相互不理解のあなた
メローネ基地の外には、すっかり夜の帳が降りている。どうせ聞こえているはずも無いのだが、時計の針に全く目もくれず、パソコンのモニターばかりを見つめるばかりのその人に、一応後ろから声をかけてみる。
「入江様、お疲れ様です」
返事は無かった。分かっていたことだが。
我らが第二部隊の隊長は、最近は何だか、いつにも増して忙しそうだ。いつだって、私には内容の分からない数字と記号の羅列やら、用途不明の機械やらを睨みつけているその人のデスクには、空になったコーヒーの空き缶がごろごろ転がっている。
「入江様、カフェインは胃腸に悪いですよ。たまにはコーヒー断ちなどしてはいかがでしょうか」
入江様の邪魔にならないように、デスクの外周から空き缶を拾っていく。こんなに空き缶ばかりをデスクに散りばめていれば不便だろうとも思うのだが、技術屋という生き物は、立ってデスクから離れる労力さえ惜しむように出来ているらしい。私には分からない生態だ。
入江様の研究は、私では理解出来ないほど難解で、それと同じくらい、入江様そのものも難解極まりない人だった。
「……ああ、なまえちゃんか」
モニターのそばに転がっている空き缶を拾った辺りで、入江様も私に気が付いたらしい。入江様が耳から外して首に下げたヘッドホンからは、ジャカジャカとギターの音色が漏れ聞こえていた。これほどの音量で音楽を聴いていれば、私の声に気付くはずも無い。
「はい、入江様。お疲れ様です」
「うん、ありがとう。これだけ片付けたら僕も休むから、なまえちゃんも早くお休み」
入江様の眼鏡に、白い背景色と、黒々とした意味も訳も分からない数式がちかちかと反射して見えた。これだけ片付けたら、のこれだけがどれだけかは分からないが、どうせ今晩もろくにベッドに入らず、デスクで寝落ちているのを誰かに発見されるのだろう。入江様は、最近は毎晩そうだった。
デスクなんかで気絶するように眠ったところで、体力なんてろくに回復しないだろう。
だから、今だって入江様の目の下には黒々とした隈が出来ているのだ。
「お心遣いありがとうございます。……ですが、入江様の方こそ、お休みになられてはどうでしょうか」
「はは、うん、そうだね……。でも、これは僕がやらないといけないんだ。誰にも代われない大仕事なんだよ」
白蘭様から、また何か無茶な仕事でも任されたのだろうか。その割には、あのいつものひどくお腹の痛そうな顔をしていないのだが。
「入江様、私達で出来ることでしたら、お手伝い致します。私達もチェルベッロも、入江様の為でしたら――」
「いや、良いんだ。これは、僕のやるべきことだから」
入江様は、疲れた顔で苦笑しながらも、はっきりと助けを振り払った。最近の入江様は、いつもそうだ。何だか難しい顔をして、何だか難しいあれやこれやと向かい合って、そのくせ助けだけは全て突っぱねる。
私には、入江様の考えていることが、分からない。
入江様のお考えを、全部つまびらかにして欲しいだとか、そんなわがままを言うつもりも無いけど、せめてもう少し、知りたかった。
入江様がそんなに忙しそうにしている理由も、いやに慌てて研究に耽っている理由も、時々研究施設の巨大な機械を見上げては、何かを噛み締めているような、ひどく大きなものを背負っているような顔をする理由も、私達には、欠片も教えてくれないのだ。今も、そして多分、これから先も。私は、私達は、入江様の命令に忠実に従う、入江様の部下なのに。
「……入江様、空き缶だけ、片付けさせていただきます。お休みなさいませ」
「うん、お休み。なまえちゃんはちゃんと休むんだよ」
ほら、やっぱり、今日もろくに休む気が無い。
それなのに、ただの部下でしかない私には何も指摘する権利が無いから、私は空き缶だけを抱えて、下がる他に無い。
温度を失ったスチールの空き缶が、ひやりと冷たい夜だった。
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