フェイク・ブルーアップル

 かろかろ。ころころ。隣から聞こえる微かな音を、正しく文字に起こせばどういう表記になるのか、片桐は疲れきった頭で少しだけ考えた。

 眼球の奥が重い。多分幻覚だ。トリオン体に、疲れ目で頭が痛むような機能があるなんて、片桐も聞いたことが無い。
片桐が感じる、身体の不調に似た感覚も、きっと片桐の肉体ではなく、意識が知覚している疲労の蓄積に違いない。
隣から漂う、爽やかで甘い、果物の匂い。作り物で、本物とは違うものだが、作り物には作り物の味がある。

「……なまえ。飴、美味しいか?」
忙しない、かろかろの音がしばし止む。
代わりに、なまえはボーダー内併設のコンビニのロゴが印刷されたレジ袋に手を突っ込んで、プラスチックの小袋で個別包装された飴玉を差し出した。

「……片桐くんも、食べてみる?」
片桐の質問に、質問で返したなまえの声色に混じって、やはり作り物めいた甘い匂いがした。

 所詮、ほんのちょっとの果汁と、香料と香料の組み合わせだ。どこかで馴染みのある香りなのに、その正体は掴めない。
僅かに考え込んでから、片桐は飴玉を受け取ることにした。
短く礼を述べて、飴玉が片桐の手に転がる。

 透明な小袋から、飴玉の色が見えた。蒼かった。
おおよそ食べ物とは思えない色だ。飴玉だから許される色だと言ってもいい。鮮やかな青なんて、飴玉だから見逃されるだけで、食べ物が帯びていていい色ではないのだから。

「青りんご風味なんだって。青りんごだから飴の色も青いって、なんか安直だね」
どこかで馴染みのあるくせに、正体不明。そんな香りの正体は、どうやら青りんごであったらしい。片桐は、なまえの感想に相槌を打ちながら、小袋を開けて、飴玉を口に放り込んだ。

 甘い。爽やかな果物のフレーバーと甘みが、片桐の口に広がった。
かろかろと、例の文字に起こせない音が、頭蓋骨を伝って片桐の鼓膜を震わせる。飴玉が歯にぶつかる音は、どこか軽やかで、どこか鈍くて、奇妙な感覚がした。
「疲れてる時は甘いものって聞くけど……。飴玉で効くかなあ。疲れた時は素直に寝た方が効くに決まってるもんね」

 なまえが心配そうに眉を寄せる。近頃の片桐は、多忙だった。
片桐に限った話ではない。閉鎖環境試験が始まって、ボーダー隊員の中でも結構な人手が試験に挑み、残った隊員もその審査や人が減った防衛任務でてんてこ舞いになっている。

 片桐は現在ほんの少しの休憩を得ているが、これが終われば次は閉鎖環境試験のA級審査だ。トリオン体は疲労を感じないとはいえ、神経が、意識が、精神が――兎角肉体ではない部分が、疲れているのを感じた。

 それは、閉鎖環境試験に選ばれず、こちら側に残っているなまえも同じことだろう。飴玉を食べきったらしいなまえが、小さく欠伸を噛み殺すのが見えた。大方、唐突に飴玉なんて舐め始めたのも、眠気覚ましの一貫だったに違いない。効能があったかどうかは、片桐にも分からないが。

「そうだな……。確かに、最近疲れるな。普段のシフトの有難みが身に染みるよ」
「防衛任務のシフト、普段こんなにぎゅうぎゅうじゃないもんね」
目尻に浮かんだ生理的な涙を、猫が顔を洗うのに似た仕草でくしくし拭って、なまえが間延びした相槌を打つ。相当眠いらしい。

「片桐くん、次審査だっけ? 私防衛任務だから、これあげるよ。A級の人達もすごく疲れてるだろうから、甘いものでもどうぞーって」
未だ目の辺りを拭っているなまえが、片桐にレジ袋を押し付ける。中を覗けば、さっき片桐が貰った飴がごろごろ入っていた。買ったばかりで、ろくに食べていないのだろう。

「……良いのか?」
「良いよ。防衛任務中に飴玉舐めてたら、同じシフトの人に怒られちゃうもん。むしろ片桐くんや他の人の眠気覚ましになれるなら、飴も本望だよ。多分ね」

 よく分からない理論だが、飴玉によって思考が少しクリアになった片桐は、素直に飴玉を受け取っておくことにした。
飴玉も本望かどうかは定かではないが、糖分が必要な隊員も少なくないだろう。彼らはきっと、自らに不足している栄養を察して、自分から糖分を摂取しているだろうとも思うのだが。

「サンキュ。なまえも、頑張ろうな。もう少しして、試験が終われば、きっとまたいつも通りだ」
「ん、頑張ろうね。私ももうちょっと頑張ってみる」
片桐にレジ袋を押し付け、手ぶらになったなまえが手を振りながら廊下の向こうに歩いていく。防衛任務に向かうのだろう。

 その背中を見送って、片桐はA級審査に向かう。手の中でレジ袋がさざめき、口の中で飴玉が砕けて跡形もなく溶ける。
互いが、互いの場所で戦う為に、廊下を行く。片桐も、なまえも、決して振り返らなかった。

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