限りなく永遠
花の茎を斜めに切るという知識は、帝國図書館に来てから活かせたもののひとつかもしれない。水の中に沈めた茎の先を、大胆にも鋏で斜めに切り落とす。水切りの作業だ。この方が、切り花が長持ちする、らしい。
エントランスに飾る花瓶に丁寧に活けるのは、鬼灯の枝だ。庭仕事を趣味とする文豪達が、いつの間にか中庭で育てていたらしい。
ひときわ綺麗な枝を選んで切ってきたと、麦わら帽子の下で満面の笑みを浮かべていたその人が言っていたが、全く見事に育ったものだ。成程、提灯に見立てるのも理解出来るほど、大きくて色鮮やかだ。
「へえ、立派な鬼灯だね」
帝國図書館の庭に設置された流し台の上から、声が降る。見上げれば、館内の窓から顔を出した助手が、淡く微笑んでいた。
「重治さん。さっき、犀星さんから貰ったんです。今年は肥料を変えたとかで、綺麗に実がついたんだそうですよ」
「犀さんも、こんなに暑いのに、精が出るよね。この前は、花の時期に向けて菊の虫対策をしていたと思うんだけど」
司書も、首に下げたタオルで汗を拭きながら、頷いた。
今年の夏も、兎角暑かった。猛暑なんて言葉では足りないほどの暑さだった。蝉も鳥も黙り込んだ昼時は何とも異様で、生と死の二面性が色濃く香り立つようだった。
そんなひどい夏の間も、犀星はせっせとと早起きしては庭に出て、太陽が頭上で痛いほど照りつける昼時は館内に戻り、夕方もまた庭に出ていた。その成果のひとつが、立派に色付いた鬼灯だ。暑さにすっかり参っていた司書は、尊敬するやら驚嘆するやらだが、真似が出来ないことだけは確かだ。
「そうだ。鬼灯、枝付きが立派で、花瓶ひとつに収まらなかったんですよねえ。重治さん、花瓶をエントランスまで運ぶの、手伝ってくださいよ」
「ん? 構わないよ。今からそっちに行くから、日陰で待っていてね」
優しく言い置いて、重治の頭が窓から引っ込んだ。司書からすれば、少しわがままを言った自覚があったのだが。
庭はこんなに暑くて、ただ立っているだけでも汗が噴き出すほどだが、一歩図書館の中に入れば、館内は空調のおかげで快適そのものだ。それを、花瓶の運搬の為だけに、わざわざ涼しい館内から暑い屋外に出てきて欲しいなんて、とんだわがままだ。司書だって、半ば冗談で言っただけで、こんなにあっさりと了承されるとは思っていなかった。
言ってしまった以上、今更撤回する訳にもいかない。言われた通り、司書は花瓶をふたつ抱えて、庭木の下で重治を待つ。
木漏れ日がゆらゆら揺れて、強烈な陽射しと濃い影を交互に投影する。庭に張られた芝生が、眩しいほど青々しい。ぬるい風が肌を撫でて、庭を駆けていく。蝉も鳴けない暑さを乗り越えたみんみん蝉と油蝉が、競い合うように、耳が痛いほど盛んに鳴いている。
暑さも、光も、音も、五感で捉えられる全てが、夏だった。
蝉時雨ではかき消せない声が、優しく司書を呼ぶ。
「司書さん、お疲れ様。麦茶を持ってきたよ。少し休憩してから運ぼうか」
日なたから、いそいそと木陰に入った重治は、そう言ってペットボトルを差し出した。よく冷えているのだろう。ペットボトルの表面には、結露した水滴が浮いている。
司書だって、長時間外に居た訳では無いし、水分を補給してから庭に出たはずだが、それでも冷たい飲み物というものは、それだけで魅力だ。熱気で満たされた司書の全身が、あのひんやりとした喉越しを欲している。
「……はい、ありがとうございます、重治さん。有難く頂きます」
早く運んでしまおうとか、思っていたはずだった。さっさと花瓶を飾って、涼しい館内でのんびりするのだと決めていたはずだった。
だが、そんな決意さえ揺らぐほど、冷えた麦茶というものは、とんでもなく魅力的だ。だって、こんなに冷えているのだ。そんなものを、陽射しに熱された司書の目の前に差し出されて、いらないと突っぱねられるはずがない。その温度はまさに、司書の全身が欲している冷たさなのだから。
今はお言葉に甘えることにして、司書は差し出されたペットボトルを受け取った。冷たい。ペットボトルを持った手のひらが、もうひんやりと冷えていく。
キャップを開けるその行為だけで、火照った手のひらから熱が冷めていくようで、司書はほうと息を吐いた。
ペットボトルに口をつけて、ゆっくりと傾ける。途端、溢れる冷たい麦茶の温度に、司書はきゅっと目を閉じた。恐らく、味としては普通の麦茶なのだろう。何処にでも売っている、在り来たりな風味なのだろうとは思うのだが、こんなに暑いというだけで、この世で一番美味しい飲み物に思えてくる。
鼻に抜ける香ばしい香りも、舌に乗るひんやりとした旨味も、全てが至上と伝達される。細胞の一片に至るまでが喜んでいるのを、感覚で悟る。
口に含んだ麦茶を飲み下せば、食道から胃に至るまでの臓器で冷えた温度を感じた。
「……美味しい」
心の底から、魂の底から、言葉がこぼれる。噛み締めるようなちいさな声を聞き取って、重治は穏やかに破顔した。
「良かった。今日も暑いからね。水分補給しないと、身体に悪いよ」
肌を撫でる風が、さっきより少しだけ涼しく感じる。麦茶のおかげで、体温が下がったのかもしれない。重治のおかげで、ただ暑かった庭が、少しだけ表情を変えた気がした。
五感を取り巻く夏が、ほんの少しだけ、魅力的に思えた気がする。
「……ん、重治さん、ありがとうございます。もう少し頑張ったら、アイスでも食べましょうか」
「アイスかあ。良いね。じゃあ、あと少しだけ、頑張ろうか」
滲んだ汗をワイシャツの袖で拭って、重治が笑う。つられて、司書もへらりと笑った。
明日も、明後日も、その先もずっと、こんな日が続けば良いと思う。暑いのは、もう嫌なのだが。穏やかで、優しくて、色褪せない日々が、永遠に限りなく等しいくらいに続けば良い。
鬼灯は、花瓶の中で静かに運ばれる時を待っている。作業後のアイスに胸を踊らせて、司書は花瓶を持ち上げた。