと両頬を引っ張られまた今日もお風呂場での悩みの種が出来たな、と徐々に何時もの思考を取り戻す。

「…隔離校舎とか関係なく通い続けます」
「それすっげー鍛えられんじゃね」

いつもより少しだけ近い距離が嬉しくてもう仲良くなれたかな、と初めて話したあの日を思い出す。



「各授業の休み時間では足りないので1日3回朝昼夕のみとなりますが、正規ルートとは別の最短ルートを見つけ出すまで暫しお待ちを」

「薬の使用方法みたいに言うね。…夕だけでいい。あの道は危ないって聞くから、俺が迎えに行く」



また怒られるかな、と思いながらも口に出せば聞き捨てならない声が聞こえて勢いよく顔を上げる。
悪戯を成功させた子供のように笑う彼が近付いてきて、お守りのように持ち歩くあの写真にしか触れたことのない其れが触れ合うまで、あと3秒。


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