夜は来ずとも遠からず

 執務机に、研究用の資料やら、潜書報告書やらが散らばっている。
「……タイミング、悪すぎじゃないですか」
ぼやきながら、研究書に落としていた視線を上げて、司書は椅子の上に脱力する。

 予定が本来のまま進んでいれば、司書は今頃、重治と共に、図書館の外に旅行に出ていたはずだった。温泉旅館に泊まり、のんびりと観光して、身も心も自然の中に置き、日頃の疲れを癒すような、そんな旅路になるはずだった。
そのはずなのに、何が悲しくて、この数日司書室に缶詰めになっているのだろうか。

 司書が恨みがましく睨む司書室の外は、この上なく素晴らしい快晴である。澄みきった、抜けるような青い空。雲はぽつぽつと空の高いところを漂うばかりで、天気が崩れる気配も無い、天気予報も太鼓判を押す良い天気。外出するにはまさにうってつけと言えるだろう。

 それなのに、当初の予定を全て放り出して、司書が執務机に向かっているのは、侵蝕者に関する研究が大きく前進したからに他ならない。

 それ自体は、司書にとっても喜ばしいことだ。
何せ、司書は特務司書として帝國図書館に就任してから、文学を守る為の研究と並行して、ずっと侵蝕者の研究を進めてきた。

 時にアカやアオ、時に館長、時にゲーテ、時にファウストと、様々な人や文豪の力を借りて、少しずつ進んできた研究だ。特務司書として、アルケミストとして、研究が実を結びつつあるというのなら、それに勝る喜びは無い。

 だが、何より時期が悪すぎた。
せっかく、重治と一緒に本や雑誌を読み漁り、あれやこれやと考えていた旅行のプランは、全て水泡に帰した。

 今の司書を突き動かす感情の大半は、楽しみにしていた旅行が潰れてしまった純粋な恨みである。何を恨めば良いのかも分からない。ただ、巡り合わせと言うべきか、タイミングと言うべきか、そういうものだけを恨んで、ただ手を動かしていた。
ただ、それにも限界というものがある。

「司書さん、新しい潜書報告書だよ。あとこっちは、館長さんに頼まれた研究のデータで、これはゲーテさんの研究資料で……。司書さん?」

 書類と本とその他諸々とを腕に抱えた重治が見たものは、執務机にぐったりと突っ伏す司書の姿である。

 特務司書として、アルケミストとして、そもそもそれより前にひとりの人間として、しゃんと背筋を伸ばして任務に当たらないといけない。
せめて恋人の前でだけは、何も気にしていないみたいな顔をして、平気に振る舞わなくてはいけない。頭では分かっていても、司書の気力は最初から大幅に削がれていて、もうどうしようもなかった。

「……お出かけ、行きたかったです……」
力無く執務机に溶けた司書が、未練たらしくぼやいている。
「おいしいご飯も食べたかったし、綺麗な景色も見たかったし、知らない土地の知らないものをたくさん知りたかったんですよお……。なんでよりによって今なんですか……」

 やる気は全くと言っていいほどには無いが、手だけは動いている。執務机にすっかり溶けながらも、研究の為の資料には目を通している司書の姿に苦笑しながら、重治は机の傍らに荷物を置いた。

「……そうだね。僕も、君とお出かけ出来ると思って、楽しみにしていたんだけどね。残念だったよ」
「せっかく、お休みと外泊許可までもぎ取ってきたんですよ……。あと数日ズレてれば、私達も今頃は予定通り温泉に居るはずだったのに」
「……この任務が全部無事に片付いたら、今度こそ旅行に行こうよ。今日行けなかった分まで、二人でめいっぱい楽しむんだ。どうかな」

 執務机に突っ伏している司書の視線が、重治の方を向いた。
「……本当、ですか? 今度こそ、旅行、行けますか?」
「まだ、分からないけれどね。今、どれだけ僕達が頑張って乗り越えても、また急に予定が捩じ込まれて、どこにも行けなくなるかもしれない。でも、僕は司書さんとお出かけしたいと思っているよ」

 司書は、そこでようやく執務机から上体を起こした。
萎んだやる気が、ここに来てやっと蘇りつつあるようだ。

「……私、頑張ります」
「その意気だよ、司書さん」
「私、頑張りますから、そしたら今度こそ、一緒に旅行行きますからね」
「もちろん。その為に、今は少しだけ、頑張らないとね」

 気を抜けば、未だ未練を垂れ流しそうになる唇をきりりと引き締めて、司書はやっと、帝國図書館の特務司書の顔になった。

 重治が持ち込んだ書類や資料に目を通しては、新たな研究の糧とする。
突如舞い込んできた任務は、まだ終わりが見えない。だが、それが何だと言うのだ。
重治との約束があれば、司書はどんなことでも出来そうな気がした。