心臓から一番遠いこの愛に
視線の先に瞳があって、ふとした瞬間に視線が絡み合うなんて、なんて幸せなファンタジーだろうか。
半歩先を歩く緑頭を見上げて、なまえは密かに嘆息した。
自動販売機の天辺よりも上にある緑の瞳は、たとえこちらを見ていたとしても、視線がぶつかるなんてことはまず無い。何せ、あちら側から見えるのは、こちらの脳天くらいなのだから。
「……緑間くんって、ほんと大きく育ったよね。中学入った時とか、こんなだったくせに」
なまえは、自らの脳天よりも少しだけ高い位置に手をかざして、唇を尖らせた。
待ち合わせに関してだけ言えば、苦労したことは無い。日本人の平均身長が伸びたと言われる昨今でも充分すぎるほどに目立つ195センチは、見失うことの方がよほど難しい。
今日だって、そこそこ混んでいるショッピングモールでの待ち合わせという、一歩間違えれば遭難しかねないシチュエーションにも関わらず、その実力を遺憾無く発揮していたほどだ。
だが、その他の点においてはどうか。そんなの、言及されている当の緑間真太郎本人がなまえにようやく目を合わせて、『もう一度』を視線で要求している時点で明らかだった。
「……もー! 緑間くんの巨人! 緑頭! 10センチくらい削れちゃえばいいんだ!」
「急に何なのだよ!」
隣を歩く恋人が何かを言ったが、ショッピングモールの喧騒にかき消されて聞き取れなかったからもう一度を要求したら罵倒された。緑間からすれば、これほど理不尽なことも無い。当然、なまえだってそんなことは重々分かっている。分かっているのだが、ふとした会話も成立しないほどの身長差を前にしては、文句だって言いたくなるというものだ。
「そりゃあ、緑間くんはただすくすく育っただけだよ。分かってるよ。私が文句を言うべきは、緑間くんの成長ホルモンとか骨の方だよね、うん」
「……本当に何なのだよ」
急に文句をつけたかと思えば、勝手にひとりで納得する。なまえの奇行に巻き込まれた緑間は、ただただ怪訝そうな顔をするばかりだ。
「緑間くんがあと10センチくらい縮んだら、ショッピングモールを歩き回るのにも、こんなに歩幅とか合わせてもらわなくても良かったのになあって話だよ」
緑間の表情が、怪訝な顔から、眉間に皺が寄った顔になった。今度は緑間も何も言わなかったが、言わんとすることはその顔を見ればだいたい分かる。敢えて言語に起こすなら、『お前は何を言っているのだよ』といったところだろうか。
「10センチって、結構大きくない? 私が10センチ分身長を盛れば良いのかな。緑間くんは背が大きい女の子ってどう思う?」
「……5センチのヒールで足を震わせていたのはどこの誰なのだよ。転んで怪我をするくらいなら、最初からやめておけ」
冷たく、突き放すような言い方だが、中身は全くそうではない。緑間真太郎という男は、口ぶりが誤解を招くだけで、冷血漢ではないのだ。
緑間が止めているのだって、正しくなまえの負傷を心配しているからに他ならない。本人は、それを頑なに認めないだろうが。
「過去は過去だよ、緑間くん。私だって頑張れば、10センチ盛れるかもしれないよ? そうしたら、緑間くんももうちょっと自分のペースで歩けるし、キスとかも楽なんじゃない?」
「……オレは、オレの利便性の為にお前に怪我を負わせても構わないような男に見えているのか」
緑間の声が、ほんの少しだけ低くなった。緑間真太郎という男は、整った顔立ちときつい物言いに隠れてしまうだけで、ちゃんと感情的だ。そんな緑間の声が低くなったということは、そういうことだった。
しかし、その程度で大人しく引き下がるなまえでもない。
「む。これは緑間くんの利便性だけの問題じゃないんだよ。私だって、私の方から緑間くんに不意打ちで色々出来るって利点があるのに」
「その利点は、お前が捻挫や骨折をするリスクと比べれば些細なものなのだよ」
「言ったなー!」
「ああ、言ったのだよ。加えて言うならば――」
不意に、緑間の瞳が、真っ直ぐになまえの目を見た。見下ろすでも、見上げるでもなく、ただ真っ直ぐに。
なまえがその意味を理解したのと、緑間がぶっきらぼうに唇を押し付けてきたのは、きっと同時だった。
刹那よりも短い時間の果てに、緑間が離れていく。夢か幻を疑う一瞬であったのに、緑間の勝ち誇ったような薄い笑みが、全て現実であったのだと教えてくれる。
「――キス程度で、恋人にリスクを背負わせる程に支障をきたすと思ったか」
「そ、そんなに膝曲げて、屈んでるくせに! 支障きたしてるでしょ!」
「結果的に成功しているから良いのだよ。問題は無い」
どういう理論だ。文句のひとつも言いたくなったが、なまえは結局諦めた。
まだうっすらと唇に残っているような気がする熱と残り香を手放すには、あまりにも惜しい。
緑間は、曲げていた膝を伸ばし、いつもの目線に戻った後、短く鼻だけで笑った。
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